※サンジ視点



あの後、どうやって船に戻ったのかは記憶にない。
船に戻ると、ひとりで帰ってきたおれの様子に何か察したのか、言葉を飲み込むような息遣いだけが嫌に耳に届いた。
あの時、船に逃げ込もうとしていた女性はどさくさに紛れるようにどこかに消えていったらしい。誰がおれにそう教えてくれたかもわからないまま適当に相槌を打って、ぽつりぽつりと先程あった出来事を語っていく。
その全てが嘘であればよかったと願うように噛み締めながら。












夜も随分と更けた時間にも関わらず、全員の船員が眠ることもせずキッチンに集まっている。だというのに、誰一人として言葉を発さない重苦しい空気が体にまとわりついて、呼吸をすることすら躊躇いそうになる。

「……クソが」

呟いた言葉は、何に向けたものだろうか。
あの時、離れていくナマエちゃんの腕を掴むことができなかったことだろうか。彼女が抱えていた暗いものに気付きながら、これからいくらでもどうにかできるなんて悠長にかまえていたことだろうか。
それとも、彼女が口にした他の男への愛の言葉に未だに傷ついている自分にだろうか。

「当然、迎えに行くんでしょう?」

沈黙を切り裂いたのはナミさんだ。疑うこともせず、確信するように断定する言葉。
何を言うべきか言葉が出ないのは、その答えを決めかねているせいだ。

「朝になったらあの子の行方を探しましょう。名前もわかってるし、いい生活をしてたって言ってたんだからそこそこ大きな店よね」

テキパキと彼女を見つけ出すための手順を決めるナミさん。そこに一番に加わらなければいけないのは自分だとわかっているのに、おれの頭では彼女と最後に別れたあの光景ばかりが繰り返されている。
縋るようにあの男を呼ぶ声、おれの体を突き放す腕、そしてそれがそのままあの男を掴む。

「迎えに来て欲しいと、思ってもらえているのかな」

そう言ってしまったのは無意識だった。
ずっと心にひしめいていた不安が、言葉という形になって零れ落ちてしまったんだ。
せっかくほぐれた沈黙の糸が、またピンとまっすぐに張り巡らされていく。言わなければよかったという後悔がひたひたと押し寄せる。何も言わなければ、この会話はここで終わりになって、それぞれ暗澹とした思いは抱えつつも眠りについて、朝には彼女を探しに行くことになっただろうに。

ひどく身体が重い。ナマエちゃんを失って、世界の重力が狂ってしまったんだろうか。いや、きっと世界は何も変わっていない。元に戻っただけなんだろう。彼女と出会って、彼女に恋をして、おれがただ世界の重さを忘れていただけだ。

「それ、本気で言ってるの?」

はっきりと呵責の色を孕んだ声に顔を上げると、ナミさんの瞳がしっかりとこちらを見据えている。そのまっすぐさを見ていられなくて、思わず目を逸らす。

「一度はナマエちゃんをつかまえたんだ。だけど、自分からあの男に着いていくと言った」

言い訳のように吐き出した言葉は、あまりにも情けない弱音だ。なんてカッコ悪いセリフだろう。煙草を吸いたいと思ったけれど、ポケットからそれを取り出す動作すら億劫に思ってしまう。

「だけど、その場所を不幸だとナマエが言ったのよ」

その言葉に弾けるように心の中で黒く蠢いていた靄が晴れた気がした。私は間違いなく不幸だった、おれに向けて悲しそうに吐き出された彼女の言葉。何をずっと怯えていたんだろう。彼女を愛していると気づいたとき、その幸せすら守ると決めたはずだ。それなのだから、彼女がいくら望もうと、そんな場所にただ置いていくことを許せるはずがない。

行かないでくれ、君が好きだ、そのすべてを受け入れられる。あの時、本当は言葉にしたかった想いが、溢れかえるように胸の中に募っていく。

(ねえ、わかるかい?ナマエちゃん。おれはこんなにも、君が好きだったんだ)

君がおれを突き放しただけで、こんな簡単なことも忘れてしまうくらいに傷ついて、だけどその傷すらも愛なのだ。
彼女もおれといる間に、きっと沢山の傷を負っただろう。時々、悲しげに笑った彼女の表情を思い浮かべる。ナマエちゃんに会いに行けば、また大きな傷をその優しい心に付けてしまうだろう。決して傷つけたくないくらい守りたい彼女に、どうかこの傷だけは一緒に背負って欲しいなんて願うのは罪なんだろうか。

だけど、それでも。

「やっと目が覚めたよ」

ナマエちゃんに会わないといけない。もう一度、君が好きだと伝えないといけない。
ふと思い浮かべた彼女の姿は、あの青い空の下で初めて出会った瞬間だった。透き通るような青い色と色素の薄い彼女のコントラストに、どこまでも惹き込まれているあの感覚を思い出す。

ああ、もうひとつ。君には暗い夜よりも、あの明るい青空の下が似合っていると、そう伝えなければならない。



愛してると言わせて欲しい