はしっこで触れるだけなら許してくれるかい


手についた水滴を手ぬぐいで拭いながら、片付いた流しを見て、ふぅっと息を吐き出す。窓の向こうの景色はすっかりと夕闇にのまれ、遠くにぼんやりと木々の影が見えるだけだ。
一日の仕事を終えた充実感に満たされながら、厨にいるついでに残りの食材の確認もしておこうかなと思い立ち、食料庫へと足を向けることにした。

その時、背後の戸口がカラカラと音を立てて開いた。音につられるように自然とそちらに目を向ければ、食事を終えて部屋に戻ったはずのページワン様が立っている。

「あれ、どうしました?」
「……いや」
「そうだ、お茶でも用意しましょうか!」
「あー……そのままでいい」

再び流しに戻ろうとするのを制された上に、何やら歯切れも悪い気のする様子に首を傾げる。そのまましばらくの間のあった後、意を決したようにページワン様が私を見据えた。その視線に思わず身構えてしまう私の元へと歩み寄り、ついに目の前にページワン様がやってくる。そして、私に向けて差し出された手がパッと開かれた。

「馬油ですか?」

そこにあったのは小ぶりな瓶で、可愛らしい絵柄と共に描かれた文字を読めば、ページワン様は何も言わずに頷いた。都の店でも何度か見かけたことのある物だけれど、それをページワン様が持っているのがどうにも不釣り合いだし、こうして見せられている意図も分からない。困ってその顔を見上げれば、何故か同じように見つめ返され、再び奇妙な沈黙に戻ってしまう。

「今日、ブラックマリアから貰った」
「……あら、そうなんですか」

先に沈黙を破ったページワン様の言葉を聞きながら、自分でも腑抜けていると思う相槌を打つ。そのせいか、ページワン様の眉間にはさらに深く皺が刻まれた。

「手荒れにもいいらしいから、なまえにと思って……」
「え!私に?」

ページワン様の言葉を遮るように声を上げてしまい、慌てて手で口を覆う。そんな私を見て、眉をひそめていたページワン様が急に、力の抜けたような大きな溜め息を吐き出した。そこまで呆れられるほど声が大きかっただろうか。申し訳なさと恥ずかしさに襲われながら、精一杯肩を縮めて頭を下げる。

「ごめんなさい、貰えるものとは思わなかったので驚いてしまって」
「……反応がないから嫌なのかと焦った」

はっきりとしないくぐもった声で呟かれた言葉に、慌ててブンブンと首を振る。お互い意図を探るように黙っていたあの沈黙に、そんな思いが交錯していたとは思いもしなかっただけなのだ。

「い、嫌なわけ……でも、こんな私に勿体ないもの頂いていいんですか?」
「おれが持ってても仕方ねェだろ」
「それなら、うるティ様に差しあげても喜ばれるんじゃ……」
「姉貴は姉貴で貰ってる」

それならどうして貰ったのかと尋ねようとして、ハタと気づいた。貰ってしまったから私にくれるのではなくて、私にあげるために貰ってくれたのだ。
そうと分かってしまえば断る理由もない。時々買ってきてくれる私はのお土産と同じ、ページワン様からの優しい施し。

「それでは有難く……え?」

お礼を言って小瓶を受け取ろうとすると、何故か私の手を避けるように頭上へとページワン様が腕を伸ばす。揶揄われているのだろうか、と思いながらも、今までページワン様がそんな意地悪をしたことなどなかったので上手く状況を呑み込めない。
傍から見れば分かりやすく困惑しているであろう私を見て、ページワン様は「いじめてるわけじゃねェよ」と薄く笑った。

「ほら、手ェ出せ。塗ってやる」

思いかげない提案に声も出ないほど驚いたものの、すでに小瓶の蓋を開けて、粘土の高そうな液体を垂らしている姿に断ることも出来ずおずおずと手を出し出す。

両手に馬油を馴染ませたページワン様の手が、優しく私の手の甲をなぞる。一緒に暮らしていれば手や肩があたることもあるけれど、こんなにも意思を持って触れられたことは初めてだ。顔から火が出るほど恥ずかしい状況のはずなのに、まるで舞台や絵画の世界のように陶然と握られた手を眺める。ページワン様に触れられた箇所が、その存在を主張するように熱を持つような錯覚。

「綺麗な手ではなくてお恥ずかしいです」
「そうか?そりゃ、都の遊女とは違ェだろうけど、なまえらしい手だろ」

水仕事も多いせいで決して滑らかとは呼べない肌と、ささくれだった指先。それを遊女と比べられたことには別に不快さはなく、むしろ胸を過ったのは驚きだった。

そうか、ページワン様は遊女の手に触れたことがあるのか。この屋敷で見ているページワン様の姿からはあまり想像できないけれど、何も私がすべてを知っているわけではない。それよりも知らないことの方が多すぎるくらいだ。
嫋やかに泳ぐ回遊魚のような遊女の手を強く引くページワン様の姿を不躾にも想像してみようとして、上手くできないことにクスッと笑う。

そのとき、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

「いい香りがしますね」
「あー、なんかの花って言ってたな」
「たぶん、金木犀ですね。独特な香りなので私でも分かります」

金木犀、とページワン様が花の名を繰り返す。その声音からは金木犀の姿を知っているのかどうかは判断できなかった。橙色の小さな花々を鈴なりにつける木だと説明しようかと口を開きかけて、思い悩んでからやはりやめる。

もしも、いつかどこかでこの香りを嗅いだ時、その胸に思い返されるのが、金木犀の姿ではなく私であればいい。この香りがページワン様の中で私に繋がってくれたらいい。そんなことを浅ましくも思ってしまったのは、浅ましい嫉妬だろうか。
気にしていないと思いながら本当は、臆することなくこの手に触れることの出来る誰かに勝りたいと思ってしまったのかもしれない。卑しい下女の分際で、随分と思い上がった感情を持て余したものだ。

「なまえ」
「え?」
「……塗り終わったぞ」

ぼうっと思想に耽っている間に馬油を塗り終えたらしいページワン様が、何故か今さら頬を赤らめて私を見ている。不思議に思いながら視線を落とすと、私の方からぎゅっとその手を握っていることに驚いて慌てて手を離す。

「あっ、ごめんなさい!」
「いや、いいけど……ほら」

渡された小瓶を受けとり、それをぎゅっと胸に抱き寄せる。

「有難うございます。大切に使わせて頂きますね」

自分で手の甲に触れてみれば、しっとりと肌に吸い付くように潤った触り心地がする。そして、それに混じるように感じるページワン様の体温。少し触れすぎたせいで込み上げてしまった身分違いの感情を戒めるように、深く息を吸い込む。
戸口の外では夜の帳がいっそう深くその色を濃くする気配がした。





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