ぼくの欲は海より深い


そこは灰褐色の世界だった。
この世にあった命という命がすべて絶えゆく最中。辺り一面は泥濘んだ沼地で、底なしの地獄へと、叫び、呻きながら沈みゆく人影。
そんな光景を眺める私の足元だけはしっかりとした地盤に固められ、すぐに沈む様子は見られない。

すぐそこで、またひとり、誰かが沼の底へと引きずり込まれる。その顔面がこちらを向いた。虚ろなその瞳が私を捉え、完全に光を失う。

「……ああ」

何をしたわけでもない。突き落としも、死ねと願ったわけでもない。──だけど、これは私が殺した人間の顔だ。
彼だけではない。ここにあるすべての亡骸は、私が己の幸せのために犠牲にしたものたちだった。

いつの間にか集まった人とも呼べない肉塊が、動けない私の腕を掴む。「こちらへ来い」「こちらへ来い」と鼓膜を震わす声に抗うことが出来ない。
踏み出した足が、泥濘に跡をつけ、消えていく。すぐに泥へと足を取られ、ゆるやかに沈みだす身体。思わず空を仰げば、重く垂れ込んだ雲の間で、何かが光り輝くのが見えた。まるでこの世の救い、奇跡のように。地獄へと垂れ下がる蜘蛛の糸のように。

だけどもう、間に合わない。










「──っ!」


飛び起きるとそこは見慣れた自室だった。波が引いていくように夢の気配は遠ざかるのに、バクバクと心臓を震わす動悸はおさまりそうにない。
障子の向こうから、ぼんやりと射し込む月明かりが部屋を照らし出す。間違いようもなく、ここは現実だ。

そうと言い聞かせても押し寄せる不安が和らいではくれない。居てもたってもいられぬまま、羽織を掴んで部屋を飛び出した。廊下を回るのももどかしく、縁側を降りて庭を横切ることにする。目指す場所などただひとつ、決まっていた。





茂みを抜けて辿り着いたページワン様の部屋の前で足を止める。瞼を閉じれば、沼地に沈みゆく無数の顔が浮かび上がってくる。
深く呼吸を繰り返し、ゆっくりと瞳を開く。祠の前で、その奥の神の存在を確かめるように、灯りの消えた障子の奥を見つめた。まるで懺悔だ。許しを請い、救いを求めている。

そんな自分に嘲りにも似た笑いが漏れる。ページワン様のことを尊敬し、祈るように想うだけだったはずの愛が、いつの間にか本当に彼自身を己の神様へと祀りあげてしまっている。

そのとき、ふと障子が開いて息を飲む。暗闇の奥から現れた夜間着姿のページワン様も驚いたように目を見張っていた。

「……何かあったのか」

ページワン様の声が張り詰めた真剣さを帯びる。こんな夜更けにわざわざ庭を横切ってまで部屋を訪れたことに緊急の事態と判断されたのだろう。それを頭振って否定する。

「少し、夢を見て……眠れなくなってしまったから、ページワン様の気配を感じたら安心する気がして……」

また僅かに目を丸くしたページワン様が、しばらく逡巡してから気遣うように口を開いた。

「……入るか?」
「あっ、いえ、すぐに戻ります。夜分遅くに、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

慌ててこの場を立ち去ろうとすると、ざり、と砂を踏み鳴らす音が鼓膜を揺らした。顔をあげれば、縁側から降りたページワン様の手が私の腕を掴んでいる。

「ページワン様?」
「まだ顔色が悪い……その、もう少し落ち着くまで、ここで話していけよ」

思いがけない言葉に瞳を瞬かせれば、ページワン様の頬がわずかに朱に染まるのが見て取れた。

「いいんですか?」
「……あァ」

ページワン様に腕を引かれるままに縁側に腰掛ける。藍色の夜空から降り注ぐ乳白色の月明かり。ああ、まるで夢のようだ。先程までの焦燥はすっかり消え去り、心は静かな幸福に満ち足りている。
ここが夢なら、あの沼地が現実でもかまわないと本気で思えるほどに。

「なんだか今日は、随分とページワン様とお話をしている気がします」
「そうだな。昼の続きでも話するか……もし海の外に出たらなまえは何がしたい」

ページワン様の言葉に、自然とうるティ様にとってしまった非礼な態度を思い出して胸が痛む。それを見せぬように心がけながら、ふと、心に浮かんだのは深く、静かな海底だった。

「海で、泳いでみたいです」
「……海か」
「外には自由に泳げるような美しい海があるんですよね? 海の底まで届くくらい深く、自由に、泳いでみたい」

遠い昔、まだ都の宿屋にいた頃に聞いたことのある外つ国の海の話。それを話せば、拗ねたように顔を背けられてしまう。

「なんでそう、おれには叶えにくいことばかり……」
「え?」
「なんでもない」

本当は聞こえていたくせに、聞こえないふりをする。海を泳ぎたいと言ったことだって、別にそこまで本気ではないのだ。ただそこが、ページワン様には行けない世界だから、行ってみたいような気がしただけ。
いつだったか二人で足首まで川の水に浸かったことがある。そこが共に歩ける限界の場所。そこから先で、私は一人きりになる。

いつか私が海を泳ぐ日。それはきっと、彼の手からこぼれ落ちてしまった日だ。広い海の中で手足を伸ばしながら、私は自由を呪うだろう。
ページワン様のいない世界でだけ私が自由なのなら、こんな軽い水よりも、首輪でも手枷でも足枷でも、重たく縛っておいて欲しかった。そう泣き喚いては、少しずつ海水の濃度を薄めていくのだろう。


back : top