星がなくても歩ける
まだカーテンをつけていない窓から沈み始めた夕日が差し込んでいる。蜂蜜色の海のように押し寄せる光の届くギリギリのところに意味もなく立ってみる。
煩雑に置かれたダンボールの山、取り急ぎ買い揃えた最低限の家具と家電、それから使い慣れたテーブルや椅子。両親と、なんだかんだ言いながらも手伝いに来てくれたローによって運び込まれたそれらは、部屋の片隅で居心地が悪そうに鎮座している。
これがこの部屋に馴染んでいくのにしたがって、ページワンくんのことも忘れていくのだろう。
忘れる。その言葉を自然と選んだことにハッとした。別に今までも四六時中彼のことを考えているわけではなかった。むしろ、考えていない時間の方が長かったつもりなのに、忘れると考えた途端、随分と心の中がぽっかりと大きな穴が空いた気がする。
「ロー」
「なんだ」
両親は荷物を運び込んだところで帰ってしまったので、今この部屋にはローと私の二人だけだ。テレビやその周辺機器を繋いでくれているローに声をかければ、作業する手が止まった。
「この間、私たちちょっとだけヨリを戻したんだよ」
「人を勝手に使ってんじゃねェ」
眉は顰めながらも、その空気から怒っているというのは感じられず、むしろ何があったか聞いてくれようとしているのが伝わってくる。優しいなぁ、と思いつつも口にはせず、そっと近くのダンボールに腰をかける。
「彼のね、彼女に会ったよ。とっても可愛らしい女の子で、きっと彼の隣を上手く歩けるんだろうなって思った」
「負けたとでも思ったか」
「うーん、思い知らされたって感じ? ああ、こういう子が彼に選ばれるんだなぁって」
窓の外では夕日はどんどん沈み続け、もうさざなみの夜の気配を連れてきている。オレンジとピンク、それから濃紺の混ざる空。その美しさにしばらく見蕩れてから、カーテンをつけないと、と現実に意識が戻ってくる。買ってきたばかりのミントグリーンのカーテンを取りに立ち上がった。
「彼を好きなだけでもう私は特別なんだって、そんな勘違いをしてた。恋なんてお互いに想い合うから奇跡なのに、一方通行で満足しちゃってた。それが駄目だったんだよ……次はもっと上手くやる」
窓の前に立ってみると、カーテンレールの位置は意外に高く、これは椅子がいるな、と取りに戻ることにした。その時、それを止めるように背中に手を当てられる。見上げると憮然としたローと目が合った。
「貸せ」
「……ありがと」
なんなくカーテンを取り付けていくローの長い手、シャツの袖から見える腕の筋をぼんやりと見つめる。今、彼以外の男の人がこんなにも近くにいるのだということを意識して不思議な気持ちになる。
だけど、こんなふうに新しく誰かを好きになっていけたらいいんだろう。一方的に想うのでも追いかけるのでもなく、対等に歩いて行ける誰かを。
「もしも、私が寂しさに血迷ってローに付き合ってって頼んだらちゃんと止めてね」
「当たり前だろ」
「即答はひどくない?」
フッと鼻で笑ったローはカーテンの取り付けを終えて元いた場所に戻っていく。締め切られたカーテンによって窓の向こうの景色は見えなくなる。
もうここを開けても彼の住む部屋を確認することは出来ないのだ。そう思ったら急に取り返しのつかないことをしてしまったという焦りが込み上げてきた。
震えそうになる手をぎゅっと押さえて、まとわりつく不安を振り払うように首を振る。
部屋を見渡すとあらかたの家電や家具は設置し終わって、残りは一人でも何とかなりそうだった。脈動を速めた心臓が足をつける場所を見つけて、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「今日のお礼に夕ご飯を作ってあげよう」
「作れんのか」
「普通のレベルならね。あ、だから買い物は付き合って」
手を合わせて首を傾げれば、ローからは呆れたような視線が返ってきた。
「……それが目的だろ」
「この部屋に文句はないけど、最寄りのスーパーが少し遠いことだけが難点だね。自転車でも買おうかな」
「それがいいかもな」
迫り来る夜の気配を感じながら、こんな何気ない会話ができていることに救われる。彼をごっそり引き抜いてしまって軽くなった身体でも一人で歩いていけるんだって自信になるから。
これから、彼を知らないこの街で、彼の知らないこの部屋で、彼も知らない誰かを好きになる。そしていつの間にかまったく別の私になるのだろう。
そしてそれは彼だって同じことで、今の彼女と付き合い続けているとも別れたとも知らないまま時間が過ぎて、そのうちに、彼はどんな顔をしていたんだっけ、とそんなふうに思えるようになる。
そうなることを、私が選んだ。