掛け違えた僕ら



この家に住み始めてしばらくが経ち、それなりに生活にも慣れ始めた。うるちゃんは今までに三回泊まりに来て、同じ沿線上に住んでいるローとも時間が合えばよく一緒にご飯を食べる。

この前はローの後輩だという二人も紹介された。ローの彼女かと囃し立てられると心底嫌そうに眉が寄せられたのを思い出す。それから、近くのコーヒーショップでバイトも始めた。
そういったものに支えられながら、なんとか一人でもやっていけている。そう思っていたのに。

何か頼んでいた記憶もないのに変な時間にインターフォンが鳴ったなとモニターを確認して、思わず立ちすくんだ。呼吸をするのを忘れていたせいで苦しくなって、そこでやっと肺に酸素を取り込む。
モニターの向こうでバツの悪そうに佇むページワンくんをしばらく見つめてから、意を決して玄関へと向かう。

「……びっくりした。どうしたの?急に」
「入れてくれ」
「ダメだよ。前にも言ったけど幼馴染だからって」
「彼女となら別れた」

私が話しきる前に被せるように発された言葉に目を瞠る。苦しげに寄せられた眉間のシワがそれが冗談ではないと物語っている。思いがけない彼の言葉にどこを見ればいいのか分からず彷徨った視線は足元を捉え、何とか絞り出した声も震えてしまった。

「でも、私にだって彼氏がいるし」
「彼氏じゃないんだろ」
「……なんで」

疑うでも願うでもなく、断言するように発された言葉にさらに戸惑う。うるちゃんではないはずだ。いくら彼が相手といえ、私との約束は破ったりしない。それだけの信頼がある。
それなら、と考えていたところで近くの部屋のドアが開く気配がした。こんなところで立ち話を続けるわけにもいかないと、仕方なく彼を部屋に招き入れる。

「結構、広いんだな」
「……うん」

部屋を見渡すページワンくんの姿にぎゅっと唇を噛み締める。彼とは関係の無い調度品と生活。それらをよすがになんとか立っていたのに、たった一瞬でこんなにも彼が染み付き始めてしまっている。

お茶でも用意しようかと逡巡して、そんな甘さを叱咤した。この家には彼のためのカップなんてないし、彼が居座る隙間もない。それを許せばまたずるずると引き戻されてしまうくらい、まだこの人が好きだと心が叫ぶ。

「彼氏じゃないって、誰に聞いたの」
「……会いに行った」
「えっ、もしかしてローに?」

予想外の展開に唖然とすれば、苦々しげに頷かれる。ここまで巻き込むとは思っていなかったのでローへの申し訳なさと、彼がどうしてそんなことをしたのかが検討もつかなくて言葉を失った。

私の大学は分かってるからとはいえ、それなりに学部も多く人も多いあの場所で、ただ顔を知っているだけのローを探すなんて容易ではなかったはずだ。何がそこまで彼を動かしたというのだろう。

「知りたかったんだよ、どうしたらよかったのか」
「どういうこと……」

本当に彼の言いたいことが分からなくて尋ねれば、一瞬の躊躇いの気配の後、意を決したように彼が顔を上げた。

「なまえが好きだ」

そうして空気を震わせた声が現実のものだと理解するのに少し時間がかかった。チェストの上に置いた時計の秒針が進む音だけが部屋を充たして、そこでやっと時間に追いついたように言葉が出てきた。

「それは、私に彼氏がいると思って気づいたってこと?」
「違う。もっと前から、ずっと、なまえが好きだった」
「じゃあ、なんで彼女と付き合ったの」

意図せずして責めるような口調になってしまったけれど、それ以外に言い方が分からなかった。
私を好きだと言ってくれる彼の言葉をずっと夢に見てきたはずなのに、実際に聞いたそれはあまりに鋭利で、痛くて、苦しい。

「……もう限界だと思った。あの卒業式の日、このままじゃいられない、これからなまえはもっと広い世界に出ていって、おれはただここに置いていかれるだけなんだって」
「だから彼女と付き合ったって、そう言うの?」
「……悪い事をしたとは思ってる。だけど本当に、最初は好きになれるって、そう思ったんだよ」

姉とは思っていない。あの言葉に私がゆるやかな変化を期待していたとき、彼は反対に行き詰まった停滞に絶望していた。
ああ、私たちはこんなにも分かり合えない。お互いを想いながら遠回りし、傷ついて、傷つけて。そして、今はもう彼の身勝手さを許せないと思っている。

もしかしたら私は、彼の本当の姉でも恋人でもなく、彼自身になりたいと願うべきだったのかもしれない。そうすればもっとちゃんと彼の気持ちを理解して、ずっとそばにいられたんだから。

「帰って」
「……なまえ」
「怒ってるわけじゃないの。でも今は一人にして」

彼を玄関へと押し遣る。その顔に焦りの色を浮かべながらも彼は素直にそれに従った。

「また、話せるよな」

玄関の扉を閉める寸前、彼の言葉には返事をしなかった。ガチャリ、と二人を隔たる音が響いたのを聞き遂げてから鍵を閉め、その場にうずくまる。
別の軌道上を周回する星と星が生涯で最も近付く瞬間があるように、私たちにも確かにその瞬間があったのだ。そしてお互いにそれを掴み損ねた。
それならば後はもう、永遠に遠ざかっていくだけだ。












うっすらと重たい瞼を開くと、カーテンの隙間から頼りない光が洩れて部屋を青白く照らしていた。昨日は色々と考えているうちにいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
今がまだ朝の早い時間だということは感じながらも、正確な時間を知るためにテーブルに投げ出していたスマホを手に取った。
そして、急激に目が覚める。

マナーモードにしていたせいで気づかなかったうるちゃんからの連絡が何件も。その内容は彼が帰ってこないことを嘆くものだった。うるちゃんは彼女のところに行っているんだと疑っているようだけど、そんなはずはない。

再びスマホを投げ出して、慌てて玄関のドアを開ける。そこには昨日と同じ服装のまま、膝を抱えるようにしゃがみこんだページワンくんがいた。
少し寝ていたのか扉の音にビクッと肩を揺らし、眠たげな瞳がこちらを見上げる。

「……なんで」
「あのまま帰ったら、もう本当に終わる気がして」
「……終わる、べきだったんだよ」

まだ夏の終わりとはいえ、そんな薄着で一夜を越すのは寒かったことだろう。流石にそのままには出来なくて部屋の中に引き込めば、彼も素直についてくる。
ソファに座らせて、暖房を入れるか聞くと静かに首を振られた。代わりにお湯を沸かして温かい飲み物を用意することにする。

「うるちゃん、心配してたよ」
「……ずっと連絡来てた」

その言葉が暗にそれでも待っていたのだと言われているような気がして気まずくなり、無造作にケトルを火にかけた。
薄ぼやけた朝の気配の漂う部屋で、真新しいケトルの赤だけがやけに鮮やかだ。

お湯が沸くのを待って、インスタントのコーヒーを淹れた。それを彼の前のテーブルに置けば、じっと俯いていたページワンくんが顔を上げる。口元を覆ったマスクはズラされ、彼の形のいい唇が覗く。淡いブルーのカップに彼が口をつけるのが、やけにゆっくりと感じた。

「それ飲んだら、ちゃんと帰りなよ」

突き放すようにそう言えば、うっすらと隈の出来た瞳が大きく揺らぐ。見れば見るほど飲み込まれそうな気がして、そっと視線を逸らす。カップから立ち上る湯気が空気に溶けていくのをじっと見つめた。

「……先に終わらせようとしたのはそっちでしょ」
「それで、終わらせられなかったんだろ」

彼が身動ぎをすると凝った夜の匂いがする。それが自然とたった一人で壁に凭れながら夜空を見上げる彼の姿を想像させた。どうせ星も見えない空の下で、壁一枚向こうにいる私のことをずっと考えていたのだろうか。

「好きだ」

わずかに掠れた声からその切実さが伝わってくるようで、声も出せないくせに声帯だけが震える。

「すぐに信じてくれなくても、伝わらなくてもいい。でも、何度だって言う」

聞きたくなくて何度も何度も首を振る。固く結んで追い出したはずの彼を思う心が、こんなにも簡単に絆されてい解れていく。青白かった朝の世界が少しずつ色を取り戻し、街の目覚める喧騒が遠くから聞こえ始める。

「本当に、好きだ」
「……やめて」
「なまえ」

伸ばされた手を避ければ傷ついたように瞳が歪んだ。
もっと傷つけばいい。胸の底に沈んでいた冷ややかな心が嘲笑うように彼を見つめる。私だって傷ついた。自分から別の道を選んでおいて、他の誰かの好意に甘えておいて、どうして今さらその口で好きだなんて言えるのか。
その一方で、確かに熱く込み上げるものがあるのも分かっている。喉の奥が熱を持ち、視界が滲む。零れそうになる涙の理由はもう誤魔化しのきかない愛しさだった。

「諦めるつもりだったの。遠く離れて、もう会わなければ、ゆっくりでも忘れていけるって、そう思ってたのに……なんでそんな」
「お、おい」

ぽろぽろと零れた涙が頬を濡らしていく。焦ったように涙を拭おうとした彼の手を逃さないように絡めとる。そしてそのまま強く引き寄せた。
一瞬だけ触れ合った唇と唇は互いの体温を交わして、夢から覚めたあとに残る芯のように心許なく、だけど確かな感触を宿している。
目の前の彼の頬は赤く染まり、それを見ながらゆるりと口角を上げる。

「……今の」
「好きだよ。私だって、ずっと大好きだった」

随分と回りくどい道筋だった。もっと最短距離を辿る方法ならいくらでもあったはずで、それらすべてを見送って暗闇を探るように歩いてしまった。
無駄な公式ばかりを書き込んだ計算式みたいにごちゃごちゃで、通る必要のない藪の中を抜けたせいで傷だらけだ。

それらすべてを愛おしいと思えるほどの強さはまだなくて、自分の愚鈍さと彼の犯した過ちを責めることはまたあるだろう。だけどもう、離しはしない。
繋いだ手の輪郭が強く握れば握るほど顕著になる。今ここで新たな愛が始まっただなんて誰も知らず、窓の向こうでは朝が動きだし、人々の生活の音がする。
そんな世界に背を向けるようにもう一度、今度はその感触を馴染ませるように、ゆっくりと唇を重ね合わせた。