肌にまとわりつく潮風が不快だった。
名前も知らない島の名前も知らない街。至る所で人々の暮らしの声が響き、ざわざわと騒がしい街は活気に溢れ、もう何百年と続く繁栄を謳歌しているのだと、この島に降りたって間もない私にも充分に伝わった。

肩を寄せ合い互いの愛を確かめ合う恋人たち、手を繋いで幸せを振りまくように歩く家族、彩り鮮やかな果物や鮮魚を売る屋台の商人の声、手慣れた様子で料理を振る舞う職人、そんな多様な人の波を横目にゆっくりと歩みを進める。

「……これからどうしよう」

思わず漏れた独り言は誰の耳にも届かないまま、街の喧騒の中へと溶けていった。
適当に人に声をかけ、船に乗せてもらいながら海を渡ってここまで辿り着いた。あの島からは随分と離れたはずなのだから、そろそろこんな生活にも区切りをつけるべきなのかもしれない。

行き交う人の多いこの港町なら、余所者の私にも寛大に接してくれるだろうか。まずは働き口を探して、出来ることなら住み込みで働けるようなところだといい。
ああ、だけど、そんな仕事を私はちゃんと出来るだろうか。
困ったなあ、と思いながらも気分はとても軽い。仰ぎ見た空は、これ以上ないくらいに澄んだ青一色に染まっている。

──ドンッ

足を止めて空なんて仰ぎ見ていたせいで不意に誰かと肩がぶつかる。その勢いで思わず転びそうになるも、なんとか態勢を立て直して顔をあげれば、にやにやと厭らしい笑みを浮かべる男の姿。
ああ、やってしまった。急激に冷えた体温は、また心の奥底に沈めたもう一人の私を呼び覚ましていくように呼吸が詰まる。

「余所見をしていて……ごめんなさい」
「いやいや、こっちはとーっても痛かったよ。そんな謝った程度で許されると思ってんのかよ?」

困ったように眉を下げて首を傾げれば、男の汚い手が厭らしく腰に触れる。嫌悪より先に湧き出る諦観。気付かれないようにそっと噛みしめた唇からは鉄の味が滲む。

どうせ私はどこにも行けないのだと、あの薄暗い島で鳥籠に捕らわれたままのもう一人の私が囁きかける。そんな私に誘われるように、腰に置かれた男の手にそっと手を重ねる。こういう場合にどうすればいいのかは知っている。体に染みついた微笑を浮かべ

……ようとしたところで、男が低い悲鳴を溢した。

「こんな素敵なレディになんて手荒な真似してやがんだ」

突然男が体を横へと蹴り飛ばされたものだから、驚いて手を離す。どしゃり、とどこか間抜けな音を立てて地べたに倒れこんだ男は、怒鳴りながら立ち上がったものの、何故かすぐに顔を青くして逃げ去ってしまった。

行き場を失った片手をさ迷わせながら、呆然とその一連の出来事を眺めていたものの、ハッと我に返っておそらく助けてくれたであろう人物の方を振り返る。

そこにいたのは、太陽の光を反射する金色の髪が片目を隠し、そして変わった眉毛をした男。

「……あ」

思わず零れてしまった声を隠すように手を口に当てる。この男のことは知っている。確か麦わら海賊団の一人だったはずだ。
いつだったか、名前も忘れてしまったような客の男が愉快そうに手配書を見せてきたときのことを思い出す。別に意識して見たつもりではなかったけれど、その特徴的な顔は無意識に記憶の中に溶け込んでいたらしい。

「大丈夫かい、お嬢さん」
「……助けて頂いてありがとうございます」
「いやいや、いいんだよ。それより、あんまりボーっと歩いてたんじゃ、さっきみたいに危ない目に合うかもしれないから気を付けた方がいいぜ」
「ごめんなさい。初めてこの島に来たものだから、色々もの珍しくて」

人のいい笑みを浮かべた彼は、きっとその表面だけでなく、その優しさを芯に宿す人間なのだろう。それが伝わってしまうから、随分と久しぶりに与えられた純粋な親切心が居心地が悪くそっと目を逸らしてしまう。
すると、逸らした視線の先で真っ直ぐにこちらに向かってくる人影が見えた。

「ちょっとサンジくん!そろそろ船に戻るわよ!」
「おっと、もうそんな時間か。すまないね、ナミさん」
「オレもう腹減ったぞ!メシ!」

同じように手配書で見た覚えのある麦わら帽子と、目の前で交わされるやりとりに彼らが同じ船に乗る仲間なのだと察した。
それならば、あまり長く関わるのもよくはないだろうと、急に騒がしさを増した目の前の光景に気圧されながら、立ち去るタイミングを探る。出来るだけひっそりと、気付かれないように。
そうして距離を取っていたところで、麦わら帽子の船長と目が合ってしまった。

「ん?誰だ、おまえ?」
「あ……さっき彼に助けて頂いたんです。すみません、お時間取らせてしまって」
「いやいや、ほんといいんだって。それより、さっきの続きだけど、君はこの島の生まれじゃないのかい?」

なかなか思い通りにいかないことに、ひっそりと奥歯を噛み締めながら一瞬の逡巡。こういう時に答えるべき言葉はすでに用意している。

「ええ、少し旅をしているんです。見たい景色があって」

口元に浮かべた笑みは、私のものではない。何度も何度も訓練を重ねた、計算し尽くされた笑顔。
絢爛で綺麗なのに、どうしようもなく嫌な匂いのするあの街。金と名誉と権力だけがすべての男たち。与えられたすべてのものと、奪われたすべてのもの。月明かりすらないような純黒を司る名前で呼ばれる女。それらが一気に私の身体の奥底から湧き出してくるような気がした。

「え? 一人でかい?」
「はい。色々な人に船に乗せてもらいながら、いくつかの島を渡り歩いてきました」
「レディひとりで危ない目には合わなかったかい!?!」
「幸い運には恵まれているようで……心配して頂きありがとうございます。でも、時間がないようなので、どうぞ私にかまわず。私も次の船を探したいので」

たった今あんな目に遭いながら、なんて信憑性のないことを嘯いているのだろうかと我ながら思う。まあ、実際さっきの男のせいでしばらくこの街に留まろうかなと思っていた気持ちが消え去ったので、そろそろ本当に次の島まで乗せてくれる人たちをみつけないといけない。

「それでは私はここで。本当にありがとうございました」

あまり目立ちたくもないので、出来るだけ速やかに立ち去ろう。心の中でそう決めて、もう一度頭を下げる。
それなのに、顔を上げると麦わら帽子の彼が私の肩を掴み、二カッと笑った。

「ならオレの船に乗れよ!その見たいもの一緒に見よう!」

言葉の意味が一瞬理解できず、呆けたように瞬きを繰り返してしまう。数秒の間を置いてやっとその意味を飲み込めたときには、大歓迎だと金髪の彼は天を仰ぎ、オレンジの髪の彼女は仕方がないわとばかりに肩を竦めていた。

そんな様子を尻目に、心の中のしたたかな私は冷静に状況を分析する。この場で彼らの船に乗り込むべきか否か。見るからに人の良さそうな彼らはきっと、私を今までの船の男と同じようには扱わないだろう。

「では……よろしくお願いします。ナマエと申します」

空は相変わらず、透き通るような青色だ。









ざあざあと純度の高い闇に波の音がさざめく。
夜の海は昼の海とはまるで違う。絡みつくように渦巻く暗闇が、手足の自由を奪ってその中に飲まれてしまいそうになる。あの坩堝に嵌ってしまったら、何処に行くのだろう。暗くて冷たい深海を想像しながら目を閉じれば、波のざわめきだけが鼓膜を揺らす。

昼間のあれから、結局本当にこの船でお世話になることになった。最初に会ったサンジさん、ルフィさん、ナミさん以外のクルーとは夕食を食べながら自己紹介をし終わったところだ。

「ナマエちゃん」

海の中の月がゆらりゆらりと形を変える姿を眺めていると背後から声がかかる。夢から醒めるようにゆっくりと振り返れば、サンジさんが淡い陶器のマグカップを片手に立っていた。

「さっきは美味しいお料理ありがとうございました」
「口に合ったならよかった。食後にミルクティーをどうぞ」

お礼を言いながら受け取ったミルクティーに口を付ければ、ほんのりと甘い優しい味が口の中に広がる。料理の上手い人は、紅茶ですらこんな美味しく淹れられるのか。そんな驚きが顔に出ていたのか、隣でサンジさんがくすりと笑いをこぼした。

「暖かい気候のようだけど、夜はまだ冷えるだろう? こんなところにいて大丈夫かい?」
「そうですね……でも、もう少し。こうやって夜の海を見ることなんて滅多になかったから」
「夜の海を?」

少し怪訝そうにこちらを見るその瞳に、要らないことを言ってしまったと後悔する。今までいくつかの島を渡ってきたといいながら、夜の海を見たことがないだなんておかしな話だろう。

いつもなら上手く凌げるはずの場面が、どうも上手くいかない。優しい彼らの空気にあてられて、夜の海に閉じ込められたあの月がまるで自分のようだなんて、センチメンタルな気分になってしまったせいだろうか。
誤魔化すようにゆっくりミルクティーを飲んではにかめば、優しい彼はそれ以上何も聞かずに、そっと視線を水平線へと向けた。

「じゃあ、オレももう少しここにいようかな」

そういって私の隣に立ったサンジさんは、慣れた手付きで煙草に火をつける。オレンジ色の火の灯ったそこから、ゆったりと紫煙が流れていく。

こんな経緯でも、あたたかく迎え入れられたことにやけに冷静な自分がいる。初めて会ったときから、この人たちが無償の親切というものが出来る側の人なのだということは分かっていた。

だから、私はそこに付け入る形でここにいるんだ。
それを忘れてはいけない。たった半日で随分と優しに絆されている自分がいることは自覚している。そんな資格もないほど、ずるい女だということを忘れそうになる。

夜の海は相変わらず、真ん丸の月を閉じ込めたまま揺れている。

(ねえ、そこにいるのはどんな気持ち?)

答えが返ってくるはずもないその問いかけは気休めだとはわかっている。それでも問わずにはいられないほど、あまりにもその姿が綺麗で泣いてしまいそうだった。
泣けないくせに泣きだしそうな今の私の顔は、きっとひどく無様だろうから煙草をくわえたまま遠くを眺める彼がどうかこちらを見ませんように。





明日からは人間になろう