どこかの誰かにならないように



ページワンが幼い頃の記憶を思い返すとき、決まって頭に浮かぶのは、いつも先頭を切って走り出す姉の後ろ姿と、はぐれないようにと手を握ってくれるあたたかな手だった。

向かいの家に住んでいたなまえは姉と同じ年で、ページワンが物心つく前から当たり前のように一緒にいる存在だった。幼馴染という言葉を知るまでは、姉だけど姉じゃないなまえとの関係をどう示されるのか知らず、確かに姉だと思っているはずのなまえが、どうしてページワンの本当の姉になりたいと言うのかを不思議に思っていた。

そんななまえのことを「姉ではない」と思い始めたのは、ページワンが中学に上がってからのことだった。姉のうるティと共に彼の教室にやってきたなまえのことを、クラスの誰かが可愛いと囁くのがひどく不快に感じた。
そんななまえも、中学に入ってからはページワンのことを今までの「ぺーたん」という愛称ではなく、「ページワンくん」と呼ぶようになり、それが弟ではないと言われているような気がして嬉しかったのを覚えている。この時には既に、どうしようもないくらいなまえに恋をしていた。

中学を卒業したうるティとなまえは別々の高校に通うことになった。まだ中学生のページワンは、ふたりのいなくなった中学校に取り残されたままで、それでもあと二年経ったらなまえと同じ高校に行くということだけは心に決めていた。

だけど、やっと同じ高校に入ったページワンが感じたのは、なまえと再び同じ校舎に通える喜びよりも、いつの間にか開いてしまった距離への焦りと不安だった。
なまえの制服姿なんて近所で何度も見かけていたはずなのに、同じ高校の先輩になったというだけで随分と大人びて見える。
今までは、自分となまえと姉しかいないように感じていた関係が、姉のいない場所をひとりで歩くなまえを見て、思っていたよりも遠くにその姿があることを意識させられた。そして、このままではいけない、もっと変わらなくてはいけないのだと思い知らされた。

だから、時間が合う限り一緒に登校をしたり、なまえの教室に顔を出したりとした。なまえの隣に当たり前のように居ることの出来る誰かに対して、ページワンが勝るのは共に過ごした時間くらいで、それが枷のように重かった。
なまえはいつもページワンのことを幼馴染と紹介し、その言葉を聞くたびにどうしようもない距離に押しつぶされそうになっていた。

そして卒業式の日、なまえに自分を姉かと思っているかと尋ねられたとき、ついに限界を感じてしまった。幼馴染として、弟して、それがページワンにとってなまえに近づけるギリギリの距離だった。それ以上の、それ以外の居場所なんて元から用意されていなかった。

これからなまえは彼女を何とか子供に押しとどめていた制服を脱ぎ捨てて、自分の知らない世界へとどんどん出ていってしまう。自分の知らない誰かと親しくなって、自分の知らないなまえになっていってしまうのだと、はっきりと予感してしまった。

(……なまえを繋ぎ止めておけるのなら、弟のままでいい、変われなくてもいい)

姉に見せるという口実で手に入れたふたりで映った写真を見つめながら、ページワンはそう心に決めた。そうすれば、なまえにとってのページワンはいつまでも大事な幼馴染で、弟としてなら気軽に手を伸ばすことが出来るはずだった。

そのためには恋なんて忘れてかまわない。もうどこにも行かないで欲しかった。ただ、それだけだった。











「先輩?上の空ですね」
「え……? ああ、悪ィ。ちょっとここの問題考えてた」

突然、鼓膜を揺らした声にハッと顔を上げると目の前の彼女が不思議そうに首を傾げている。手に持ったグラスの中でオレンジ色の液体が揺れ、その表面を結露した雫が垂れていく。
それを見ているうちに深い思考に沈んでいた意識がゆっくりと浮上して、ファミレスの喧騒に馴染んでいく。目の前のテーブルに広げられた問題集とノート、そこにならんだ計算式。これが今向き合うことが出来る現実だと突きつけるように。

「来年はこんな難しい問題やらなきゃいけないんですね……」
「そんな心配しなくても大丈夫だろ」
「分からなかったら先輩が教えてくださいね」
「……あァ」

楽しそうに笑う彼女の瞳は猫のように細くなり、柔らかくページワンを映す。
彼女はページワンの一つ下の一年生で、クラスメイトの中学の後輩だと紹介されてから、時おり校内で会えば話をすることがあった。それがひと月前に恋人という関係に変わったのは、彼女の方から好きだと伝えられたからだった。

「テストが終わったら、行きたいカフェがあるので付き合ってください」
「あァ」
「やったー!それをご褒美に勉強頑張りますね」

小さく両手を握りしめる彼女のことを、素直にいい子だと思う。友人たちからも彼女を可愛いと言われれば悪い気もしない。
最初に告白をされたときは、驚きと同時に、これでなまえに対する恋なんて感情を忘れられるんじゃないかと、気兼ねなくなまえの傍にいられるようになると、強かな思いを抱いていたのは否定しない。

だけど、ひと月の間を共に過し、このままゆるやかに彼女との関係が続くことを思い描くこともできるようになっていた。
窓際の席から外を見遣れば、道向かいの公園の木々が夏に向けてその緑を濃くしていた。風に揺れる葉が、無邪気に遊ぶ子供の声が、遠い幼き日の記憶と混ざり合い、どこか別の世界の出来事のように感じる。

「……先輩」
「ん?」

再び名前を呼ばれたページワンが視線を向ければ、内緒話でもするように口元に手を当てた彼女がいる。賑やかな店内で、その潜めた声を聞き取れるように顔を寄せる。

「好きです」
「……なんだよ、急に」
「ふふふ、言いたくなっただけです」

イタズラに成功した子供のように得意げに笑う彼女を見ながら、胸の中にあたたかな感情が込み上げる。この温度をきっと安心と呼ぶのだろう。なまえの背中を見つめるたびに感じた焦りや不安はなく、何の心配もなく愛されて隣に立つことが出来る。

だけどそれは代わりに、なまえの声を聞きながら感じた、熱く燃えるような喜びも峻烈さも与えられはしない。それでも、これもひとつの恋だ。
なまえの存在を繋ぎ止めるために幼き日からの恋を捨て、ただ幼馴染としてなまえの隣にいる免罪符を手に入れるために新たな恋をした。そんな自分の選択に間違いはなかったのだと言い聞かせるように、切りそろえられた毛先のかかる彼女の首元を見つめながら、柔らかく瞳を細めた。