開け放たれた扉。静まり返った長い廊下。私たち以外に人の気配を感じないこの場所で、私とサンジさんはじっと向かい合っている。ふたりの間にあるものは、廊下と室内を分ける境界だけのはずなのに、ここには透明な檻でもあるかのように隔絶されている。

「……帰って、ください」
「ナマエちゃんは、もう戻りたいとは思ってくれないのかい」

すでに知っていた誤りをなぞるように確認したようなサンジさんの表情。
やはり、優しい彼は私が迎えに来られても喜ばないことにくらい気付いていたのだろう。彼ならきっとそう感じてくれるから、私は彼が再びここに現れることを夢として扱っていられたのだ。

(……冒涜だ)

そう思ったのが何故かは分からない。ただ、どうしようもなくそう感じたのだ。
サンジさんと二度と会わないと決めた誓いにか、離れた場所で彼の幸せを願った祈りにか、それともこの聖域を穢されたことに対してだろうか。

「戻りたくない、そう言ったら?」
「君を奪っていく」

じっと私を見つめる彼の瞳に、強い確信の色が宿る。そこには戸惑いなんて微塵も滲んでいなくて、ただ確かな愛情だけが湛えられている。昨晩、サンジさんのもとを離れたとき、これ以上の絶望なんてこの世界には存在しないと思っていた。それなのに、絶望に果てなど存在しなかったのだ。
絶望の淵から、さらに深淵へと私は今沈んでいる。

「連れ去ったって、私はまたここに戻ります」
「おれが守るよ」
「私は、娼婦ですよ」
「ああ、知ってるよ」

娼婦だと、彼の前で告白するたびに胸が痛む。この身体に向けられた穢れが、どろどろと腐って、私の中には蓄積している。それなのに、どうして。
やめて、と大声をあげながら耳を塞いでしまいたい。これ以上の希望を私に与えて、それを裏切るように絶望を教えようというのだろうか。

「私はもう、貴方たちの傍で思い知らされる絶望が怖い」

限界を越えた涙がボロボロと瞳から流れ落ちる。生ぬるい涙の感触が頬を伝い、それを拭うように顔を覆えば、崩れ落ちるように立っていられなくなる。
サンジさんはとてもひどい。願うことが許されるのなら、こんな罪咎が許されるのであれば、私は、貴方の傍で生きていきたいに決まっているじゃないか。

立っていられない私を、そっとサンジさんの腕が支えてくれる。抱き寄せられているのだ。たった一晩しか離れていなかったはずなのに、幾年も越えてここに戻ってきたかのようだ。
愛おしそうに彼が私の頬に顔を寄せる。

「おれは、どんな君でも愛しているよ」

一瞬、世界は自転をやめたのではないだろうか。そうであれば、私は救われる。
世界は秩序を乱して、もう檻の中では生きていられなくなったカナリア。そんな私を、外の世界は祝福してくれるだろうか。

「私も、愛しています」

嗚咽を押し殺して、なんとか囁いた愛の言葉にサンジさんが柔らかく瞳を細める。
そして、そっと私の首元に回った手が、彼自身が贈ってくれた小さな夜のペンダントへと伸びた。するり、と私の首から抜き取られたそれ。

「サンジさん……?」
「これは、君に贈るものじゃなかったと、ずっと考えていたんだ」
「あっ……」

私の小さな悲鳴が漏れるのと、彼の手の中で小さな石が粉々に砕かれるのは同時だった。
無数の欠片となって宙を舞うその姿が、窓ガラス越しに真っ青な空と混ざりあう。ほんの一瞬、決して出会うことない夜と昼がひとつになった。

「ナマエちゃんは、こんな石の中に閉じ込められている夜なんかは似合わない。君に翼がないというなら、おれがどんな場所にだって連れていく。君は、この青い空の下で自由に笑っているのがよく似合うんだ」

彼と出会って随分と多くの感情を知ってしまった。
だけど、この感情の名前がわからない。愛であるのはわかるのに、愛では語り切れない想いを、人は何と呼ぶのだろう。




「それから、これ」

砕け散った石のきらめきを探すように呆けている私に、サンジさんが何かを手渡そうとする。それは船で私が投げ出したオーナーから貰ったナイフだ。受け取らないといけないと分かっているのに、上手く身体が動かない。それを再び手に取れば、せっかくサンジさんについて行くと決めた心が揺れてしまいそうで怖いのだ。

「大丈夫だよ」

彼はそんな私の躊躇いすらも分かっているというように、優しく微笑みながら私の手を掬いあげて、そっとナイフを掌にのせる。嫌というほど慣れ親しんだ重みが、手に馴染んでいく。

「……これはもういらない」

柄に描かれた鳥の絵をそっと撫でる。大丈夫、そう自分に言い聞かせれば、いっそうこの覚悟をきつく結び直してくれるような気がする。もうここを出ると決めた。抗いようのないサンジさんへの愛情に、私はとっくに屈してしまったのだから。

「だから、早くここを出ましょう」

それよりも、サンジさんがどうやってここまで来たのかは知らないけれど、この館には厳重な警備がされていたはずだ。顔なじみの娼婦がひとりで出て行くのはタイミング次第でなんとでもなっても、外部からの侵入のほうが数倍難しい。さらにはその侵入者が、ここの娼婦を連れて出ていくなんて。

「いや、たぶんもう出ていくのはとても簡単なんだ……そして、そのナイフは持っていた方がいいと思う」
「どうしてですか?」
「うん、正直……この話をナマエちゃんに話すべきなのか、おれはまだ悩んでいるんだけど」

手に持ったナイフを捨てようとする私の腕を、サンジさんが掴む。それから困ったように、その独特の眉を下げた。数秒の逡巡の後、彼は決意を固めたように小さく息を吐き出す。

「ここに来てから、おれはここで働く従業員だという男に君の部屋まで案内されたんだ」

その言葉に思わず目を見開く。誰かオーナーを裏切るような人間がいたのか。そう思いたいけれど、そんなことがあるはずがない。だから、それはすべてオーナーによって準備されていたのだ。それなら、どうして?
ドクン、ドクン、とうるさいくらいに心臓が高鳴る。本能がこの先は聞くべきではないと警告でも鳴らしているかのようだ。

「その途中で、この場所とこの館の主人についての話を聞いたんだ。ここの会員となる条件は、富だけではなく、厳しくその素行を調べ上げられるそうだね」
「……会員制とは聞いていたけど、ただ富裕層向けなだけだとばかり」
「そして、身請けの条件に金額の決まりはなくて、ただ彼女たちのその後の生活の保障だけを固く約束させられる。それに、ここを出ていく折には、稼いだ金のほとんどを祝い金として贈られるそうだよ」

この島の王者だとでもいうようにふるまっていたオーナーの仮面が、ボロボロと剥がれ落ちていく。貴方が求めていたのは、権力と富、それだけなんじゃなかったの。こんなのまるで、この島に対する反逆だ。娼婦としてしか生きられぬ運命だった女を集めて、安息の地を与え、マナーも教養も教えては島の外へと逃がしているというのか。

思わず浮かべてしまった笑みは嘲りだ。だって、それでも結局オーナーはこの島の囚われたままだ。逃がすといっても、ここの女たちを娼婦としてしか守ることはできず、この館だって傍から見ればただの娼婦館だ。この島において、この島のルールの中でしか、彼は王様でいられない。

「そして、その中でも君は特別だった。ここの主人が頻繁に部屋を訪れるのも、外出に連れ添うのも、ナマエちゃんだけだったそうだよ。そして、君に客を付けた夜は決まって落ち着きがないって、少し笑っていた」

サンジさんは優しくて、それがときにひどい。そんなこと知らぬまま隠して私を連れ去ってくれたって問題はなかったはずなのに。どうしてオーナーを憎んだまま、ここを出ていくことを許してくれなかったのだろう。これを聞いて、私が彼について行くという決断をためらうとは考えなかったんだろうか。

(……考えなかったはずがないじゃない)

だから、彼は困っていたし、それでも私に伝えてくれた。やはり、そこが好きだと思うのだ。私が真実を知らないままでいれば、きっとあとで後悔すると、そう思ってくれる人なのだ。

「最後に、その主人から君への伝言だと」

私はきっと縋るような表情をしているのだろう。これ以上、真実を知ることが怖くて、だけどそれを知れば知るほど、私は救われたような気持ちになる。

「──”頼むから、幸せでいてくれ”」

頼むから、なんてオーナーらしくない言葉。ああ、一番非道で、馬鹿だったのは私自身だ。こんな大切なことを今更になって気付くなんて。
今までのオーナーの表情も仕草も、私がただ無知であったせいで、間違えていたのだ。楽しそうに歪められた瞳は、私に向けられた無邪気な笑顔で、その傍らにあったのは紛れもない愛しさだ。この部屋が、私がいなくなってからもそのままにされていたのは、私への未練。ずっとオーナーの娼婦でいたいなんて私の願いは、きっと彼を傷つけていた。

こんなにも愛されながら、愛を知らなかった私は、そんなことにさえ気付けないでいた。

「私、オーナーに会わないといけない」

震えた声で漏らした言葉に、サンジさんが優しく頷く。
見遣った視線の先、青く広がる大空を今は羨ましいとは思わなかった。巣立ちを決めた小鳥もきっと、こんな想いで空を眺めるのではないだろうか。
自分の居場所はここではないと分かりながら、それでも胸を掠めるこの痛みに見ない振りをして、ただ一歩この檻から足を踏み出す。



太陽を追う鳥のように