奥深くに刻まれた名前


空がわずかに白け始めると共に目を覚ます。
都で働き始めたときから身体に染み付いた朝の訪れ。今日の朝餉の献立を思い浮かべながら身体を起こした時、はっきりとした違和感があった。頭に鈍い痛みが走り、手足が重く怠い。

やってしまったかな、と思いながら部屋の隅の鏡面を覗き込み、想像以上の顔色の悪さに苦笑が浮かぶ。
この国で生まれ、この歳まで生き延びることができたのだから、自分の身体が弱いとは思っていない。それでも、何度かは体調を崩したこともある。

都の旅宿にいた頃も、今日のような朝があった。主人の婆様は私を拾ってくれたとはいえ、それは決して純粋な善意だけではなかった。私はあくまで使い勝手のいい働き手でしかなく、使えなくなれば代わりなどいくらでもいることは知っていた。隙を見せれば奪われ、淘汰される。
だから、あの日も自分を騙して乗り越えたのだ。それがここにいるからとて変わりはしない。







血色が悪く見えないように、いつもよりしっかりと頬紅をさして朝餉の準備を始めた。配膳をしているうちにページワン様もうるティ様も現れ、お二人の食事を見守り、後片付けをする。もうすっかり慣れた作業は、ぼうとする頭で考えるよりも自然と身体が動いてくれた。

洗い物をするために流しに立っていると、ふと背後でかたんと戸の揺れる音がした。ゆっくりと振り返ると、ページワン様がじいと観察するように私を見つめている。

「どうかされました?」
「……なまえの様子が変な気がして」

その瞳に居心地の悪さを感じながらも、あえて目を逸らすようなことはしない。窓から差し込む日差しに目が眩んで、割れそうに頭が痛むことなど気取られぬよう精一杯の笑みを浮かべた。

「そうですか? 特に変わりはないですけど」

そのとき、指先の力が急に抜けて、手に持っていた食器が滑り落ちた。落ちていくその様を、やけにゆっくりと瞳がとらえる。遅れて陶器の割れる音が響いた。
拾わなくてはと冷静に思う頭と反対に、世界がぐらりと揺れる。反転、そして、暗転。遠のく意識の片隅でページワン様が私の名を呼ぶ声を聞いた。









目を覚ますと、まず視界に映ったのは見慣れた天井だった。そう時間はかからずに自分が倒れ、自室に運ばれたことを理解する。それならきっと、と顔を隣に倒せば、思っていた通り心配と不機嫌を混ぜ合わせたような瞳で私を見下ろすページワン様がいた。

「なんで体調悪いことを隠してたんだよ」

枕元に座るページワン様の隣には水を張った桶と薬袋が置かれている。私が意識を失っている間にお医者様を呼んでくださったのだろう。そして、きっと、ページワン様はずっとここにいてくれたのだ。
大切にされていると感じながら、心の片隅には深く棘が刺さり鈍く痛む。

「……言えば休ませていただけたのですか?」
「ハァ? 当たり前だろ」
「それが私ではないこの国の人間を相手にでも言えましたか?」

私の返答が思いがけないものであったのだろう。ページワン様は瞳を丸くし、当たり前と口にした唇から言葉の続きが紡がれることはなかった。
それがこの国での当たり前なのだと、諭すようにゆるりと笑う。

「こうして捨て置かずにいてくれたこと、十分に感謝しています。けれど、私ばかりをあまり特別に扱っては、他のものに示しがつきませんよ」

一度でも倒れてしまえば、誰にも助け起こされず、その上から踏み潰されて死んでいく。そんな生活を強いられるものが多くいる。
そんな犠牲の上に、今の私の生活が成り立っていることは理解も覚悟もしている。飢えもせず、凍えもせず、今私を包む柔らかな布団の温もり。だけど、私が欲する特別はそれではない。

決して、すべてが崩壊した焼け野が原で、私だけが立って生き延びたいわけではないのだ。最後はこの国と共に滅ぶ。いや、むしろその最中に、多くの人間の不幸と死を願った罪で磔にされたってかまわない。
私が欲しいのは、そんな地獄と呼ばれる場所でさえ、この胸を貫いてくれる恋だけだ。

「それなら……」

一瞬、ページワン様の瞳が何かを決心したように揺れた。それを見つめながら言葉の続きを待つ。

「……いや、今はいい。とりあえず、少し寝ろよ」

ページワン様の手が私の額に当てられる。朝よりもずっと体温が上がっていたのだろう、その手のひらの冷たさに抵抗する気力が吸い取られ、押し寄せた睡魔によって意識が吸い込まれていく。

眠りに落ちかける片隅で、ふと昔の記憶が呼び覚まされた。
まだ、あの村に住んでいた幼き頃、何かの病に犯されて高熱の続いた日があった。懸命に看病してくれる母の手の冷たさ。栄養もろくにとれないような身体で、そのまま死んでしまうことが頭に過っていたのだろう。父が心配そうに何度も私の名前を呼んでいた気がする。

だけど私は、熱に浮かされた頭と身体の苦しみこそは感じていても、このまま意識を手放すことが怖いとは思ってはいなかった。それが死というものに繋がっていないほど幼かったせいもあるかもしれないけれど、それよりも、あの暗闇の先に祠の神様がいるような気がしていたのだ。

だけど、今はもう、あの信仰を手放してしまった。祠の神様は、今度こそ誰にも求められぬまま一人でどこかにいるのだろうか。それならば、このまま暗闇に落ちてゆく私を、誰が迎えてくれるのだろう。

完全に眠りの淵に落ちてしまう手前、うっすらと瞳を開ける。これが現なのか夢なのかも判然としないまま、傍らにいてくれる影を見つめた。うっとりと、甘美な毒に酔いしれるようにその名を呼ぶ。

「……私の、神様」





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