ぼんやりとした思考でカーテンの閉められた窓を見つめる。ほんのりと照らされた窓の向こうが、月明かりだけでない色に変わり始めている。もうじきに朝がやってくるのだろう。眠れない夜は悲しくて、冷たい。だけど、今日は少しだけ救いのように感じた。この絶望の夜が、やっと終わるのだ。

隣で眠っているオーナーが身動ぎをする。
久しぶりの情交を終え、少し眠ると言って私を抱えたオーナーは静かな寝息を立てている。もう幾度と見た事のあるはずの寝顔なのに、こうして間近で見つめると、いつだって不思議な気持ちになる。私の隣で眠りながら、この人はどんな夢を見るのだろうか。

そっとオーナーの髪に触れる。柔らかいその感触は、あまりにも無防備だ。ここを飛び出したばかりの私に、こんな隙を見せて、私がこの首を絞めるかもしれないなんて思ってもいないんだろう。
するり、とオーナーの首に手を回してみる。そこに力を入れる勇気はなくて、その事実が私を安心させた。

「……オーナー」

そっと囁くように呟いた自分の声が思っていたよりも掠れていて、先程の情交が思い出される。オーナーはいつだって優しく私を抱くけれど、今日は随分と丁寧で、まるで壊れ物のように扱われたな、と今更ながらに思う。
私はどこにも行けないのだと、愛撫のひとつひとつで身体の中に教えこまれたようだ。決して外れることない鎖、その重さだけがひしひしと募っていって、いつかきっと立ち上がることさえ出来なくなるのだ。

(そういえば、初めてここに来た日もこんなふうに優しく私を抱いたんだ)

まだ若さの残るオーナーの寝顔を見つめながら、その頬に口付けをする。本当の年齢は知らないけれど、私と一回りも離れてはいないはずだ。
ゆっくりと目を閉じて、オーナーと出会った日を思い出す。

この島には数多くの娼婦館が立ち並び、主な収入源は当然、海の外から女を買うためにやってきた男たちが落としていった金だ。この島で生まれた男たちは、女を売った金で成り上がることを目指し、女たちはより高級な娼婦となり、いつか島の外に連れ出してくれる男に身請けされることを願う。そして、その流れに乗れなかった者は、残酷に淘汰されていく。

私もこの島に生まれたからには、何の疑問も抱かず娼婦となって爛れるような夜に生きていた。そこにやって来たのがオーナーだった。惨めに嬌声を上げる私を見つめて、愉快そうに歪められた瞳。私の背中を見て、翼の成りそこないと喩えた言葉。うちにおいでと、呪いのように囁いた声。そのすべてを鮮明に覚えている。

「……ナマエ」

私を呼ぶ声に驚いて瞳を開けば、まだ少しだけ眠そうなオーナーが私を見つめている。首に回したままだった手を退けようとするけれど、上手く身体が動かない。

「泣くほど、僕を殺したかったのかい」

オーナーの指が私の頬を撫でる。そこでやっと自分が泣いているのだと気づいた。
決して責めるわけではなく、まるで慈しむようなオーナーの声に、ふるふると首を振る。

「違うの、あなたを殺せないことに、安心していたの」

泣いていると自覚した途端に、涙は勢いを増して歯止めが効かなくなる。オーナーの手が私の頭を撫でる。少しだけ甘いテノールの声で「大丈夫だよ」と囁かれるのを聞きながら、さめざめと流れる涙は何故だろうか。
オーナーの前でこうして泣き出してしまったことは何度もあるはずなのに、まるで生まれて初めての涙に戸惑っているみたいに感じる。

「ナマエは、この場所が嫌いかな?」
「……いいえ、好きよ」

どこもかしこも清潔で豪奢に保たれているし、客もみんなオーナーによって選ばれていて、乱暴に扱われることもない。自分の存在を卑下する必要もなく、むしろ高貴で愛されるべく生まれたのだと思えることさえある。オーナーに頼めばどんなものだって買ってくれるし、日中に時間が空けば島の中を一緒に散歩にも出かけてくれた。
この島に住む娼婦にとって、ここはきっと憧れとも呼んでいい場所だ。

鳥籠の中でしか生きられないカナリアは、飼い慣らされて愛されて、それは不幸ではないのかもしれない。だけど、少しずつ死んでいく。
ここにあるものはすべて偽物だから、それがまるで毒のように身体を蝕んで、いつか息絶えるのだ。その時、夢見るのは黄金色の太陽だろう。もっと自由に空を飛んでみたかった、そう声にも出来ずに死んでいくのは、とても不幸なことだ。

(だからやっぱり、ここは不幸な場所だ)

知らずに済んだ絶望が、またひとつ私を染め上げていく。
私はどんな風にこの檻の中で死ぬのだろう。そこでふと怖くなるのは、この檻から捨てられてしまうことだ。サンジさんと別れたとき、オーナーに捨てられそうになったあの恐怖を思い出す。

「ねえ、オーナー」
「なんだい」
「私、ずっとオーナーの娼婦でいたい」

娼婦の命はとても短いから、いつかきっとこの人に本当に捨てられてしまう日が来るだろう。その日が来たら、どうか私のことをその手で殺してくれはしないだろうか。惨めに野垂れ死ぬくらいなら、私の神様の手で。

そんな思いを込めてオーナーに伝えたつもりだけど、やはり彼は愉快そうにその瞳を歪めるだけで、肯定も否定もしない。実はこの問いかけも初めてではない。だけど、今の私はちゃんと絶望の意味を知った。無邪気にオーナーに意地悪を言っているつもりだったころとは違うのだ。
この願いをオーナーが約束してくれれば、少しだけ息がしやすくなるのに、彼はそっと自分の胸に私を抱き寄せることしかしてくれない。

「まだ、朝には早いよ」

嘘だ。朝はもうやってきている。夜なんてとっくに死んでしまった。
首元から夜を象ったペンダントが零れ落ちてシーツにぶつかる。サンジさんはこの朝をどうやって迎えているんだろう。きっと私のことを考えてくれている。そう思ったら一度は止まった涙が、また溢れだしてきてしまった。

(ああ、そうか。彼は私に涙の意味さえ教えたのだ)

まるで初めて涙を流したように感じた理由。
男を喜ばせるものだった私の涙は、初めて感情を持ったのだ。今流れているのは、初めて愛した彼への想いだ。決して枯れることのない泉のように溢れて止まらない。

どうかどうか、彼が早く私のことを忘れることが出来ますように。私がつけてしまった傷が、痕を残すこともなく、早く癒えてなくなりますように。




君と居た場所は鮮明に色を潜めるだけ