君に目が眩む


ページワン様とうるティ様が帰ってこられて、屋敷は再び穏やかな賑やかさを取り戻した。朝餉の片付けを終えて、軽く庭先の掃除でもしようかと思っていると、廊下にページワン様が立っているのが見えた。
壁に凭れて、ぼんやりと重く雲の垂れ込む空を見上げる横顔。思わず足を止めてその姿を見つめていると、ページワン様の瞳が不意にこちらに向いて、少しだけ驚いたように見開かれる。

「何かありましたか?」

小首を傾げて尋ねれば、私の方に体を向き直したページワン様が歯切れの悪そうに「いや……」とか「あの……」などを繰り返す。その様子に何か都合の悪いことでもあっただろうかと心配になり始めた時、意を決したようにページワン様が私を見据えた。

「この間会ったんだってな」

この間、会った。ふたつの言葉をぐるぐると頭の中で巡らせながら、ここ最近で起きた珍しい出来事をひとつ思い浮かべた。

「あっ、もしかしてフーズ・フー様のことですか?」
「なんでそう余計な奴らに会うんだよ……」

苦虫を噛み潰したように眉根を寄せたページワン様が深く嘆息する。余計な、というのはきっと以前にドレーク様と会った時のことも含まれているのだろう。

あの日、フーズ・フー様に連れられて彼のお屋敷に呼ばれた後、本当にただお菓子を食べて、フーズ・フー様の部下である女性たちとしばらくお喋りをしてお暇した。何かページワン様の都合が悪くなることを話したつもりはないけれど、同じ海賊団に属するとはいえ簡単に他の屋敷に踏み込むのは些か浅はかだったかもしれない。

自分の浅慮さを恥じて慌てて謝ろうとすると、それを遮るようにページワン様が首を振った。

「あァ……悪い、責めたわけじゃなくて……なまえ、この後の予定は?」
「庭の掃除をしようかと思っていましたけど……」
「それって今日じゃないとダメなやつか?」
「え? いえ、そんなことは」

会話の意図がいまいち掴みきれず、戸惑いながらページワン様からの問いにひとつずつ答えていく。すると、一瞬黙ってしまったページワン様が一段と深く息を吐き出した。そうして、片側だけ覗いたその瞳にじいと私が映る。

「これから、おれと出かけよう」









カツカツと下駄が地面を蹴るのが視界の端に映る。そういえば、新しい鼻緒にすげ替えてから、この下駄を外で履くのは初めてだ。
ページワン様と都へ出掛けることになって、無意識にこれを選ぶくらい、思いのほか浮かれている自分を諌めるように、ふうと息をつく。

「どうした、疲れたか?」
「いえ、大丈夫です」

少し前を歩いていたページワン様が足を止め、気遣うように顔を覗き込まれる。取り繕うように笑い返してから視線を上げると、甘酒と書かれた暖簾が風にはためいているのが目に入る。
空は青々と冴え渡り、鮮やかな色で溢れた町並み。どこか遠くでは、芸妓の弾く三味線の音がかすかに聞こえてくる。

「何処か入るか」
「……え?」
「好きだろ、甘いもん」

甘味処の並ぶ軒並みを指さすページワン様の提案にどう返事をしたらいいのか戸惑う。都についてから、二人でこうして歩くばかりで今日の目的も分かっていない。ページワン様と出かけられることも、二人で甘味を食べられることも嬉しいけれど、そんな道草を食っていてもいいのだろうか。

「ページワン様が何か都に用があったのではないんですか?」
「……今」
「え?」

町の喧騒に呑まれてページワン様の声が上手く聞き取れない。問返せば、少し頬を赤らめたページワン様が目を逸らす。

「なまえが他のやつに餌付けられたのが気に入らなかったんだよ」

その言葉にきょとんと目を見張ってから、ぽつりと「餌付け」と繰り返す。何のことを言われているのかは分かっている。フーズ・フー様から頂いた外海の菓子のことだろう。

どんなふうにページワン様にその話をしたのかは知らないけれど、フーズ・フー様のことだから意地悪く語ったのかもしれない。だからこうして外に連れ出してくれたのかと思ったら、急に可笑しくなって声を出して笑ってしまう。
ひたりひたりと幸せが忍び寄り、それを覆い隠すように虚しさが込み上げる。

「どんな美味しいものや高価なものを与えられたってちゃんとページワン様の元に戻ってきますよ。私は、よく躾のできた女中ですから」
「なんだよ、それ」

胸を張ってみせれば、ページワン様が少しだけ相好を崩す。その表情を見つめながら思い起こすのは、あの日、フーズ・フー様と交わした言葉だった。ページワン様が私に向けてくれる想い。こうして与えられる優しさに込められたそれに気づいていないわけではない。
だけどそれは、私が受け取るにはあまりに柔らかく、優しすぎるのだ。

「今日は本当にいいお天気ですね」
「そうだな」

空を仰げば、隣でページワン様も同じように瞳を細めた。
鮮やかなこの都に対する違和感。不幸せの上に立っているという自覚。否応なく私の中に跋扈するこれらをページワン様が感じることなどないのだろう。
まるで恋人たちの逢瀬のような時間を過ごそうと、私たちはどうしようもなく違う。私からページワン様へ向ける恋慕には切実さが重すぎて、その手に届く前に落ちていってしまうのだから。

「それで、何か食いたいもんはねェのかよ」
「うーん、そうですねぇ」
「そういや、フーズ・フーのやつからは何貰ったんだ」
「……名前を教えてもらったのですが覚えられなくて」

あのお菓子の形状を説明しようと試みたけれど、何しろこの国では見たこともないようなものだから伝え方もわからない。そんな私の様子を、ページワン様は眉を下げて「それじゃ、わかんねェよ」と笑う。

「外界の言葉は難しいです。ページワン様がお好きだというナチョスというものも最近やっと覚えたのに」
「この国の言葉だって独特だろ。おかげて姉貴の言葉遣いもあの始末だ」

その時、一陣の風が吹き付けて遠くから潮の香りを運んできた。それが見たこともない、荒れ狂いも渦を巻きもしない穏やかな海を想像させて胸が疼く。

「外海の世界は広いのでしょうね。私の知らないものが沢山あるなんて、信じられないです」
「いつか行ってみるか」
「え?」
「おれや姉貴と一緒に。それならカイドウさんも許してくれんだろ」

叶うことを疑いもしない、その軽やかな願い。ああ、やはり隣にいながらこんなにも遠い。頷くことは出来ないまま浮かべた笑みに、ページワン様は何も気づきはしないのだろう。
海底から仰ぎみる太陽みたいに眩しいその愛に、私はやはりただ祈ることでしか応えられないのだと、まざまざと思い知ったような気がした。


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