窓際に立って眼下の街を見下ろす。
高く昇った太陽はキラキラと街を照らし出すけれど、そこに人通りはほとんど見当たらない。この街は太陽から隠れるように眠りにつくのだ。

代わり映えのしない景色に飽きてベッドに戻る。
ばさり、とそこに横たわればオーナーの香りが残っているような気がする。オーナーは朝方、部屋を出ていった。今日は忙しいのだそうだ。
なんてことない。私の人生の中ではこんな朝の方がありふれた形であったはずなのに、ほんの数ヶ月の奇跡を見ただけで、世界の見え方はこんなにも変わってしまうのか。

「……退屈」

誰に向けたでもない独り言。
ひとりでこの部屋にいる時間を手持ち無沙汰に感じたことなんてないはずなのに、今までどうやってここで過ごしていたのか思い出せない。

そっと瞼を閉じて、あの船の上の景色を想像する。
風に運ばれた潮の匂い、揺らめく波に反射した太陽のきらめき。遠く遠く広がり、やがて海と空の境界が曖昧となる水平線。そして、あの船で出会った沢山の輝き。
思い出としてだけでは処理しきれない圧倒的な希望が、暴力的に押し寄せてくる。またあの場所に戻りたいと、決して言葉にしてはいけないと分かりながらも、喉の寸前まで溢れかけている。

「……サンジさん」

代わりに呟いた彼の名前。たった数文字の記号の羅列でしかないはずの言葉が、ずしんとはっきりとした重みを持っている。この重みの名前が恋だということは、もう知ってしまった。
胸元に下げられたペンダントに触れる。ひんやりとした冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。

「泣けもしない」

泣いてしまえば、この無数のまばゆい記憶や想いが涙となって消化されていく気がするのに、この体はそれすらも許してはくれない。あの日々をたったひとつでも取り漏らしはしないと、そうすればあの船に戻れるのじゃないかと、心の中の浅ましい部分が駄々をこねている。

ここは優しい防壁の中だ。何も知らず、ただ真っ白な欲望にまみれて、溺れるように死んでいくだけだった私が、ほんの一瞬、外の世界と邂逅してしまった。正義も悪も混在する世界で、そこには確かに温度があった。
そして、ここは冷たい防壁へと姿を変えた。私たちに向けられる悪意はすべて排除され、ただ純粋な欲望だけが残った世界。温度がなく、張り付くような空気だけが私を包むのだ。

「好きよ、愛してる」

素直に言えなかった言葉が、こんなときばかりこうも簡単に口から零れだすことが、なんだかおかしい。
あの金色の髪の感触、微かに香るタバコの匂い。この想いは本当にいつか風化するのだろうか。このペンダントの石のように、長い年月をかけて、その傷や空気や不純物を包んで固めて、それをいつか、綺麗だと呼ぶことができるのだろうか。


────トン


突然、思考を遮った音に肩がびくりと跳ねる。
扉をノックされたのだと気付くのに少し時間がかかった。

「今、行くわ」

この部屋には時計がないので正確な時間は分からないけれど、だいたい今はお昼を回ったころだろうから、食事だろうか。それか部屋の掃除かもしれない。とにかく、この館に何人も雇われているメイドだろう。
ついでに、今夜は私に客が来るのか聞いてみよう。この館の他の女たちが、どれくらいの頻度で仕事をしているかは知らないけれど、少なくとも私への客は毎日ではなかった。だけど、今の私にひとりで過ごす夜は長すぎる。どうせ眠ればあの船の夢を見てしまうから、眠ることも出来ないというのに。

そんなことを考えながら扉を開く。その瞬間に、ふわりと漂う潮の匂いとタバコの残り香。
一瞬、自分が呼吸をする生き物であったことを忘れてしまったように、酸素が取り込めなくなる。

「……どうして、サンジさん」
「やあ、ナマエちゃん。久しぶり、でもないか」

震える声はまるで自分のものではないようで、だけど、彼の瞳にははっきりと、戸惑いを隠せず困惑している私の姿が映っている。どうしてこんな場所にサンジさんがいるのか。ここは彼のような人が入ってきてはいけない場所なのに。

「君を、迎えに来たんだ」

身体の奥底から湧き出る激流のような感情。
昨日からの一晩で、もしもサンジさんが私を連れ戻しに来てくれたら、と夢想しなかったわけではない。そのとき、私が感じるのは喜びか悲しみか、出せなかった答え。

この激情は、きっと一番、怒りに近い。



孵化は望まぬ