この恋にお別れを



クローゼットの中身をダンボールに詰めながら、ふうっと息を吐き出した。換気のために開け放った窓から入ってくるのは夏の気温に熱された風で、空気を動かしはするもののさほど涼しくはしてくれない。額の汗を腕で拭いながら、部屋の隅にいくつか重ねたダンボールの山をぼんやりと見つめた。

引越しは夏休みに入ってからにすることにしたので、先週まではひとまず期末試験やレポートなんかに追われていた。いくつか怪しかったものもあったけれど、単位を落とすほどのものはないと思う。

そうして始めた引越し準備も順調で、少しずつ片付いていく部屋を見ながら、じわりじわりとここを出るのだという実感が湧いてきている。
冬服は衣替えの時にまた取りに来ればいいか、と思っているとテーブルの上に置いたスマホが軽快な音を鳴らした。

「……え」

通知を確認して思わず言葉を失う。まだ制服を着ている私とページワンくんがぎこちなく校舎の前で並んでいる写真しかなかったトーク画面に、ぽつん、と「今から会えないか」の文字。

心臓が激しく脈を打つ一方で、その温度はひどく冷たい。このまま静かに離れていくつもりだったのに、彼からの言葉ひとつでこんなにも掻き乱されてしまう。離れると決めたのは私なのだから、会うべきではないと冷静な心がいう。それなのにどうして、勝手に動く指が紡ぐのは正反対の言葉なのだろう。









ページワンくんから近くの公園で待っていると返信が届き、封をしたダンボールをわざわざ開けて取り出したワンピースに着替えた。天気のいいわりに風の強いせいで髪がなびく。

公園に着けばページワンくんはもうすでに到着していて、フェンスに寄りかかりながら、木立の隙間から漏れ出す光を見つめていた。

「お待たせ」
「……いや、急に呼び出して悪かった」

軽く首を振ってから彼の隣に行くべきかとしばらく悩み、結局数歩近づいたところで足を止めた。手を伸ばせば届く、ぎりぎりの距離。

「一人暮らし始めるって聞いた」
「ああ、うん。そうなの」
「……なんでだよ。家からでも十分通えるだろ」
「そうだけど」

家を出てからずっと、彼が私を呼び出すほどの用事とはなんだろうと考えていた。どんな話なら嬉しいのかも悲しいのかも分からないまま、期待と不安が入り交じっていた心は今、ひどくからっぽだ。

「あの男と住むのかよ」
「違うよ」
「じゃあ、わざわざ家出る必要なんかないだろ」

責めるというよりは説き伏せるといった必死さをもった彼の言葉に、静かに苛立ちが募っていく。
いつもなら元気に子ども達が遊んでいるここには、夏休みでみんなプールやもっと遠くの公園に行くのか誰もいない。風が木々を揺らし、葉のこすれるざわめきだけがやけに大きく聞こえた。

「姉貴が寂しがる」
「ページワンくんは?」

攻撃的で切り裂くような声、試すように覗き込む視線。それが自分のものだということに一瞬理解が遅れた。彼の困ったように彷徨う瞳を見て、ハタと我に返る。

「……ごめん、なんでもない」

こんなのただの八つ当たりだ。彼から離れるために家を出るのに、それを引き止めるようなことを言われて少し腹が立ってしまった。だけどこんなの全部、私の都合でしかなく彼にとってはなんということでもない。

どうにも思われていないのだ。あの日から一度も動いてなかったメッセージアプリに気軽に文字を打ち込めるくらい。

このままではきっと、もっと醜態を曝してしまう予感があって、一刻も早くここから立ち去りたくなる。家まで走って、蒸し暑く熱のこもった部屋でうずくまりたい。
それなのに、地面に縫い付けられたように足は一歩も動かなくて、呼吸だけが浅くなっていく。

そのとき、俯いていたページワンくんが何かぼそりと呟いた。上手く聞き取れなくて、「え?」と問い返せば、顔を上げたその表情がいやに真剣で言葉に詰まる。

「寂しい、ってそう言ったら、どこにも行かないでくれんのかよ」
「……急にどうしたの?」
「どうしたら、このままでいれる?」

その瞳は私を見つめながら、私を見ていない。そこに映っているのはきっと、甘く優しい過日の記憶だ。
理由もなく、彼が泣き出してしまうような気がした。もう立派に成長した彼が、今さら私の前で泣くはずがないとわかりながら、それでも何故か泣き出す寸前のように頼りなく見えた。
思わず手を伸ばしてしまいそうになる。昔のように、その頭を撫でてあげなくてはと衝動に駆られる。


「……先輩?」

本当に鈴でも鳴ったのかと思った。それくらい、透き通った声だった。
ハッとしたようにページワンくんが視線を私の向こうへと遣る。伸ばしきれなかった手は、虚しく行き場を失って、静かにおろした。

遅れて私も振り返れば、そこにいたのは肩ほどに髪を揃えた可愛らしい女の子で、戸惑ったように私と彼を交互に見ている。

「ノート、間違えて持ってきちゃったから返しに行こうと思って……連絡はしたんですけど」
「……あァ」

まだあどけなさの残る顔立ちには、少し前までは中学の制服に身を包んでいた気配を残し、それでも確かに少女から変容を遂げようとしている兆しも見える。

ぎゅっとカバンを握りしめる手は震えていて、だけどその視線は彼に向けたまま逸らさない。そこにはただ、彼を信じようとする強さがあった。
私を見て、警戒し、敵対されたならまだ救いはあったのかもしれない。だけど、決して揺らがぬであろうその瞳の前では、どこまでも私が部外者であることを思い知らされるだけだ。
居てもたってもいられず、張り詰めた空気を切り裂くようにパンっと手を打つ。

「引越しの準備もあるし、私はもう帰るよ。うるちゃんによろしくね」
「あっ、おい……引越し、手伝い行くから」

歩き出そうとした足を一瞬止めて、じっと彼を見つめる。これがきっと、私の愛した彼の最後の記憶になる。次に会ったときはもう、向かいに住んでいた男の子以上の感情は持たないと誓う。この愛を生涯大事に持っていったりもしない。甘酸っぱい初恋の記憶として海に沈めて、思い出したりもしない。

「彼が来てくれるから、大丈夫だよ。じゃあね」

独りよがりの別れの言葉を口にして、彼に背を向ける。
一段と強い風が吹いて、まだ枯れるには早すぎる木の葉をいくつか散らせた。