愛だけを抱えて


その日の夜、明日の朝食の仕込みをしているところにやって来たうるティ様にせがまれて今日のページワン様との話をすることになった。
食べ歩きをしたり、雑貨屋を覗いた話をすれば、なんで連れて行ってくれなかったのかと怒ると思っていたうるティ様は変わらず上機嫌のままだった。不思議に思っていると、何かを含んだようにフフッと笑い声が聞こえた。

「なまえはペーたんのことが好き?」

筋を取っていた豆の莢から顔を上げて、頬杖をついたまま私の方を見ているうるティ様に視線を向ける。筋の取られた豆がこんもりと盛られたザルと、それ以上何も言わないうるティ様を何度か見比べてから、私も同じように口角をゆるりと上げる。

「好きですよ。うるティ様のことも、ページワン様のことも、大好きです」

新しい莢を手に取り、すうと筋を取る。
うるティ様の方は見なくても、その大きな瞳が今度こそ不満そうに歪んだのが分かる。

「分かっててはぐらかしてるでありんすか」
「……最近、そう尋ねられることが多いんですが、私ってそんなに分かりやすいんでしょうか」
「分かりやすいとかじゃなくて……でも、分かるでありんしょ」

分かりやすいわけではないけど、分かる。言われた言葉の意味が上手く飲み込めなくて、もう一度反芻し直しながら手に持っていた莢を置く。そのままぐっと天井を仰ぎみれば、凝っていた首がぱきりと音を立てた。
見慣れたはずの天井に、今まで気づかなかっただけなのか、あるいは新しく出来たのかは分からないシミがあって、急に心が冷えていく。私にとってのこの屋敷は、幸福を約束してくれる防壁のようなものであって、それに何か少しでも変化が生じることを恐れていることに気がついたのは最近のことだ。だから、必要以上にこの屋敷を整えてしまう。これも一種の防衛本能のようなものなのだろう。

「この恋は、もう完結してるんです」

温度の冷えた心のままで口にした言葉は、自分で思っていたよりも冷たい響きを持っていた。慌てて取り繕うように続けて口を開いた。

「私の人生で一番幸せだったのは、お二人とこの屋敷で暮らす時間です。うるティ様とこうしてお喋りをして、ページワン様に密かに想いを寄せて、私は今とっても幸せなんです」
「なら、ぺーたんと両思いになったら、もっと幸せになれるでありんすね」

ぱあ、と輝いたうるティ様の表情に、心の奥底から湧き上がる重たい澱のような感情。これを後ろめたさや罪悪感と呼ぶのだろう。
あの日、ドレーク様から向けられたのは牽制や蔑みで、フーズ・フー様のあれは嘲りや侮蔑だった。隠していたものを言い当てられた気まずさこそはあったものの、それらは全て真実なのだから傷ついたりはしなかった。

だけど今、うるティ様から向けられているのは純粋な喜びと期待だ。私には決して応えることの許されないもの。有り得るはずのない未来。そんなものを目の前にチラつかされて、傷つく心から逃げるように目を逸らした。

「幸せでしょうね。幸せすぎて、その先を耐えられなくなってしまうくらい」

いつのまにか震え出した手を押さえつけて、絞り出すように声を震わす。明らかに様子の変わった私を気遣うようにうるティ様に名前を呼ばれたけれど、一度決壊してしまった言葉の奔流を留めることは出来ない。

「この屋敷での暮らしが、これからもずっと続くなんて夢をいつまでも見ていられないってことくらい、ちゃんと分かっているんです」

声を荒らげているわけではないし、感情のままに泣き出したりなどしているわけでもない。それでもたぶん、うるティ様と出会って以来、あるいは生涯で最もと言ってもいいほどに激しい感情が自分の中で渦巻いていた。

「いつかきっと、うるティ様もページワン様もこの国を出ていく日がくるでしょう? そのとき、この国がどんな有様になっているかは分かりませんが、私の幸せはそこできちんと潰えるんです」
「なまえも一緒に来たらいいでしょ」
「……本当に?」

試すように笑えば、うるティ様は少しだけ傷ついたように眉をひそめた。そこで初めて、この激情の正体がやり場のない怒りなのだと腑に落ちる。
嘘も偽りもなくうるティ様のことだって大好きで、そんな表情をさせたかったわけではない。うるティ様が私のことを思ってくれていることだって、痛いくらいに理解している。それなのに、破壊に尽くされたこの国で、同じように破滅に向かっていくはずだった恋を救うような幻想を見せられたことを私はやはり怒っているのだろう。

「私は、ただのしがない小娘です。たまたまこの屋敷に雇ってもらえて、女中として働いているだけ。海の外でなんて、それもカイドウ様の下でなんて生きていけない」
「私も、ぺーたんも守ってあげる」

きっと、そうだろう。守ってくれる。
だけど、守られたいわけではないということは分かってくれない。

「今のままなら、大丈夫なんです」

ページワン様への恋情を、尊敬や憧憬、そしてそれ以上に信仰にも近いような敬虔さへと昇華しているのは、結局何よりずっと私自身のためなのだ。庇護されるだけの身になれば、自分の無力さや無価値さに打ちのめされてしまう。互いを思い合うような身になれば、それを失う恐怖に押しつぶされてしまう。

だから、ただ一方的に崇拝し、信仰している。待ち受ける未来に何が起きようと、その愛は私自身の内側にあるものなのだから、私が手放さなければ失うことはない。

「これから先、この身がどんな地獄におちたって、ページワン様のことを思う恋心だけで、どんな飢えにも痛みにも耐えていける。だけどこれ以上は、もっともっと、と強欲な恋情に身を焦がすだけで救いにはなれない」


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