わたしだけのかみさま


幼き日の記憶は飢えと渇きの繰り返しだ。ワノ国の辺境の小さな村は、圧政と汚染の影響を逸早く受け、私が物心着いた頃にはもう荒廃の限りを尽くしていた。

かつては多くの人が集い、農耕が盛んであった村。秋には黄金色の稲穂が風に揺れ、色とりどりの野菜や果物が実を大きくしていたのだと、夢でも見るように母が語っていた。だけど、当時はもう我が家を含めても、両手で足りる数の古びた家にわずかな人が住んでいるだけだった。おかげで、細々とでも食料を分け合って暮らしていくことが出来たのだけど、そんな豊かな時代があったことなど私には想像することも出来なかった。

大人たちは口を開けば、オロチやカイドウが、と呪うように口にしていた。この国の歴史については、その大人たちから何度も語られてはいたものの、それは私にとって現実とは遠い昔話に他ならなかった。
楽園を知らなければ、地獄と比べることも出来ない。飢えも渇きも、その呪い方も分からぬほどに日常になりすぎていた。
そのせいもあってか、飢えたことは記憶として思い返すことは出来ても、その苦しみに痛みは伴わない。

それでもただひとつだけ、あの村で過ごした記憶の中で痛烈な鮮やかさを持っていたものがある。
それは、村の最奥の林の中にあった古びた祠だった。ひび割れた鳥居が立ち、周りを囲む木々は手入れをされないせいで根が腐り、今にも倒れて祠を押しつぶしそうだった。

どうして幼き日の私があんなにもそこに惹き付けられたのかは分からないけれど、私は日がな一日あの祠で過ごしていた。祠の中を除くわけでもなく、ただじっと石段に腰を下ろし、ここにいたはずの神様のことを考えていた。

この祠にどんな神が祀られていたのか。それが知りたくて村の人間に尋ねてみたこともあったけれど、皆そんなものは知らないと素っ気なく顔を背けるばかりだった。
年寄りは皆死に絶えてしまったせいで、神話を語り継がれた者がいないのか。それとも、かつては敬い慕った神を蔑ろにしていることへの後ろめたさなのか。

どちらにせよ、圧倒的な暴力の前に、人は祈ることを忘れてしまった。だけどそれを責められもしないだろう。祈りで腹が膨れはしないし、喉が潤うこともない。
あの村で、そこに祠を必要としていたのは私だけであった。それがひどく心地よかったのを覚えている。

それからも年を経るごとに村の人間は一人、また一人と死んでいった。だけど生活もまた苦しくなるばかりで、ついに私を都へやることを両親は決めた。

両親とまだ幼い弟が生きていくために私は捨てられたといえるのかもしれないけれど、両親とて苦渋の決断ではあったのだろうと思う。女である私なら都で、たとえ身体を売ることになっても生きていけるかもしれない、何に縋り付いてでも生きてくれと母が言っていたような気がする。だから薄情なのは、そんな母の顔さえ思い出せない私の方なのだろう。あの祠の姿はその細部まで思い出せるというのに。

そうして辿り着いた都には、同じように故郷を追われた子供が多くいて、働き口を見つけるのは難しかった。廓にも行こうかと思っていたとき、運良く旅宿の婆に拾われることが出来た。旅宿、といってもその頃にはもう外から来る客人などほとんどなく、都の人間の出会茶屋のものとなってはいたけれど。
そうして、私はそこで礼儀と家事働きの一切を学んだ。

だけど、そんな生活も長くは続かず、いよいよ宿の経営も苦しくなり暇を出されることになった。この宿を出て、次の働き口のあてもない。廓育ちの女であれば、私と同じ歳でもう客を取っているものもいるというのに、今さら遊女など目指せるものだろうか。路上で敷物一枚を持った街娼となる自分を想像しては背筋を凍らせた。

そんな私に救いの手を差し伸べてくれたのは、花の都を仕切る男だった。店の使いに出掛けるには、彼の見世の前を通る必要があり、その際に何度か顔を合わせたことがあった。そんな偶然の重ね合わせで、私が働き口を探していることを耳にしたのであろう狂死郎親分様が、飛び六胞の一角を任せられることになった姉弟の屋敷の女中を探している話を持ってきてくださったのだった。

無論、それがどれだけの危険と隣り合わせのことなのかは分かっていた。こちらに非がなくとも、気分次第で殺される。飛び六胞がそんな人間の集まりだと、誰に聞かされたでなくとも耳に入ってきていた。
だけど、明日の命は約束されなくとも、今日の宿は約束されるのだ。行き場のない私に選べる答えなどひとつしかありはしなかった。

そうして、私はページワン様とうるティ様と出会うことになる。狂死郎親分様に連れられてやって来たお屋敷にすでにお二人はいて、歓迎するでもなければ邪険にするわけでもなく、いてもいなくても変わらぬように私を見た。警戒する必要も無いくらい私が無力であったからだろう。

それから彼らの身の回りの世話をする生活が始まり、言葉を交わさぬことが当たり前であったものが、少しずつ食事の希望などを言って貰えるようになったのは思いもよらないことであった。
そんなふうにして、うるティ様とは今の関係を築いてきたけれど、ページワン様とははっきりと関係の変化する一夜があったことを覚えている。

あれはカイドウ様のもとへと二人が訪ねて行った日で、帰ってきたページワン様は珍しく酔っている様子だった。部屋に戻ったうるティ様と違い、ページワン様は酔い覚ましをすると縁側へ向かった。

しばらくして、濃いめに淹れたお茶を持ってそこへ向かうと、ぼんやりと月を眺めるページワン様がいた。そっと盆を置いて厨に戻ろうとすれば、ページワン様が私の名前を呼んだのだ。
最初に名乗ったきりだった私の名前が彼の口から出たことが意外で目を丸くしていると、「なんて顔してんだよ」と可笑しそうにページワン様が笑った。

「少し付き合えよ」

言われるがままに隣に腰を下ろす。二重に暈を纏った月が空に浮かび、闇の色は薄墨を零したようだった。

「ページワン様が私の名を覚えていてくださっているとは思いませんでした」
「おれたちに直接関わる女中はなまえしかいねェんだから、知らねェわけないだろ」

呆れたように私を見る瞳。酔っているせいか、いつもより饒舌で気分も良さそうなページワン様が、私の持ってきたお茶に手を伸ばす。

「なァ、何かなまえのことを話せよ」

そうは言われても私のような者に人に聞かせる話など、そうあるものではない。困っていたとき、はたと頭の中で煌めいたのは、あの祠のことだった。

村を出てからも、寝れない夜には祠のことを思い返した。だけど、その話を誰かにしたことはなかったし、するつもりもなかった。それがどうしてか、あの晩は話してしまってもいい気がしたのだ。

村の最奥、古びた祠。きっと面白くはなかっただろう話を、ページワン様はお茶を飲みながら黙って聞いてくれていた。

「私はその祠の神様に会いたかった」
「会ってどうするんだよ」

空を泳いでいた雲が月にかかり、光が翳る。夜の闇がやっと本物に近づいたような気がした。そんな空を見上げながら、あの祠の姿を思い起こす。
時が流れて、あの場所にあった祠はもう朽ちて倒れてしまったかもしれない。それでも確かに、あそこに神はいたのだ。誰しもが忘れてしまった、可哀想な神様。それを見つけた先で私は──

「私だけの神様にしたかったんだと思います」








「なまえ! 」

突然思考を割りさいた声にハッと顔を上げると、焦ったようなページワン様が廊下から私を見ていた。
箒を持った腕に視線を落とすと着物はびしょ濡れで、頬には滴が伝う感触がする。掃除をしていたつもりだったけど、昔のことを思い返しているうちに雨が降り出していたらしい。

「こんな雨の中でするもんじゃねェだろ」

自分が濡れることなど気にせぬように庭に降りたページワン様が私の手を掴む。呆れたように私を見下ろす瞳。

ああ、そうだ。あの日から、私はこの人を、私だけの神様にすり替えてしまったのだ。






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