殉なる慕情


「珍しいな」

その声に振り返ると、まず視界に入ったのは派手な洋袴だった。それを追うように顔を上げれば、顔の半分を覆う面妖な仮面。ページワン様たちと同じ飛び六胞のフーズ・フー様だ。

「お久しぶりです」
「何か用だったか?」

その言葉に辺りを見渡せば、随分と遠くまで歩いてきてしまったらしい。普段はあまり見かけない景色に慌てて頭を振った。

「あ、いえ……時間があったもので、少し散歩をと思っただけで」
「一人でか?」
「ええ、今お二人は遠征に行かれているので、屋敷ではあまり仕事がなくて」

いつもなら騒がしい屋敷が妙に静かだとどうにも落ち着かず、けれど掃除は昨日までにあらかたやり終えてしまった。仕方がないから気分転換に島を歩いて見ようかなんて思っていたら、こんな所でフーズ・フー様に遭遇したというわけだ。
そう説明すれば、なんとも興味の無さそうな返事と共に、ふう、と空に向けて灰色の煙を吐き出された。

「恋人がいねェ間に羽を伸ばしてるわけか」
「え、恋人?」
「お前ら付き合ってんだろ?」
「そんなまさか!」

誰とのことを言われているのかは聞くまでもなく分かってしまい、否定しようとした声は思わず大きくなる。それからハッと我に返って、飛び六胞ともあろう方になんて失礼をと焦ったけれど、幸いにも気分を害した様子はなかった。むしろ、どこか楽しそうにも見える。

「でも、好きだろ」
「……まぁ」

そうも断定した口振りで言われたら偽るのも馬鹿らしく思えて素直に頷くことにした。この間のドレーク様といい、滅多に私たちの姿を見ることなどないはずなのに、どうしてこうも気づかれるのだろう。
煙草を地面へと捨てたフーズ・フー様が、その火を踏み消すのをぼんやりと眺める。

「それで、この先どうなるつもりなんだ」
「この先?」
「この国を乗っ取った海賊を本気で好きになったその先だ。嫁いでお前もこっち側に来る気か?」

そんな度胸もないだろうと暗に揶揄されていることくらい分かる。それもそうだ。私なんてただの無力な小娘で、自分の身すら満足に守ることもできない。

空全体を薄い雲が覆った空は白けて太陽の姿を隠している。ページワン様は今、何を思って何処にいるのだろう。海の上だろうか。それとも、どこかの島。どこにせよ、そんな場所を私は上手く思い描けないし、ページワン様の心の内にも私の存在など微塵もないだろう。「行ってらっしゃい」と見送って、その後にすぐ忘れ去られる。私はそれだけで、もう十全だ。

「……先なんて考えてはいませんよ。今が幸せなら、それでいいんです」

いや、本当のことを言えば考えているのかもしれない。いつかくる終わりの日。この国が終わりゆく瞬間。その日のことを考えては、破り捨て火に焚べる。そうして灰に変えているだけで。

「この世が地獄だろうと、奈落だろうと、どれだけの人間が煉獄の炎に焼かれようと、どうでもいいと思ってしまうくらい……今が、幸せなんです」

一字一句はっきりと、違うことなく口にする。その言葉に課せられる罪なら背負っていくと決めている。
私を一瞥したフーズ・フー様はハッと嘲るように笑ってから、新しい煙草に火をつけた。

「薄情だな。この国に家族もいるんだろ」
「まあ、まだいるかもしれませんね」

煙草の煙が空へとくゆる。それを眺めながら感じる視線は同情や慰めではなく、ただそこになんの感情を感じられない。
口減らしとして捨てられる子供。そうして都に送られて、小銭を稼いで生きてきた。そう昔の話ではないはずなのに、今思えば随分と遠い出来事のように感じる。泣いていた気のする母の顔は微塵にも思い出せそうにない。

「よくある話です。この国じゃ今時、悲劇とも呼んでもらえないような」
「そうだな」

この国をそんな風に変えておきながら、あまりにも興味のなさそうなその返事に思わず笑ってしまう。聞く人が聞けば激高するのかもしれないけれど、別に憐れまれたいわけでもない。

「まァ、お前の気持ちはそうでも向こうは違うだろ」
「はて、なんのことやら……?」
「とぼけんじゃねェよ」

ふと、茂みの向こうに倒されて所々がひび割れた道祖神があることに気がついた。かつては神と崇められ、多くの供物を捧げられたであろう残骸。人々の祈りと暮らしがあった証。それが今や見る影もなく草に埋もれ、多くの人の記憶から失われているのだ。

「神を信仰する巫女の誰しもがその寵愛を受けたいわけではないでしょう?」
「……神、か」

フーズ・フー様の声から色が失われたような気がしたけれどその顔を覆う仮面のせいで表情は見てとれない。立ち上る紫煙は空へ溶けて消えてゆく。

「物の例えです。ただ、あの方の存在に私が勝手に救われていたいというだけの」
「だけど手を伸ばされてェわけじゃねェ、と」
「手に入らない方が美しいものもあるんですよ」
「……へェ」
「なんですか、その感じ?」

さっきとは一転、今度はあからさまにニヤリと口角を上げてフーズ・フー様が私を見下ろす。その雰囲気に思わずたじろげば、その笑みはいっそう深くなった。

「ただのガキだと思ってたが、その表情は悪くねェなと思ってな」

言葉の意味が分からず戸惑っていると、フーズ・フー様の伸ばした手が私の顎に触れて顔を持ち上げられる。咄嗟に身体を引こうとしたものの、その手の大きさとこの指先だけで簡単に命くらい奪われるでろう恐怖で身体が動かない。

「貰いもんの菓子があったから食ってけよ」
「……知らない人にはついていっちゃいけないってページワン様に言われてるので」
「知らなくねェだろうが。オラ、行くぞ」

何事もなく離された手にホッと胸を撫で下ろせば、そんな私を嘲るように一笑してからフーズ・フー様は大きな歩幅で歩き出してしまう。しばらく逡巡してから、小走りでその後を追うことにする。

強く吹き付けた風が木々を揺らし、木の葉を散らした。
ふと、もしもページワン様が帰って来た時、私が殺されていたらどうなるかと考えてみる。願わくば、ほんの一時だけ驚き、悼んで、そうしてすぐに忘れてくれたらいい。だけどきっと、それよりもっと深い悲しみに暮れ、怒りを心に滾らせ、涙だって流してくれるのだろう。
そうと想像出来てしまうことは私にとっては不本意であるはずなのに、制御の効かない心の奥が柔らかく疼く。ああ、と漏れだした苛立ちに近い嘆息が、己の甘さを蔑むように薄ぼやけの空の坩堝に落ちていく。






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