04
駅を出て、大通りを五分ほど歩く。オフィスビルの隣の少し細まった道に入ると、すぐにレンガ造りのその店が見えてくる。一度立ち止まってライトに照らされたメニュー看板を眺めてから、少し重たい扉を押して店内に入った。
「いらっしゃいませ」
カラン、と響いたベルの音に反射的に顔を上げたぺーたんが私の姿を見てわずかに目を見開く。そんなぺーたんに小さく手を振りながら店内を見渡せば、奥のテーブル席をカップルと仕事帰りらしき女性グループが使っている以外にお客さんはいなそうだった。
週の真ん中だけあって空いているな、と思いながらカウンター席に座る。
「……来るなんて言ってなかっただろ」
「ごめんごめん、思ってたより遅くなっちゃったから食べて帰っちゃおうと思って」
そう言えば、ぺーたんは店内の壁にかけられた輸入品らしきアンティークの時計に視線を向けた。それから少し眉を寄せる。険しい表情だけど多分、連絡もせずに勝手に来たことを怒っているわけではない。こんな時間まで仕事をした私を労わってくれている気持ちは多少あるだろうけど、それよりも今日は自分が一緒に帰れないことを気にしているんだろう。
この店があるのは私たちの住むアパートの最寄り駅からひとつ離れたところで、シフト次第では終電のなくなるぺーたんは普段自転車で通っている。
今日も確か、明日が午後からしか授業のなかったぺーたんは遅くなると言っていたはずだ。
「ちゃんと電車使うから大丈夫だよ。そしたらいつも通りだし」
「それはわかってるけど……飲むんだろ?」
「出来れば……」
上目遣いに様子を窺えば、ぺーたんは少しだけ溜め息を吐き出した。酔った状態で夜道をひとりで歩かせるのが嫌ということなんだろう。
その程よい心配のされ方が心地いい。
どうしても仕事で遅くなる日や接待なんかもあるし、友達と飲みに行く日もある。そのすべてを心配されたいわけではないけど、何も思われないでいいわけでもない。
その兼ね合いが絶妙なんだよな、とぺーたんを見つめながら思う。だけどこれは、ぺーたんの素養というよりは私との相性の問題なのかもしれない。
そんなことを考えていると、ぺーたんは私がお酒を強請っていると思ったらしく、仕方なさそうに首の後ろを掻いてからグラスを手に取った。
「ビール?」
「うん、お願いします!」
ビールサーバーに向かうぺーたんはここの制服でもある黒シャツとスラックスがよく似合っている。背はそんなに高いわけではないけれど、細身ながらに引き締まった体躯に長い手足はスタイルがいいといって間違いない。
この店でバイトを始めたばかりの頃はどこかぎこちなかったのに、一年も経てばこんなにそつなくなるんだなぁ、と最近ここに来る度に思っている気がする。
「ほら」
「わーい、ありがと」
目の前に置かれた黄金色のビールと小洒落たお皿に盛られた生ハムに控えめに歓声をあげる。早速ビールに口をつけようとしたら、空きっ腹はやめとけ、とぺーたんに注意されてしまった。
唇を尖らせつつ、大人しくグラスを置きフォークを手に取る。塩気の効いた生ハムは確かに美味しいな、と噛み締めてから今度こそ念願のビールを流し込む。
「あー、美味しい!」
「幸せそうだな」
「幸せですからねぇ」
店長こだわりのクラフトビールは絶品で、店内ではワインを飲んでる人も多いのだけど、私はついいつもビールを選んでしまう。それからソーセージの盛り合わせとアンチョビを頼んで、ふと店内を見渡す。
「そういえば店長は?」
「あー……そういやずっと見てないから、どうせサボってんだろ」
「相変わらずだね」
使い込まれたスキレットを手に持ったぺーたんが事も無げに口にする。それを聞いて私も思わず苦笑を漏らした。
この店の店長は少し変わっている。悪い人では決してないんだけど、どこか掴みにくくて、それでいて距離を詰めてくるのは上手いからつい身構えてしまう。そしてよくサボる。
本当に忙しい時はちゃんと働くし、そのぶん自由に出来るから不満はないと、いつだかぺーたんが言っていたことを思い出していると、店内の奥から「すみませーん」という声が響く。若い女性が手を挙げている店の奥のテーブルへとぺーたんが向かっていく後ろ姿を眺めてから、また一口ビールを流し込んだ。
「あれ、なまえちゃん来てたの」
「来てました。あんまりサボってちゃダメですよー」
タイミングよく厨房の奥から現れた長身に一瞬驚いてから、その顔を見上げてクスッと笑う。頭を指さすジェスチャーをすれば、「こりゃいけねェ」と取り払われたアイマスクが無造作にズボンのポケットにしまわれた。
「おっ、あれは彼女としていいの?随分とデレデレしてるけど」
わざとらしく遠くを望むようにした店長の視線の先で、ぺーたんは先程の女性たちに何やら話しかけられていた。断片的に聞こえてくる会話から察するに、髪型がどうとか、カッコイイとか、そういう話をされているらしい。
「デレデレ……は、してないと思いますけど。まあ、触られてないからセーフです」
「触らせたらアウトなわけね」
「時と場合にはよりますけどね。それでもやっぱり、近付きすぎて欲しくないな、くらいは思いますよ」
背中から早く立ち去りたいという空気を放っているぺーたんをしばらく眺めてから、カウンターに向き直り残っていた生ハムを口に入れる。
「へェ、なまえちゃんもやっぱ嫉妬とかするんだ」
「そりゃしますよー。特に大学の頃とか、目つき悪いし、口数が多い方でもないから表立って騒がれないけど、実は結構優しいし可愛いって、意外とページワンくんのことを好きって言う女の子はいたんですよ」
サークルの後輩なんだっけ、という店長の言葉に黙って頷く。
「それでいて、本人はそんな意識ないから昔はよくヤキモキしました。でも、今は……」
「今は?」
「そのカッコいい人、私と一緒に住んでるんですよぉ、って優越感が勝ってます」
「ハッ、言うねぇ」
店内を流れるジャズピアノの旋律が次の曲に変わる。それが少し前の映画の曲だったから、ふと、ぺーたんと出会ったばかりの頃の記憶と繋がる。薄暗い映画館、雨の降るワンルーム、買ったきりほとんど使われていないオーディオセット。
「……何話してんだよ」
ぷつん、と記憶の坩堝に飛んでいた意識が呼び戻される。振り返れば見るからに不機嫌そうなぺーたんが立っていた。どうにか切り抜けてきたらしい。私たちの会話は聞こえていなかったとは思うけど、雰囲気から自分の話がされていたことは察するものなのかもしれない。
「んー、内緒?」
「そうそう、ナイショ。あっ、今日ふたり一緒に帰っていいよ」
「ホントですか!やった、じゃあビールおかわり」
「おい、だからって飲みすぎんなよ」
店長が私からグラスを受け取ってビールサーバーに向かい、ぺーたんは渋々といった様子でカウンターの中へ戻って料理の続きを始めた。
シックに統一された店内の壁に飾られたアンティークの瓶に照明があたって輝く。アルコールで少しだけ火照った頬に自分で触れると、ゆっくりと体温が移っていく。
こうして美味しいご飯を食べたあと、自転車を引くぺーたんと二人で一駅分歩く夜道のことを考えたら、どうしようもない幸福感に包まれるような気がした。
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