君の一番になれればいいのに



リビングのソファに寝転がりながら天井を見つめる。なんの変哲もない模様は小さい頃から変わることなく、その一点をどんなに見つめたところで、昨日の記憶が消えるわけでもない。

姉に言われるがままにコンビニへと使いに行かされる途中。前方に見えた恋人らしき二人の男女。じゃれるように男の腕を叩くその後ろ姿がなまえによく似ていると思ったとき、夏の夕暮れの蒸し暑さが自分の周りから消えていくのが分かった。

近づけは近づくほど、それは見慣れたなまえの姿で、それでもそれが別人であることを祈った。震えそうになる声で呼んだ名前に、どうか振り返りなどしないでくれと願っていた。


「……あー」

近くにあったクッションを引き寄せ、顔の上にぽすりと乗せる。瞼を閉じると思い描かれるのは、驚いたように見開いたなまえの瞳で、あんな状況でもそこに自分が映ったことを喜んでしまう己の浅はかさが悔しかった。

ページワン自身にも恋人が出来たように、なまえにだっていずれ恋人が出来るということは覚悟をしていたつもりだった。だけど、耐えられると思っていたはずのその光景は、いざ目にしてみればあまりにも残酷なものだった。最後に、なまえ#からあんなにも無邪気な笑顔を向けられたり、腕を掴まれたりした日がいつだったのか、ページワンにはもうはっきりと思い出すことも出来ないというのに。

顔の上に乗せていたクッションがずれ落ち、床へと転がる。拾い直す気力もおきずにいたとき、がちゃりと玄関の扉の開く音が聞こえた。飛び起きるように身体を起こして、その足音が部屋へと入ってくるのを待つ。

「姉貴」

帰ってきて部屋に入るなり直ぐに名前を呼ばれたことに驚いたのか、うるティの肩がわずかに跳ねる。だけどソファに座るページワンの姿を見て、その瞳は険しく顰められた。

姉の機嫌が悪いことには、ページワンも薄々気づいてはいた。いつもであれば自分は午後からの講義であろうと、朝は必ず起きてきて見送ってくるというのに、今朝は部屋から出てこようともしなかった。一方で、昨晩は帰りが遅かったこともあって寝ているのかもしれないと楽観的に考えてもいた。

しかし、普段であれば帰宅と同時に飛びついてくるところをこの表情である。明らかに機嫌が悪い。姉に対して強く出ることの出来ない性分は幼い頃から刷り込まれており、こうして凄まれると思わず腰が引きそうになる。だが、ページワンとて意味もなく自室ではなく、この部屋に居座っていたわけではない。そう簡単に引くことも出来なかった。

「昨日の夜、なまえのとこ行ったんだろ」
「……行ったけど?」

冷ややかな姉の声にびくりと背筋が震える。昨日、家に帰るなりなまえの彼氏の存在を伝えると、うるティは「聞いてない!」と声を荒らげて自室に戻って行った。それから程なくしてドタバタと足音を荒らげて家を出ていったので、なまえの家に向かったことは知っていた。
出来るだけ帰りを待ってはみたが、日付を超えて暫くしたところで明日の学校のことを考え無理やり眠りについた。そして結局朝も姉と話すことは叶わなかったので、今日一日なまえと姉との間でどんな会話が交わされたのか、それだけがずっと気になっていた。

「なまえ、なんて言ってた?」
「なにって、何を知りたいの?」
「……それ、は」

何を知りたいのか。改めてそう聞かれると思わず言葉に詰まる。その姿を目にし、他の誰でもないなまえの口から彼氏だと紹介されてもまだ、なまえが誰かのものになったという事実を受け入れきれないでいた。でも、だからいって「本当に彼氏だったのか」などと簡単に口にすることも出来なかった。

黙って目を伏せたページワンを横目に、うるティは大きく溜め息を吐き出した。そして、ページワンを見据える。

「一人暮らしするんだって」
「は?」
「だから、実家出て一人暮らしするんだって」

別に聞こえなかったわけではない言葉を繰り返され、目を丸くして姉を見つめ返す。一人暮らし。珍しくもない言葉の意味を上手く取り込むことが出来なかった。家を出る、一人で暮らす。それはつまり、ページワンとなまえとの間の繋がりがひとつ失われるということだった。
その意味を理解するや否や衝動的に姉へと詰め寄る。

「い、いいのかよ? もう今みたいにスグに会えなくなるんだぞ?」
「別に遊びに行くし」

なんてことはないと言うように首を傾げる姉の姿に、ぐっと言葉を飲み込んだ。そうだろう、二人であれば遊びに行くことも、なんならなまえの家に泊まることだって出来るはずだ。だけど、自分であればどうだろう。
思い返されるのは少し前、夜道でコンビニに行くというなまえに付き添おうとした日のことだった。当たり前だと思っていたその行為を「彼女がいるのに他の女に優しくするのは良くないよ」と諌められ、思いがけない拒絶となまえを「他の女」と評されたことに唖然とし、動けないまま遠ざかっていった後ろ姿。

それと同時に脳裏を過ったのは、昨日なまえの隣にいた男の姿だった。ページワンよりもずっと背が高く、落ち着いた佇まいを思い返すと、自分より遥かになまえに相応しいように思えてしまう。
あの男なら自由になまえの家を訪ねることができるのだろう。いや、それどころか──。

「それって本当に一人暮らしなのか?」
「どういうこと?」
「それはその……彼氏と同棲とか」

考えたくもない可能性に自然と言葉尻が萎んでいく。口に出してしまえば、それが真実になりそうで怖かった。よく考えれば、昨日なまえは二人で家に行くと言っていたのだ。彼氏を家族に紹介し、そしてすぐに家を出る話が出るなんて、本当は二人で暮らすのだとしてもありえない話ではない気がした。
そんなページワンの顔を見つめながら、一瞬だけ揺らいだうるティの瞳が、またすぐに険しさを取り戻す。

「だったら、私たちに何か関係あるの?」
「あるだろ! おれたちは幼馴染なんだから」
「幼馴染ってそんなに偉いの?」

諌めるわけでもなければ諭すわけでもない、ただ純粋な疑問とでもいうように借問された姉の声。そうだろ、と言おうとして開いた口は、どうしても声を出せずに悔しさに歯噛みする。

昨日、ページワンを前にしたなまえは取って付けたような笑顔で足早にその場から立ち去っていった。暮れていく夕陽に照らされたなまえの後ろ姿は、少しでも早くこの場から、つまりはページワンから離れたがっているように見えた。それがあまりにショックだった。

ふと、逆の立場であればどうしていただろうと思う。思いがけず彼女といる場でなまえと出くわしてしまったら。たぶん、驚きはするし、気まずさも感じはするかもしれないが離れたいとは思わなかったはずだ。

ページワンにとってなまえと、恋人である後輩は隣に並ぶことのないものだった。恋人は恋人として大切である一方で、なまえはかけがえのない存在だった。どちらがより大事かと聞かれれば、少しくらいは悩む素振りを見せるかもしれないが、最後にはなまえだと断言するに違いなかった。
そして、それはなまえも同じだと勝手に思い込んでいた。

だけど本当は、心のどこかで気づいてもいたのだ。自分たちはただ幼い頃の時間の多くを共に過したに過ぎず、その時間すらもこれから先の長く途方もない未来の可能性に比べれば取るに値しないものであることくらい。
そしてどんなに姉のように思っていたところで、戸籍も法律もそれを認めてはくれず、家族という名で互いを縛ることも出来ない。

幼馴染などといったところで、結局はただの他人。しかし、それを認めてしまったらなまえへの恋を諦めた決意があまりにも報われない。自分がなまえの人生において、いてもいなくても変わらぬ存在などということを認めたくはなかった。
今のページワンにとって、幼馴染という不確かな関係だけがなまえと自分とつなげる唯一の標なのだ。だから、幼馴染でさえいれば変わらずに離れないでいられるのだと、そう縋ることしか出来ないのに。