08
ページワンくんと映画館に行くことになったのは、あの約束の日から一週間が経った後だった。その間に冷たい雨が二日続けて降り、残滓のように漂っていた夏の気配はどこかへ流されて行った。
「わー、日が暮れたね」
「そうだな」
映画館を出た時はまだ遠い山陰にオレンジ色が佇み、空は薄藍に染まっていただけだったのに、近くのカフェで夕食を終えると、街にはすっかり夜の帳が下りていた。
急な冷え込みに慌てて色付き始めた楓の並木がライトアップされ、駅へと続く通りは秋の夜の様相を呈し始めている。
その並木道をページワンくんと並んで歩きながら、今日のことを思い返すと、心の中に幸せの蜜が少しずつ満ちていく気がする。
「あー、もう一本なんか観ようかなぁ」
「まだ観んのかよ」
「いい映画観た後ってなかなか現実に戻りたくないから、展開も全部知っててぼーっと眺めてるだけでいい映画を流してたくなるんです」
呆れたように横目で見てくるページワンくんに、拗ねたフリをして顔を背ける。建ち並ぶ店のショーウィンドウに灯った明かりをぼんやりと見つめながら、家に帰ってから観る映画のことを考えていると、ページワンくんがふと足を止めた。
「どうかした?」
「……それ、ウチで観てくか」
被っていた帽子に手を触れながら、ページワンくんの視線は地面を見ている。私たちが立ち止まっていることなど気にもとめずに人々の雑踏は急ぎ足に通り過ぎていくばかりだ。
「それは……ページワンくんの、家ってことだよね?」
「あァ」
「そっかぁ」
悩むように視線を宙に向けながら、心の奥ではこの後に私は頷くだろうという確信があった。今日、駅前で壁に凭れるようにしながら私を待っている彼を見た時、何かが変わるのだと思った。居心地のいい曖昧な距離感でずっと停滞していた私たちの関係が動き出すのだと。そんな、期待と呼ぶには確かすぎて、決意と呼ぶには軽すぎる、秋の訪れに紛れて胸に到来した感覚が再び蘇る。
吹き抜けた風が木々を揺らして散っていた枯葉を舞い上がらせる。そういえば、彼と出会った日は桜の花びらがこんなふうに舞い上がっていたのだった。
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ページワンくんのアパートは大学からだと一つ路線を乗り換えなければいけない駅から十分ほど歩いたところにあった。外付けの階段を上ってすぐの部屋。学生向けのアパートにありがちな玄関入ってすぐの廊下にキッチンのついたワンルーム。
そのキッチンでページワンくんが棚を開けて中を見せてくれる。
「何飲む?」
「色々置いてあるね」
「姉貴が置いてくんだよ。好きに飲んでいいって言われてるから、遠慮しなくていいし」
「じゃあ……アップルティーで」
「わかった。好きに座ってていいから」
棚からリンゴの絵の描かれたパッケージの紅茶を取り出して、電気ケトルに水を入れるページワンくんを少し見てから、お言葉に甘えて先に部屋にお邪魔する。
壁沿いにベッドがあり、ガラスのローテーブルには大学で使っているところを何度か見かけたことのあるステッカーだらけのパソコンが置いてある。
少し悩んでからベッドに寄りかかれるテーブルとの隙間に腰を下ろした。向かいにテレビがあるから、たぶん普段からページワンくんもここに座って生活してるんだろう。
鴨居にかけられた帽子がいくつかと、部屋の片隅に無造作に放置されたまとめ買いをしたのであろう黒いマスクに、ああ、ここがページワンくんの部屋なんだな、と実感が湧いてきた。
「床冷たかったらベッド座ってくれてもいいけど」
「いや、流石にそれは気が引けるよ。ラグ敷いてあるしここで平気」
「……そうか」
テーブルに二つマグカップを置き、ページワンくんも私の隣に座った。私の前に置かれた淡いピンクのカップは、たぶんお姉さんが普段使っているやつなんだろう。
そこでふと部屋の隅のラックに目が止まる。
「立派なオーディオセットだね」
「あー……入学祝いで貰ったんだけど、結局ほとんど使ってねェやつ」
「あはは、宝の持ち腐れだ。でも、ホント綺麗な部屋でちょっとびっくりした」
「昨日掃除したからな」
何気なく呟かれた言葉に、きょとん、と目を丸くしてページワンくん見つめる。
「……わざわざ掃除したの?」
「あっ、いや……あー、今日のこと考えてたら落ち着かなかったんだよ」
言っているうちに恥ずかしくなってきたのか、さっと顔を背けてページワンくんはデッキを操作し始める。ここに来る途中に借りてきたのは二人とも見たことのあった有名な古いミュージカル映画。
映画が流れ出してしばらくしてから、「明かりどうする?」と聞かれたので、少し暗くしたいと答えると、枕元の間接照明だけを灯し部屋は暗くなった。
映画の中のヒロインが朗らかな声で歌い、子供たちが彼女を受けいれ、そして大佐との愛が芽生えていく。ぼんやりと何度も観たストーリーを眺めていると、途中から締め切られたグレーのカーテンの向こうで雨の音が響き始めた。
現実の雨音と映画の歌声が混じり合う。暗い部屋でテレビの光に照らされたページワンくんの横顔。雨が降ってきたことにも、映画についても、二人の間に会話はなかった。
それでも、たぶん私たちは今、同じことを考えている。
美しい山の映像が映り、エンドロールが流れる。
そこでやっと二人揃って、ふう、と息を吐き出した。ページワンくんの方を見ると、彼も私を見ていて、二人の視線が薄明かりに溶けるように重なる。
「夏休み、何してた?」
三週間前まで続いていた大学生の長い長い夏休み。今さらそんな話題を出すのは突拍子もないとは思うけど、ページワンくんはとくに何か言うでもなく、むしろそうなることが分かっていたかのように、再びテレビの画面を見つめた。
「実家に帰ってバーベキュー。姉貴がやりたいって騒ぐから庭で花火もした」
「あはは、なるほど」
声に出して笑ってから、私も同じようにテレビに視線を移す。アルファベットの羅列が並び、優雅なエンディング曲が流れる。
この言葉に続きがあることを知っていて、それを待っているのだと、そんな気がした。ページワンくんがゆっくりと口を開く。
「……あとは、なまえのことを考えてた」
「うん、私も。ページワンくん何してるかなって思って、だけど連絡をするだけの理由が見つけられなかった」
夏休みの間、私たちは二回だけ顔を合わせた。どちらも部員の希望者で映画館に行こうというきっかけで。それまでは週に何度も顔を合わせていたのに、夏休みというだけでページワンくんに会うためには何か理由が必要になるのだということがもどかしかった。
「私はページワンくんとこういう関係になりたかったんだな、って今日よく分かった」
「気軽に映画を観に行って、そのあと家にも誘えるような」
「そうそう」
「……おれも、そう思ってる」
再生が終わり最初の画面に戻ったテレビをページワンくんが消した。真っ暗になったそこに私たち二人が映る。画面越しに目が合って、ついクスッと笑ってしまった。
「じゃあ、そういうことで?」
「こんなんでいいのかよ」
「ん?」
「もっとこう、告白っぽいこととか」
「え、してくれるの?」
ページワンくんの顔をのぞき込むようにして首を傾げれば、一瞬驚いたのか大きくなった瞳が、すぐに困ったようにすうっと細まった。
「……なんか、今さらか」
「そうなんだよね。今さら告白というには、お互いの気持ちに気づきすぎてる。それより雨だよー。傘ないから貸して」
身体を伸ばして背後のベッドに寄りかかる。屋根を打つ雨音は静かに響いてる。枕元に置かれた時計を見ると、すでにもう二十二時をまわっていて、さすがにそろそろ帰らないといけない。
「泊まってくか?」
「……え、いきなり?」
「何もしねェよ。もう時間も遅いし……あと、もう少し一緒に」
小さな声で呟かれた最後の方ははっきり聞き取れなかったけど、一緒にいたいと言われたのだろうということは伝わった。
答えに迷っている間に雨音が少しだけ強くなる。秋の夜にしては本格的に振り続ける雨。ああ、これじゃあ帰れないなぁ、なんて言い訳のように言い聞かせる自分が可笑しかった。
あとで近所のコンビニにだけ行って、ついでにお菓子も買い込もう。そして、帰ってきたらほとんど使っていないという彼のオーディオセットで秋の夜に合う曲でも流してもらおう。
これからきっと何度も通うことになるこの部屋には、少しずつ私のものと、二人のものが増えていくのだろう。そう思ったらどうしようもなく嬉しくて、彼の肩にそっと頭を乗せる。触れそうで触れられなかった二人の距離が今、絶え間ない時間の始まりを告げるように重なり合ったのだ。
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