オーナーの後をついて、見慣れた建物に足を踏み入れる。この島にいくつとある娼婦館と違って、清潔感があり瀟洒な景観は一見では、毎晩と幾人もの男たちの欲望が吐き出されているとは思えないだろう。
一階と二階はバーとなっていて、それだけを楽しみに来る客もいるらしい。そして、ここから上がここで務める娼婦たちの自室であり、仕事場でもある。

詳しくは知らないけれど、何度か機嫌のいいオーナーが話してくれたことがある。ここに来ることが出来る客はみんなオーナーに選ばれた人間だけなのだと、だから私たちを傷つけるような、下賎な男はここに足を踏み入れることも出来ないのだと。

「私たちは、この檻の中で、ある意味では守られていたのね」
「ん?何か言ったかい?」
「いいえ、なにも」

ぽそりと呟いた言葉にオーナーが振り返ったので、誤魔化すように首を振る。
ここにいる女たちはみんな、ひとりでは生きていくことの出来なかった者たちばかりだ。だから、オーナーに差し伸べられた手を取って、ここで庇護されることを決めた。代償に己の自由支払って。
決してここが天国でないことは知っている。だけど、希望も何も捨ててしまえば、飼い殺されるだけの檻は随分と生きやすいものなのだ。

「ほら、着いたよ。君の部屋だ」

そんな館の最上階。他の女たちの部屋は知らないので直接比べたことは無いけれど、噂では他よりも特別だという一室。そこが私の部屋だ。

「あれ……」

久しぶりに訪れたはずのその部屋が、あまりにも見慣れたままだったことに驚く。
まるで変わらない、私が出ていったままの部屋。

「あの後、この部屋には誰も入らなかったの?」
「当たり前だろう。ここは君の部屋だ」

その言葉に胸が締め付けられるように痛む。この体に絡む鎖が、確実な悪意を持って締め付けられているようだ。
オーナーは、私が戻ってくることを本当に当たり前のように分かっていた。私にとっては奇跡のようなこの数ヶ月は、彼にとっては幼子の家出のような可愛らしいものだったと、暗に語られているみたいじゃないか。

サンジさんと出会ってから、自然と治っていたすぐに俯いてしまう癖がまた顔を出す。そんなことでさえ、今は彼を思い出せる欠片となって、私はもう彼と出会う前には戻れないのだと気付かされる。
この場所の不幸さも知らず、ただこの窮屈さが不快で無邪気に飛び出した、無知なかつての私。

「おや、珍しいものを付けているね」

一瞬何のことかと思ったけれど、オーナーの目線が私の胸元に向いていることで、サンジさんから貰ったペンダントのことだと気付く。そっとそれに触れる確かな感触で、あの船で過ごした時間が幻ではなかったのだと実感できる。

「夜みたいで、綺麗でしょう?」
「そうだね。彼に貰ったのかい?」
「ええ。着替えるけど、これは付けたままでもいい?」
「僕が君の願いを叶えてあげなかったことがあるかい?」

クローゼットを開けば、ここも変わらず見慣れたドレスで溢れかえっている。控えめなように見える装飾は、よく見ればどれも高価な宝石で出来ていて、上品な色合いでまとめられつつも華やかに魅せてくれる。全部、オーナーが買ってくれたものだ。

「用意は出来たかい、ナマエ」
「その呼び方は、嫌」
「それは聞いてあげられないな」
「私の願いは何でも叶えてくれんじゃなかったの」

不満そうに口を尖らせながらも、どこか楽しげに笑ってみせる。媚びるような艶やかな笑み。大丈夫だと、心のどこかで安心した自分がいる。本物の愛を知っても、私はちゃんと娼婦でいられる。あの船では、あんなに嫌だったその事実が、今は唯一の救いのようだ。これで私はまた、ここで生きていくことが出来る。

「おいで」
「……ええ」

吸い寄せられるようにオーナーの胸に擦り寄れば、そっと頬を撫でた手が私の顎を上向かせる。落ちてきた口付けの感触。思い出すのはどうしたって、たった一度だけサンジさんと交わしたあの夜だ。
こうしてこれから先、私は何度も他の男と口付けをするのだろう。何度も何度も、その度にあの夜を思い出す。だけど、そうやって上書きを繰り返されながら、私はあの感触をいつまで覚えていることができるだろうか。

「オーナー、愛してるって言って」
「何度でも言うさ。愛しているよ」
「……私もよ」

もう幾度となく繰り返した愛の言葉。これが偽物なのだと教えてくれた彼は、今何をしていて、これからどうやって生きていくのだろう。その傍らに自分がいる夢は、こんなにも簡単に醒めてしまった。もう二度と、彼と私の世界が交わることは無いのだろう。
だけど、それが幸せなのだと今は信じることが出来る。もうこれ以上、傷つくことも、彼を裏切ることもしなくて済むのだ。大丈夫、そう自分に言い聞かせる。真っ暗でおぼつかない夜の中で、私はずっとこうして嘯いて生きてきたのだから。






こんな爛れた舌じゃあなたの名前も呼べない