熱持つ泥濘にて


雨によって泥濘んだ土の上を歩くたびに、跳ねた泥が着物の裾を汚した。振り返れば屋敷からここまで残してきた足跡が続いていることだろう。
空を見上げても、高く伸びた木々の隙間から見える夜空には星も月もありはしない。明かりのない夜道は一歩先もまともに見えず、簡単に石や枝に躓いてしまって、歩きにくかった。だけど、今はそれでいい。暗い夜の闇が私ごと飲み込んで、その深い帳の中に隠してくれるから。

そこで一度立ち止まり、深く息をつく。
ほとんど衝動的に屋敷を抜け出したものの、先のことを考えているわけではなかった。ただ、あれ以上あの場所にはいられないと思ってしまった。だからもう、都に戻ることも出来ないだろう。
少しだけ故郷の村のことが頭に過ったけれど、未だにあの場所に村として存在しているのかは疑わしい。それに、たとえまだあの村が残っていたとしても歓迎されるはずもない。
だから結局、この国に私の居場所など、あの屋敷の他にありはしなかったのだ。そして、それすらも手放してしまった。

つらつらとそんなことを考えながら、それでも足取りは確かにある場所を目指していた。暗く先も見えないこの道の行先は、幾度となく見た夢の最果ての地に続くはずだ。








荒々しく打ち寄せる波が砂浜を抉る。濡れた着物が足に張り付くのも気にせず歩みを進めれば、あっという間に腰まで水に浸かった。蹴った小石が転がり落ちていくのを足先の気配で感じる。おそらくこの先は急に深い崖となっていて、一度落ちれば最後、もう戻っては来られないだろう。

最初に感じていた刺すような水の冷たさは、もう身体に馴染み、何も感じなくなっている。海は奈落を映し出したように真っ暗で、凝った闇が虚ろに私を呼んでいる。そして、それに誘われるままに足を踏み出す。沈み込むその一瞬、遠くに光を見た気がした。

ああ、またあの夢を見たのだ。
泥濘に沈む夢は、いつも最後に地獄に垂れる蜘蛛の糸のような光を見る。この幻もまたそれに違いはなく、今日もまた救われることは叶わない。

肺に溜まっていたはずの酸素は大きな泡となり吐き出され、代わりに飲み込んだ海水は塩辛く喉が焼けそうになる。無意識に藻掻いた手足が水を掻いても、身体は浮かび上がりはしない。これがきっと、罪の重さなのだ。誰かの不幸を願ってまで、自分の幸せを享受しようとした咎。それが無数の手足となって、泥濘んだ海底に私を引きずり込もうとしている。だけど、きっと、この海の底にかつて私が信じた祠の神様がいるのだ。この国の海はどこにも続かない。高く隔たれ、棄てられたすべてを閉じ込める場所なのだから──

「なにやってんだよ!」

沈んでいくばかりと思っていた身体が、急に引き上げられる。いきなり吸い込んだ酸素に思わず咳き込みながら顔を上げると、涙で滲んだ視界にページワン様がいた。

「……何で、こんなとこにいるんだよ」

絞り出した声にも、私を見下ろす瞳にも隠しようもない怒りが滲んでいる。だけど、その一方で縋るような必死さもあった。沈んでいく私を掴みあげたのであろう腕は、その必死さと裏腹にひどく弱々しかった。

そう思ったとき、ハッと我に返った。酸欠でぼうとしていた思考が少しずつ働き始め、ここが海の中であること、そこにページワン様が立っていることを急激に意識する。

「ページワン様こそ何でここに……!」
「なんか嫌な感じがして、なまえの部屋に行ったらなまえはいないし、庭に足跡があったから追ってきた」

支えられていた身体を起こして、今度は私がページワン様の腕を掴む。力なく私に身体を預けたページワン様が押し殺したように呟いた「……間に合ってよかった」の声が鼓膜を揺らす。何も言えないまま唇を噛むと、横目で窺うように私を見つめるページワン様と目が合った。

「……なァ、死にたくなるほど、おれに好かれるのは嫌だったか?」

躊躇いがちに、だけど聞かずにはいられなかったとその声色が語る。だけど、その言葉には、どうにも実感を持てない。酩酊から醒めた後のように、先程までの自分がどこか遠くに感じる。だけど、あのとき私は別に死にたいと思っていたわけではないのだ。

「この先に、私の神様がいるんです。ただ、そこに帰りたかっただけなんです」

自分でも驚く程に頼りない声が零れた。まるで迷子になった幼子のような心許ない響き。そうか、これは幼き日の私の声で、私はずっとそれに呼ばれていたのだ。

幼き日の記憶には飢えの苦しみはないけれど、代わりに孤独に埋め尽くされていた。今日を生きるのに精一杯な大人たちは私の孤独に気づいてなどくれず、満たされることない心を抱えて彷徨い歩いていた。
そこであの祠を見つけたのだ。私と同じ、孤独で可哀想なものに寄り添うことで、その欠けた部分を埋めようとしていた。

都に行ってからはその寄る辺を失い、また孤独になってしまった私の寂しさをページワン様が埋めてくれたから、そのまま神様の代わりにしてしまった。そしていつしか、ページワン様を神様そのものとして呼ぶようになってしまった。

そして今度は、救われたいと祈ることで孤独を紛らわせてきたから、本当に救われてしまうことが怖くなった。ページワン様とうるティ様と出会ってからの生活は、かけがえなく幸福なものであったけれど、孤独がなかったわけではなかった。孤独はいつも傍らにあり、それに寄りかかってさえもいた。

だから、ページワン様に愛された先で、幸せになることを上手く思い描けなかった。愛することも愛されることも、盲目に信じること以外知らずに生きてきたから、満たされる幸福に怖気付いた。本物の幸福を知ってしまったら、その先の責任はすべて自分に降りかかることが耐えられなかった。罪だ罰だと言い訳をして孤独に閉じこもっているのは、ひどく居心地が良かったから。
そうして臆病を拗らせて、結局大切な人を傷つけてしまった。

そのとき、遠くで大きな波の音が響いた。海面が大きく揺れて、白く泡立った波が岩場にぶつかっているのが見える。あの波に私たちが飲まれていてもおかしくなかったのだ。そう思うと背筋がゾッとした。荒れ狂う海の中で、私たちは無力だろう。

ページワン様も同じことを考えたのか、何も言わずに私の腕を掴み、岸へと向かって歩いていく。それにもう抵抗はしない。どうしてあんな海の中に身を投げることが出来たのだろうと不思議に思う。手を引いて歩いてくれるページワン様がいなければ、足が竦んで動けなくなってしまいそうなくらい、今はもうあの先の奈落が怖かった。

「なまえの神様ってのはオレなんだろ」
「……え?」

背を向けたままのページワン様に声をかけられて顔を上げる。夜明けの近づいた空は少しずつ白け始め、ページワン様の背中を先程までよりもはっきりと見て取れるようになっている。

「熱でうなされている時にそう呼ばれた。それで、さっきその先にいるって言ってたのが、なまえか会ったばかりの頃に言ってた故郷の村にあった祠のってことか」
「……はい」

ページワン様のことを神様と呼ぶ、そんな夢を見たうっすらとした記憶はあった。それがまさか現実だとは思っていなかったし、あの祠の話を覚えていたとも思わなかった。
驚いて言葉を失ってる私を振り返ったページワン様が、どこか悔いるように眉根を寄せた。

「あの時、なまえにそう呼ばれて……いや、なんとなくはもっと前から感じてはいたんだけどよ、なまえがおれが望んでる関係からどんどん離れていってるんだって気づいた。このままじゃ手遅れになる気がして焦って、困らせて悪かった」
「……いえ」

違う、ページワン様が謝ることなんて何ひとつないのだ。すべて私の弱さのせいだと言いたいのに、上手く言葉が出てこなくて、ページワン様が前に向き直ってからも黙って首を振り続けることしか出来なかった。

そうして浜辺まで辿り着くと、力尽きたようにページワン様はその場に座り込んだ。二人とも全身びしょ濡れで、見るに堪えない姿に違いない。屋敷に戻れば、さぞ、うるティ様に驚かれることだろう。
そこでハタと我に返る。当たり前のようにそう考えてしまったけれど、そもそも私がまたあの屋敷に戻ることなんて許されるのだろうか。

そんな私の考えを読み取ったかのようにページワン様と視線が交じり合う。

「なまえがどこにも行かなくなるなら、もうなんでもいい。神にでもなんでも、なってやるよ」

随分と投げやりな言い草に驚いて目を見張れば、ページワン様は少しだけ瞳を細めた。

「だから、なまえも諦めて、おれに愛されとけよ」

水平線から顔を出した太陽がページワン様を赤く照らす。その光を追うように海を見つめれば、あの暗く奈落を映し出したようだった海面は輝く光に満ちていた。美しき払暁の姿。

神様になってくれると言われても、もう、私の中には信仰の残滓も残ってはいなかった。すべて、あの海の底に落としてきてしまった。いや、もしかしたら神様の方から見捨てられたとも言うべきなのかもしれない。
今の私は繋ぎ止めてくれる寄る辺もなく、目指すべき標もないまま、彷徨う雲のような不安定さでここに立っている。否、あるいはこれが自由というものなのだろうか。今ならもう、どこにだって行ける。

「この国の外で見る朝焼けもまた、美しいものですか?」
「……え?」

予想外の返答に面食らったように目を丸くしたページワン様が、私が見つめていた朝日を見て、納得したように頷いた。

「あァ、朝だけじゃなく、夜だってこの国じゃ見れねェような星もある。海も花も鳥も、なまえの知らねェものだらけだ」
「それを見せに連れて行ってくださるのでしょう?」

立ち上がったページワン様が隣に立つ。二人分の影が並んで砂浜に伸びた。

「連れてく、もう決めた。覚悟は出来たんだろ?」

海の飛沫で濡れたページワン様の前髪が朝日を受けて輝く。覚悟、と声には出さず心の中で反芻する。愛される覚悟、それから逃げ出したはずのこの場所ですべてを失った。そして、気がつけば最後に残ったのはそれだけだった。

顔をあげれば、私の顔を覗き込んでいたページワン様と目が合う。心に充ちいくのは尊敬でも憧憬でも、かつて私を支配した信仰でもなく、もっと純粋な愛おしさだ。

「ページワン様、お慕い申し上げております」





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