覚めた夢が僕を苛む夜


夕餉の仕込みも一段落して、ふと外を見るといつの間にか雨が降り始めていた。雨音が静かに響き、立ち込めた霧がうっすらと庭を白く染め上げる。空を覆う真っ黒な雲を見る限り、これからさらに雨の勢いは増しそうだった。そこでハッと、今日は屋敷の外に出ているページワン様とうるティ様のことを思い出した。

朝から晴天だったので傘など持っていないはずだ。夕方までには戻ると言っていたので、もしかしたらすぐ近くにまで来ているかもしれない。今から傘を持って迎えにいけば、上手くいけばさほど濡れずに済むだろう。
そう思って玄関へと足を向けると、曇り硝子の戸越しに人影が見えた。来客だろうか、と様子を伺おうとする間にガラガラと容赦なく扉が開かれ、その音に思わず肩が跳ねる。

「どうした、そんな顔して」
「ページワン様でしたか……ちょうど迎えに行こうとしていたところだったので、少しびっくりしてしまいました」

戸に手をかけたまま、ページワン様が瞳を丸くして、立ち竦む私を見つめている。その姿に安心して、力の抜けた笑みが零れてしまえば、ページワン様も同じように少しだけ表情を緩めた。

「雨、濡れませんでしたか?」
「まァ、少しだけな。でも、降り出したところだったから、ほとんど濡れてねェよ」
「それなら良かったです。うるティ様はまだですよね? 私、傘を持って迎えに行ってきます」

閉められた戸の向こうから響く雨音が先程よりも強さを増し、遠くからは雷鳴の音も聞こえ始める。早く行かねばと草履に履き替え土間に降り、傘をふたつ手に取った。

「なまえ」

戸に手をかけようとしたとき、不意に名前を呼ばれた。

「……ページワン様?」

振り返った先でページワン様は躊躇いがちに私を見つめるだけで何を言うこともない。当惑しながら首を傾げた私の声は、その戸惑いに揺れている。

体調を崩して倒れたあの日から、時折こんなふうにページワン様に呼び止められることがあった。何かを言いかけたまま、その先の言葉が紡がれることはなく、沈黙のまま時だけが流れる。
何か言いたいことがあるのだろうと思いながら、それ以上踏み込むことができないのは、ひたひたと水のように迫る嫌な不安のせいだ。

ページワン様の背後に続く長い廊下は、翳った太陽の日も届かず薄暗い。見通すことも出来ない最奥の闇を見つめていると耳鳴りが聞こえ始めた。甲高い永続的な音が頭の中で反響する。

「──なまえが好きだ」

ついに沈黙が破られた時、その声はこの世のすべての音を飲み込んでしまった。激しく戸を打ち付ける雨音も遠くで轟く雷鳴も、頭の中で反響する耳鳴りまでがすべて消え失せ、無音のまま世界は崩壊した。私の安寧を約束してくれていたこの屋敷のまじないが解けていく。

祈るようにページワン様を見つめても、その瞳はまっすぐに私を見据えるだけで、冗談だと笑い飛ばしてはくれない。

「なんで……」
「おれはなまえをただの女中なんて思ってない」

震える唇でなんとか絞り出した声に、ページワン様が苦しげに瞳を眇める。
新しい着物を身につけたあの客間で困ったように揺れた瞳、看病された自室で何かを言いかけてやめた言葉の続き──理由の分からない不安や焦燥として心の中に燻っていたページワン様の姿が、この瞬間に結びつき、そして紐解かれていく。

「いいじゃないですか、ただの女中で……それでもずっとお傍にいるつもりなんですから」
「駄目だろ」

はっきりと断定された否定の言葉に、思わず息を飲む。いつの間にか雨音も雷鳴も元の通りに戻ってきていて、ざあざあとその音を打ちならし、風で屋敷を揺らす。すべてが現実のことだと分かりながら、それでも受け入れきれず視界が眩む。

「今のままじゃ、なまえどこかへいなくなる気がする」
「行きませんよ。言ってるじゃないですか、許してくれる限り傍にいるって」
「だから、許すとか許さねェとかじゃなくて傍にいて欲しいんだって、なんで分かんねェんだよ!」

珍しく声を荒げたページワン様が苛立たしげに帽子をくしゃりと掴んだ。ああ、いつの間にこんなにもこの防壁は綻んでいたのだろう。目を逸らしていたヒビがどんどん大きくなって、ついに砕けてしまった。ここにはもう確かにあった幸福と安寧の夢の破片が散らばるだけで、とても元には戻せない。



それからの記憶はひどく曖昧で、だけど同時に鮮明だ。
何も言えずに俯く私に「返事はまたでいい」とだけ残して、薄暗い屋敷の中へと消えていったページワン様。その場で動けずにいたところへ、びしょ濡れで帰ってきたうるティ様。うるティ様の為に急いで風呂に湯を張り、夕餉の支度をし、片付け、明日の朝餉の仕込みも終えた。
まるで誰かが私を勝手に操っていたかのように、そして今はただその記憶を辿っているだけのように、すべてが覚束無い。

自室に帰ってきてから、じわりじわりと記憶も感覚も蘇り胸が締め付けられて苦しい。急に部屋の空気が薄くなったような気がして、堪らず窓を開ければ湿った夜の匂いがなだれ込んできた。雨はいつの間にか止んだらしい。

──与えたいものを与え、守りたいものを守る。

あの日のうるティ様の言葉の意味を、今になって痛いほどに理解ができた。あれは決して一方的な宣言などではなかったのだ。与えることも、守ることも、一人では完結できない。つまり、私に覚悟が足りないことを言われていたのだ。そう、愛される覚悟。

奪われる覚悟なら幾らでも出来ていた。私の持ち得るすべてを差し出してもいいと思っていた。否、それどころか奪われたいとさえ願っていたのだ。だってそれは、私の愛を信じることだから。愛しているから、何を奪われたって構わない。

だけど、与えられ守られることは、愛されることを受け入れることだ。私自身へ向けられた愛を信じる覚悟。そして、それを目の前に突きつけられた今、私はもう逃げ出したくて堪らなかった。

風に揺れた庭の木々が葉を擦らせ、ざわざわと不穏な音を立てる。それに撫であげられるように心がざらついていく。今この瞬間も、この国のどこかでは誰かが死んでいるのかもしれない。それがこの国の現実だ。

ページワン様の愛を受け入れた先で、私を待ち受けるものはなんであろう。国の民からの憎悪や侮蔑。そんなものは私自身がページワン様を愛した時点で覚悟した。
ざわついていた心が、今度は急激に凪ぐ。ぱたりぱたりと、折り紙を畳んでいくように、散らかっていた感情が暗い虚ろの中に飲み込まれてしまう。

ああ、そうだ。最初から間違えてたのだ。私も、ページワン様も。あの祠の神様に会えぬ寂しさを、ページワン様への愛にすげ替えてしまったあの日から。
私の身勝手な祈りや希望を無意識に押し付けて、ページワン様までこちら側に引きずり込んでしまった。このままではきっと、私が落ちるべき奈落や地獄にまで一緒に連れて行ってしまう。そんなことは許されない。そんな場所は、あの人には似合わない。

だからそう、私が仕立て上げてしまった神様を、解放してあげなければならない。





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