この先楽園行き



ローから連絡を貰い、話に聞いていた部屋を見に行ってきた帰り道。
築年数は浅いわけではないけれど、リノベーションされたばかりの部屋は広く綺麗で、川に面した窓は大きく、たっぷりと溺れそうなほど陽の光を取り込んでいた。

「ねえ、ほんとにあの部屋貸してもらえるの?」
「あァ」
「しかも、あの値段で?」
「おれの知り合いだってことで特別にな」

土曜日の夕方ということもあって家族連れや恋人たちとすれ違いながら私の家へと続く道を歩く。大学の友達の知り合いから部屋を紹介してもらうと両親に伝えたら、挨拶をしたいから家に連れてくるように言われたのだ。
隣を並んで歩くローを見上げると、夕焼けに照らされて黄金色を湛えた瞳が私を映した。

「至れり尽くせりすぎて怖いんだけど」
「……まァ、大丈夫だろ」
「え、待って。何、その間!怖い怖い!」

ローの腕を掴んでグイグイと揺さぶれば、喉の奥でクッと押し殺したように笑われる。からかわれているんだろうな、と思いつつ不思議と居心地が良くて、私までつい笑ってしまう。

「……なまえ?」

途端に近くの公園から聞こえる子供たちのはしゃぐ声も大通りを走る車の音も、すべてが遠ざかった気がした。代わりにその声だけが、鮮やかな色を伴って鼓膜を揺らす。

「ページワンくん」

弾かれるように振り返れば、思っていた通りの彼の姿に大きく心臓が脈を打った。吹き抜けた生ぬるい風が垂れた前髪を揺らし、覗いた瞳は戸惑ったように揺れている。
その表情を見た時、頭で考えるよりもずっと早く体が動いていた。軽く掴んでいただけのローの腕に手を回し、ぐっと自分の方に引き寄せる。

「彼氏」
「は?」

低い声を出したのはローで、ページワンくんは瞠目したまま何か言いたそうに肩を震わせたけど、彼が言葉を発することはなかった。その口が何を言おうとしていたのか考えて、聞けなかったことにわずかに失望し、一方で安心した。

咄嗟にローを彼氏と嘯いて紹介した時、脳裏をよぎったのは私を祝福してくれる彼の姿で、それに傷つけられたいと思った。ズタズタに切り裂かれて踏みつけられて、もう元には戻れないのだとトドメを刺されたかった。

「これから一緒に家に行くとこだったの。ページワンくんもデート?」
「いや……おれは姉貴に買い出し頼まれて」
「あー、暑いのに大変だね。じゃあ、私たちは行くね」

彼に背を向けると自然と必死で貼り付けていた笑顔が消えた。何も言わずに私に腕を引かれてくれているローの視線を感じたけど、見上げる事は出来ない。

角を曲がったところで、ようやくゆるりと腕をほどけば、呆れ返ったような大きな溜め息が降ってくる。

「……いつおれはお前と付き合ったんだ」
「さっき付き合って、今別れたよ」

自分勝手な自傷でつけた傷は泣くほど痛くはなくて、なんとかまた笑うことは出来た。だけどその笑顔も不格好だったのか、ローは痛々しいものでも見るように眉をひそめて、そっと私から視線を逸らした。

「あれは?」
「向かいに住んでる高校生。幼馴染なの」
「なるほど、それで家出んのか」

その質問は曖昧に濁してふたりで並んで歩き出せば、住宅街の真ん中にある簡素な公園が見えてくる。鮮やかな緑の葉を茂らせた木々に囲まれ、ブランコとシーソーと古びたジャングルジムがあるだけの小さな公園。そこで何人かの子供たちが遊んでいるのが見える。

私たちもあんなふうにここで遊んだことがあった。いつだって先頭を走り出してしまうのはうるちゃんで、私は置いていかれないように小さなページワンくんの手を掴んでその後を追っていた。
気負うことなく、当然のこととして彼に触れることが出来た頃。あの時のまま、止まっておくべきだったんだろうか。

「難儀な恋してんな」
「……うるさいよ」

公園を見つめるのをやめて、しっかりと前を見据える。幼き日の憧憬。彼に恋をすることで捨て去ったもの。きいきいと軋む遊具の音に紛れるように、巻き込んでごめん、と呟いた。
しばらくして返ってきた、フッと鼻で笑うような吐息は存外に優しくて、暮れなずむ閑散としたこの道によく似合うなと思った。















うちで夕ご飯を一緒に食べていったローを見送ってから、お風呂を済ませて髪を乾かしていると、ぴろん、とスマホが通知音を鳴らす。
確認すればうるちゃんから、今から行ってもいいか、という連絡だった。もう化粧も落としてしまっているけど、うるちゃんならいいだろうと了承の返事をする。

髪もあらかた乾いてキッチンでお菓子を見繕っていたら、玄関のチャイムが響く。誰、と聞いてくる両親にうるちゃんだと答えて玄関の扉を開ければ、あからさまに不機嫌そうな彼女がこちらを睨みつけていた。

「一人暮らしって? 彼氏ってどういうこと?」
「あー、話す話す。ちゃんと話すから、部屋でね!」

その話をしに来るのだろうとは思っていたけれど、彼氏について大きな声で言われるのはまずい。慌ててうるちゃんの手を引いて部屋へと連れていけば、ぶすっとしながらも両親に挨拶をしているのが律儀で、少し可笑しかった。







「それで?」
「怒んないでよー。ちゃんと話すつもりではあったんだからね。まず一人暮らしはします。あと、彼氏は嘘」
「嘘?」

一人暮らしについては多分お母さんが話したんだろうけど、私に彼氏ができた話はページワンくんから聞いたはずだ。ちゃんと嘘を貫き通すならうるちゃんにだって本当のことを言うべきではないけど、彼女まで欺きたいほどのものでもない。

「ぺーたんになまえの彼氏について聞かれて……え、嘘なの?」
「嘘だけど、ページワンくんには言わないで」

うるちゃんは訳が分からないと呟きながら眉をひそめた。そして、何かに気づいたようにハッと顔を上げる。

「え、なまえってぺーたんのこと好きだったの?」
「……気づいてなかった?」
「気づいてなかったっていうか、ぺーたんのことを好きなのは当たり前だと思ってた」

勘がいいのか悪いのか分からないうるちゃんについ笑ってしまいながら、静かに、当たり前という言葉が胸を刺す。
当たり前のはずだった。疑うことなく私は彼を好きで、だけどそれは幼馴染の姉としての優しい愛情で、彼もそう思っていたのだろう。
だから、彼を一人の女として好きになってしまったとき、私は彼らを裏切ったのだ。

「どこで間違えたんだろう」

近くにあったぬいぐるみを抱き寄せて顔をうずめる。
間違えた、と言いながらも、それが本当に間違いだったのかは分からない。うるちゃんとはともかく、男女の幼馴染なんて脆いものだと知っている。私が彼を好きにならなかったとしても、いつかは疎遠になっていた可能性の方が高いのかもしれない。
だけどそれにはきっと、こんな痛みは伴わなかった。

「大丈夫でありんすよ」
「……なんでありんす言葉?」
「最近、大河ドラマにハマってるんでありんす」
「うるちゃんって昔からそういうとこあるよね」

アニメに漫画、気に入ったキャラクターの語尾を真似する昔のうるちゃんを思い出して、少し気持ちが軽くなった。すると、その瞬間を見逃さないとばかりにうるちゃんの両手に頬を挟まれる。目の前にうるちゃんの顔が寄せられて驚いた。

「ぺーたんのことはともかく、なまえはちゃんと幸せになれるの!私もついてるし!」

力強く発せられたその言葉に自然と目頭が熱くなる。一人で耐え抜くはずだった傷口を優しく撫でられて、こわばっていた弱さがほぐされていく。両目に涙を湛えて唇を噛み締める私はさぞかし不細工だろう。

「あー、うるちゃんに慰められるのつらーい」
「はァ?」
「でも、うるちゃん大好きー!」

うるちゃんの腕を振りほどいてその身体に抱きつけば、鼻水つけないでよ、と怒られる。でもそれが本気じゃないことくらいわかるし、抱きしめ返された腕の優しさもちゃんと感じられる。

思えばこれは私の初恋で、つまりは失恋だって初めてなのだ。ついた傷の治し方も知らなかったけれど、こうして少しずつ癒えていくものなのかもしれない。

このまま何の痕も残さず綺麗に治ったとき、彼を見ても何も感じ無くなるのだろうか。彼の体温も声も二度と私を震わすことはなく、この胸の疼きも痛みも一時の擦過傷でしかない。そして、また新しく誰かを愛し、それを幸せとしてしまう。
そんな未来を想像して拒絶する心はまだ傷がある証拠だと安心した。これがきっと、未練ってやつなんだろう。