僕が許されるために必要なこと


この国が地獄なのかと聞かれれば、おそらくは地獄といってもいいだろうと思う。圧倒的な力の前にひれ伏すしかなく、満足な食事もとれず苦痛と共に飢えて死んでいく民が多くいる。その一方で、その力を持った者は私腹を肥やし、毎日てんやわんやと宴だなんだと騒いで歩く。

だけど、ここが地獄だからなんだとも思う。私が物心ついた頃にはもう、この国はとっくに地獄だったのだ。地獄しか知らない私にとって、この海の向こうにあるという楽園など想像することさえ出来ないのだから、そんな夢に胸を馳せるよりも、この現実を受け止めて、ただ生きていく術を探す方がずっと堅実的だ。なんて、そうやって思えるのも、この地獄に限りなく近いこの国で、私は随分と恵まれている方だからだということも、ちゃんと分かってはいる。

「たっだいまでありんすー!」
「……それくらい普通に言えよ」

玄関から聞こえる騒がしい声に、洗い物をしていた手を止める。炊事場から顔を出せば、カイドウ様のところから帰宅されたうるティ様とページワン様が並んで廊下を歩いてくるところだった。

「おかえりなさい!うるティ様、ページワン様」
「あー、なまえ!ぺーたんが意地悪でありんす!」
「オイ、なまえに言いつけんな」

二人がいない時は静かだった屋敷が途端に喧騒を取り戻していく。飛びつくように抱きついてきたうるティ様を抱き返しながらクスクスと笑えば、追いついてきたページワン様が不満そうに眉を顰める。

「夕餉の支度も出来ていますけど、カイドウ様のところで食べてきましたか?」
「あちきはいらないでありんすー。あとでお茶だけ部屋に持ってきて」
「……おれは食べる」

カイドウ様のところに行かれた日は、こうしてお酒のツマミでお腹がいっぱいだと言われることも多いので、献立は日持ちのするものを作ることが多い。今日も煮物で正解だったな、と部屋に戻っていく彼女の後ろ姿を見つめながら一人で頷く。うるティ様の分は明日の私のお昼ご飯にでもしよう。

この屋敷で暮らしている分には食料に困ることは無いけれど、都の外で暮らす人々のことを思えば、あまり粗末にするのは気が引ける。それに、こうしてここに奉公する前までは、私だってその日の食事も満足にとれない生活をしていたのだ。飢えの苦しみは忘れることも出来ない。

「なまえはもう食べたのか?」

不意に話しかけられた声に顔をあげれば、ページワン様と目が合った。私が二人の食事が済むまでは自分の食事をしないのはいつものことなので、質問の意味が分からず首を傾げる。

「いえ、まだですよ」
「……なら、なまえも一緒に食べよう」
「え!」
「あ、嫌なら別に」

思いがけない提案に思わず頓狂な声を上げてしまえば、ページワン様が焦ったように顔を背けるので、そうではないと慌てて訂正する。

「嫌じゃないです!少し驚いてしまって……ご一緒してもいいですか?」
「……ああ」

ページワン様の瞳が嬉しそうに少し細められ、それが可愛いなとつい思ってしまう。一つしか変わらないとはいえ年上で、なにより雇い主で、そして飛び六胞なんて地位に立つ人に対してそんな不躾なことを思ってしまうなんて、ページワン様の弟気質のせいだろうか。

「では先にうるティ様にお茶を届けて参りますね。お疲れでしょうから、座って待っていてください」

うるティ様に誘われて三人で食事をとることは今までも何度かあったけれど、ページワン様と二人でなんて滅多にないものだから少し緊張する。

「なまえ」

とにかくまずは、うるティ様へのお茶を煎れながら心を落ち着かせようと炊事場へと戻ろうとした途中でページワン様に呼び止められた。身体をひねるようにして振り返れば、ズボンのポケットから見慣れた袋が取り出された。

「……ほら、土産だ」
「そんなにいつも気を遣って頂かなくてもいいんですよ……でも、嬉しいです。ありがとうございます」

手のひらに乗せられた小袋の紐を解き中をのぞけば、色とりどりの星を象った砂糖菓子が姿を現す。その可愛らしい色味が嬉しくて、ページワン様の方を見れば照れたように視線をそらされる。
カイドウ様のところへ行ったとき、ページワン様は決まって何かお土産を買ってきてくれる。それはいつも同じものというわけではないけれど、ここ最近はこの金平糖が多い。

「これ、本当に美味しいんですよ」
「ああ、なまえの表情を見てて好きなんだろうなって思って……」

そこまで言いかけたところで、ハッと慌てた様子のベージワン様が私の顔を見る。マスクで覆われて見えにくいものの、耳まで赤くなったその表情から、この金平糖を買ってくることが増えたその理由は十分に伝わってしまう。思わず零れてしまう笑みを隠さずに、ただ「ありがとうございます」ともう一度お礼を言う。

「そうだ、ページワン様もよかったら食べませんか!」

袋に詰まったそれを差し出せば、ページワン様は少し考える素振りを見せてから、ゆっくりと首を振った。

「いや、後でいい。それより、そろそろ姉貴のところに行かねぇと、遅いって騒ぎ出すぞ」
「あら、大変!急いで届けてきますね。そのあと夕餉の支度も直ぐにしますから」
「おれはゆっくりでいいから転ぶなよ」
「もう!今更そんなことしませんよ」

パタパタと炊事場に戻ってから、ふぅっと息を吐く。
仕事を求めて都の旅館で住み込みの女中をしていた私が、歳も近いからという理由でこのお屋敷に取り立てられてから数年が経つ。うるティ様もページワン様も、本当に良くしてくれている。

ここは平和だ。あたたかくて、優しい時間が流れているように錯覚しそうになる。もちろん、都の外では多くの血が流れていることを忘れているわけではない。うるティ様も、ページワン様も、この国を支配し、力によって組み伏せる側の人だと知りながら、それでも私はここを幸福と呼ぶ。

湧いたお湯を茶こしに入れた茶葉に注げば、ふわりと芳しい香りが立ち込める。こんな些細な私の幸せもまた、この国の多くの民の不幸の上に成り立っているのだ。






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