この館の最上階のその上。限られた人にしか出入りを禁じられた屋上。オーナーの居場所を考えたとき、確信のようにここが思いついた。この島を見渡せる特別な場所だ、と言っていたオーナーの声が脳内で反芻される。
焦燥、まさにそれに駆られるようにドアノブに手をかけようとすると、サンジさんの手がそっとそれを遮った。

「大丈夫。ちゃんと息を吸って」

諭すようにかけられた声に、自分が随分と怖い顔をしていたことに気付く。呼吸も自然と浅くなっていたのだろう。たったこれだけの距離の移動なのに、少し息が上がっている。
深く息を吸い込み、肺が酸素で満たされていくと生きているのだと実感できる。

吸った息を吐き出しながらサンジさんな顔を覗けば、優しく頭を撫でられる。それに小さく頷いて、もう一度前を見据えた。この先にオーナーがいる。誰に聞いたわけでも、確かめたわけでもないのに、そうとしか考えられない自信があった。

ゆっくりと扉を開く。ふわりと風に乗って、太陽の匂いがした。

「来てしまったんだね」

照らされる太陽の眩しさに、急には順応できない瞳より早く、彼の声がはっきりと耳に届いた。次第に明るさに慣れた瞳が映し出したオーナーの表情。今度は間違えない。この笑みには、愛しさも切なさも混ぜられている。

「見てごらん、ここから見るこの島はこんなに綺麗なんだ」
「もう何度も、オーナーに見せられたわ」

オーナーに近づこうとして、ふと後ろを振り返る。サンジさんは壁によりかかって、煙草に火をつけているところだった。ふたりで話していいということなんだろう。そんな彼に精一杯の笑顔を向けて、一歩ずつオーナーのもとに近づく。
お互いに手を伸ばして、やっと手が届きそうで届かない、そんな距離。

「僕はね、この島はとても嫌いだよ。美しいのに、人を傷つけることしかできないこの島が、とても嫌いだ」

オーナーの口から語られた言葉。昨日までの私であれば、嘘だと吐き捨てて、決して認められなかった真実を肯定するように、オーナーが寂しそうに笑う。

この島を嫌いながら、この島でしか生き方を知らない。オーナーも結局、私と同じでこの檻に囚われている。そして、それでもここで足掻いていたのだ。
まるで幻のユートピアのようでありながら、それが楽園で在り得るのはこの島でのみだ。防壁の外では、もっと大きな自由が待っている。

「私は、ここを出ていくわ」
「……分かっているよ。何か、餞に贈ったほうがいいかな」

自嘲気味に笑ったオーナーに小さく首を振る。そして代わりに手に持っていたナイフを見せると、少し意外そうに眉を上げた。

「おや、懐かしいね」
「どうして、オーナーはこれを私に渡したの?」

サンジさんから話を聞かされて、オーナーに会わないといけないと衝動的に思ってから、ずっと胸を掠めていた疑問。私はこのナイフの意味すら誤解していたんじゃないか。それならこれは、何のために私に渡されたのだろう。

「うーん、少し気恥ずかしいんだけど、答えないと駄目かい?」

オーナーが困ったように眉を下げるものの、何も答えない。だって、何を言っていいのか分からない。そんな表情だって、私は初めて見ることに驚いているんだから。
すると、私の沈黙に諦めたようにオーナーが口を開く。

「僕は、この島を嫌いながらも、結局この島でしか生きられない男だからね。こんな汚れた金の力でしか君を守れないだろう。だから、せめて君がここを出たときに、それが君を守ってくれたらいいと思って」

その言葉に泣き出しそうになった衝動を必死に押さえつけると、かっと喉の奥が熱くなる。泣いてはいけない。だって、泣きたいのは私よりずっとオーナーに違いないのだから。

「私はこれをオーナーから渡されたとき、これで私自身かオーナーを殺せと迫られているんだと思ってた」
「ハハッ、そんな風に思われていたなんて、日頃の行いかな」

苦笑を浮かべるオーナーに、それを否定するように必死で首を降れば、もういいよとでも言うようにその笑顔に優しさが浮かぶ。無知は罪だと言っていたのは誰であっただろうか。無知のせいでこんなにも多くを傷つけて、間違いなくわたしは咎人だ。それなのに、どうしてこんなにも勝手に私を許すのだろう。

「オーナーは私がいつかここを出ていくと思っていたの?」
「……最初に言っただろう。君には成りそこないの翼があるって。だから、こんな狭い場所で満足できるはずがない。思えばきっと、あの瞬間から僕は君に恋をしていたんだろうね」

私とオーナーの出会い。私はそんな初めから、彼を間違えていた。そこでほんの少しでもこの愛に気づけていたなら、今こうしている未来はなかったんだろうか。ほんの少しの逡巡。私は、オーナーに与えられてばかりだったのだ。守ってもらいながら、私はこんなひどい裏切りをしようとしている。

本当にいいのかと、決意した気持ちが早く揺らぎ始める。私はあまりに多くを与えてもらいながら、恩のひとつだって返せていない。
自然と俯く視線から、青く大きな空が消えていく。

「出ていきなさい、ナマエ。君はもうヨルには戻れないだろう」

私のためらいを見透かすように、オーナーがそう言い放つ。その言葉に爆ぜるように顔を上げるも、思うように声が出ない。そんな私に彼はなおも追い打ちをかけるのだ。

「だから、頼むから、幸せでいてくれ」

懇願するようなその声に、堰を切った涙が溢れる。
そんな風に幸せを請われて、だけど、それは私の幸せはここにはないと暗にいわれているのだ。分かっている。何も言わず、そっと私の後ろに立ってくれているサンジさんをちらりと見る。
私の幸せはこの先だ。この手を取って、この島から出た先にある。

「ねえ、オーナー、私、貴方の娼婦でいたいって言ったとき、嘘をついているつもりはなかったのよ。本当にそれでもいいって思ってた」
「分かっているよ。まったく、君はひどい子だな」
「このナイフは、持っていく」
「どうか、それの出番がないことを」

踵を返して、そっとサンジさんの手を取る。
漂う潮の香り。決して戻ることのない巣立ちを祝福するように、遠くで海鳥が鳴いている。

「麦わらのクルーの君」
「……ああ」
「こんなでも大切にしてきたつもりなんだ、よろしく頼むよ」

返事をするようにサンジさんが咥えていた煙草を口から離して、そっと煙を吐き出す。その煙が空高く昇って、空気と混ざり合って見えなくなる。
ほぼ無意識に跳ね返るように振り返って、それはもう叫びのように口から零れだす。

「オーナー、私は、偽りでも、偽りなりに本当に貴方を愛してた」

愛を知らなかった私が、何度もオーナーへ囁いた愛の言葉。信仰のように、妄信的に彼に向けていた私の想いだって、形は違えど愛は愛だ。

一瞬驚いたように見開かれたオーナーの瞳が、愛おし気に細められる。切なさ、寂しさ、そしてそれを包み込む愛情。そんな彼の表情に後ろ髪を引かれながら、今度こそサンジさんの手を取って、この館を出て行く。










じゃりじゃりと、海に近づくにつれて小道の土に砂が混ざっていることを感じる。木々の生い茂った先、そこが海が広がっているなんて、かつての私であれば気付きもしなかっただろう。
初めて島を出ようと決めたとき、海がどれだけ広いかなんて考えもしなかったのだから。

館を出てからずっと、私の手はサンジさんと繋がれている。まるで、そうであることが自然だとでもいうように、私の手は彼の手のひらにすっぽりと収まっているのだ。少しだけ握る力を強めてみると、隣を歩いていた彼が不思議そうに私の顔を見つめる。

「迷惑をかけてごめんなさい」
「いいや。これくらいたいしたことないよ」

私への気遣いなどではなく、心の底からそう思っているとでもいうような口調の優しさ。それに何とも言えない居心地の悪さを感じる。きっと、これから戻る船で待つ彼らも、心から私の帰還を喜んでくれるに違いない。どうせなら思い切り叱りつけてくれていいのに。

「サンジさんは私に甘すぎますよ」
「そうかい?これでも甘やかしたりないんだけど」

その言葉にカッと頬が赤くなるのがわかる。
これが恋だと、初めてサンジさんへの想いに気付いた衝撃。彼から与えられる愛に身を委ねることを決めた罪悪感。そのすべてから解放され、もう何にも縛られず彼を愛していいのだ。そう思うと、まるで泣きたいような笑いたいような、言葉に出来ない激情が身体から湧き上がる。

今すぐここから駆け出して、大きく広がる海に向かって泣き叫んでしまいたい。そしてそのまま、今度は目の前に神が生まれた奇跡を祝福するかのような、おおらかな笑みを浮かべるのだ。
そんな自分を想像して、苦笑する。ずっと心に鍵をかけてしまい込んでいた自分の中の感情が、こんなにも豊かだったなんて思いもしなかった。きっと、これから私は様々な変化を遂げるのだろう。その隣に、永遠にサンジさんがいてくれたら、きっとそれ以上の僥倖なんて存在しえない。

「もうすぐ、船につきますね」
「そうだね……その前に、ちょっといいかい」
「わ」

ふたりで歩く時間が、ほんの少しだけ名残惜しく感じて、彼にそう語り掛ける。サンジさんもまた同じように微笑んでくれたと思ったのも束の間、身体がぐらりと揺らいで世界が暗転する。

温かな体温と煙草の香り。サンジさんの腕に抱きしめられている。ただ唯一いつもと違うのは、その力の強さだ。いつものような優しくふわりと撫でるようなそれではなくて、強く固く、その存在を確かめるような抱きしめ方。

「どうかしましたか」
「ナマエちゃんがもう一度戻ってきてくれた喜びと」
「……と?」

サンジさんがゆっくりと力を緩めたことで、顔を上げる隙間が生まれる。
木々の隙間から射す太陽の光。その光が彼の金色の髪に反射して、神々しいまばゆさとなる。美しいな、と素直に思った。そんなことを思っている私の顔は、随分と間が抜けているに違いない。
サンジさんの表情が、柔らかく、そして少しだけ気恥ずかしそうに歪められる。

「目の前で他の男にあんな熱い告白を見せられた嫉妬かな」

そんな彼からの告白に思わず笑ってしまえば、サンジさんもつられたように笑う。そして、どちらからともなく重なる唇。
王子様のキスで百年の眠りから目覚めるお姫様のように、真実の愛を知って醜く姿を変えられた魔法が解けていくように、私は今、本当に自由になったのだ。

がしゃり、とどこかで鎖の外れる音が響き、それに共鳴するように波の音だけが優しく鳴り渡る。



ぼくらはいつだって傷だらけ