朝の死んでいく気配で目が覚める。
もともと夜に眠るのことが得意ではないせいで、浅い微睡みに沈み、そこからゆっくりと起き上がっただけの身体にはだるさが残る。今日も嫌になるくらい、いつも通りの目覚めだ。

深く眠れたわけでもない思考は、はっきりと昨日のことを覚えていて、寝ぼけてどうして自分がここにいるのかと混乱することもなかった。隣に眠るナミさんとロビンさんを起こさないように気をつけてベッドから起き上がる。
小さなカバンに詰め込まれた荷物から、無造作に白いワンピースを取り出して身にまとう。鏡をのぞき込み色素の薄い茶色の髪を一つにまとめてから、また音を立てないように部屋から出た。




顔を洗ってからキッチンへと向かえば、扉を開ける前からもういい香りが漂ってくる。カチャカチャと聞こえる金属同士の擦れる音を聞いていると、自然とサンジさんが厨房に立つ姿ははっきりと想像できるような気がした。
すうっと息を吐いてから、扉へと手をかける。

「おはようございます。サンジさん」
「お!ナマエちゃん、おはよう。随分と早いね」
「なんだか、目が覚めちゃって」

喋りながらカツカツと野菜を切る包丁さばきは、あれだけ美味しい料理を作るだけあって流石だ。料理なんてしたこともやい私にもその凄さは十分と伝わってくる。それに、その隣にはすでに鍋いっぱいのスープが出来上がっている。私に早いだなんて言いながらサンジさんはいつ起きているのだろう。

「お手伝いします……とはいっても、盛ったり運んだりするくらいしかできないんですけど」
「ほんとかい? 助かるよ。じゃあ、そこの棚から皿だしてもらっていいかな?」

落とさないように気をつけながら棚に手を伸ばせば、カチャカチャと食器の立てる音が響く。人数分の食器にサンジさんが作った料理を盛って、テーブルへと運ぶ。

「今日のごはんも美味しそうですね」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「こんな美味しいごはんがこれから毎日食べられるなんて、幸せだなあ」

暖かいスープに、中身がたくさん詰まったサンドイッチ。そんなテーブルを眺めながら思う。こうした優しい食卓を幸せと呼ぶのだと、何かの本で読んだことがある。幸せ、文字でしかしらないそれが自分の口から出たことが不思議だった。
私は今、本当に幸せだと感じているのだろうか。それともただ、知識で知っていただけの言葉を口にすることで幸せの真似事をしようとしているだけなんだろうか。

「そういえば、ナマエちゃんは何か好きな料理はあるのかい?」

思いついたようにサンジさんがそう尋ねてきたのは、きっと私の好きなものを作ってくれようとしているのだろう。
なにか言わなきゃと思って口を開きかけたところで、上手く言葉が出てこないことにはっとする。
慌てて今まで何度も何度も口にしてきたはずの料理をを想像するも、そのほとんどが豪華に盛り付けられた肉や魚、高価な宝石のように輝くデザートであるはずなのに、それらのどれかひとつでさえ好きという言葉と結びつかない。

「……ごめんなさい。急には思いつかなくて」
「まあ、確かに好きなものって意外と難しいか。うちの船長なんかは口を開けば肉しか言わねェけど」

困ったようにはにかむ振りを装えば、サンジさんも笑顔を返してくれた。その表情に胸を撫で下ろしながら、心の奥底が嫌にざわつく。サンジさんはそう言ってくれるけど、好きなものがあるというのはきっと当たり前のことなんだろう。
当たり前に好きなものを好きだと言えること。私はそうした世界からひどく離れた場所にいたのだ。欠落、欠陥。そうして抜け落ちたものが、私の人生にはあまりにも多いのだと改めて思い知らされたような気がした。










どれだけセンチメンタルな気持ちを抱えたところで、美味しいものは美味しいのだ。そう満たされた胃をさすりながら思う。

一通り食器の片づけなどを手伝ってから出た甲板には、爽やかな潮の香りが充ちている。ゆらゆらと不規則な波に揺られるたびに、嬉しさと寂しさが入り混じったような感情に押しつぶされそうになる。
ここは、あの島からどれほど離れた場所なのだろうか。私がいなくなったあの島は、あの人は、何か少しでも変化しているだろうか。
遠い遠い水平線の先を目を細めても、何も見えはしない。

「……あ」

眩しい太陽の日差しに目を細めながら、こんなににも平凡に与えられた時間を持て余すように、ゆっくりと甲板を歩き回る。そこでふと、壁に寄り掛かりうつらうつらと昼寝というには早すぎるような睡眠を取ろうとしている緑の髪が見えた。
陽気な日差しにあてられたのか、それともこの船に流れる和やかな空気にほだされたのか、気がつけば自然とその隣へと足が動き出す。

「……ゾロさーん、寝てますかー?」
「んぁ……いや」
「すみません。少し暇で、ちょっとだけ隣で私も日向ぼっこをしてもいいですか?」

困ったような笑みを浮かべて近づけば、ゾロさんは少し驚いたようにしながらも、隣に座ることを促してくれた。こういうとき、こうして浮かべているつもりの笑顔が本当に自分のものなのか分からなくて不安になる。
別に何か意図してしたつもりではなくても、長い時間をかけて身体に染みついた夜を売る女の私が時々、意志に反してでてくるようで怖いのだ。

「ここ気持ちいいですね。今日は天気もいいし」
「まあ、昼寝には最適だな」

遠くの方でカモメが飛んでいるのが見える。白いその姿は海を物語るのになんてふさわしい鳥なんだろう。

私が来たことで昼寝をするのはやめたのか、ゾロさんとしばらく取り留めのない話題に花を咲かせていると、ガチャリと隣の扉が開く音がした。その音に誘われるように顔をあげれば、片手にティーカップを持ったサンジさんと目が合いニコリと微笑まれる。だけどそれは一瞬で、隣のゾロさんを見るなり不愉快そうに眉が顰められる。

「おい、なに勝手にナマエちゃんと仲良くお喋りしてやがんだ、クソマリモ」
「なんでこいつと話すのにテメーの許可が必要なんだグルマユ」

ズカズカと大股で歩いてきながらゾロさんに向かって悪態をつくその様子は、昨日からもう幾度となく見ているので早くも馴れつつあるものの、もともとゾロさんに話しかけたのは私からである手前、二人の会話になんとか割って入る。

「あ、私が暇だったので、お話に付き合ってもらっていたんです」
「こんなヤツと話してたってつまらないだろう? 言ってくれたらおれがいくらでも付き合うのに」
「あはは……あ、そのティーカップは?」
「そうそう、ミルクティーを淹れてきたんだ。よかったら、どうぞ」

話を変えるためにサンジさんの手に持っていたカップのことを指させば、思い出したかとばかりにその手が私の方へと差し出された。淡いブラウンの液体が静かに揺らめきながら、陽の光を受けて輝く。

「そういえば昨日の夜も、ミルクティーでしたね」
「……あ、もしかしてミルクティーが苦手だったりするかい?」
「いえ、むしろ大好きです。なので、とっても嬉しいんですけど」

好きだと言った覚えはないのにどうしてかなと思って、と続ければサンジさんは安心したように笑う。

「ほら、ナマエちゃんの髪ってミルクティーのような色をしているだろ? だから、ついね」
「ああ、確かに似たような色をしてるな」

衒いないサンジさんと、それを聞いて私とカップの中身を見比べたゾロさんのその言葉に、思わず頬に熱が集まる。ちょうど吹いてきた海風に、そのミルクティー色の髪とやらは調子よく靡いていることだろう。

「……なんだか、すごく甘そうですね、私」

照れ隠しのように俯きながら、でも事実甘いのかもしれないなあ、なんて思えば途端にあの黒い心の闇が戻ってきそうで、慌ててその思考をかき消す。ふと視線の端に映った白いワンピースは、雲に隠れた太陽の影が裾にかかり、まるで純白を闇に浸食されているように黒が目立った。

「そうだ、おれはそろそろ昼飯の準備に取り掛からねェと」
「あ、それなら私も手伝います」
「いや、ナマエちゃんには朝も手伝ってもらったから、そんな気遣わなくてもいよ」
「いや、えっと……実はお料理してるところを見るのが楽しくて……ダメですか?」

嘘ではなく、サンジさんの料理をする姿はまるで魔法のようで見ていて楽しかった。そんな話をすれば、一瞬面食らったように大きく瞳を開いたサンジさんが、そういうことならと優しく微笑んでくれる。
それが嬉しくて急いで立ち上がると、おい、とゾロさんの声によって引き止めらる。

「一つ聞いてもいいか」

立ち上がったまま、そのグリーンの髪を見下ろすように視線を落とす。射抜くように見据えられた瞳が、まっすぐと私をとらえた。

「お前が見たい景色っつーのは何なんだ」

その言葉に潜んだ警戒にも近い響きはわざとだろう。手放しで受け入れられているわけではない。そう、その視線が物語っている。
むしろ、見ず知らない女が見たいものがあるから旅をしていて、その目的も明かさずに船にいるのを訝しまない方がおかしいのだから、ゾロさんのその疑いはもっともだろう。こういう彼の存在が、この穏やかな船の空気と外界の海賊の世界とのバランスを上手くとっているのだなと、ここにきってやっと納得する。

「おい、いきなり何言い出すんだテメェ」

ゾロさんを咎めるように足を踏み出したサンジさんをそっと手で制する。

「昔、ある人に私の背中は翼の成りそこないのようだねと言われたんです。だから、もし私に本当に翼があったなら見えたはずの景色って、どんなものだろうって……それが知りたくて海に出ました」

口にしてみればなんて呆気なく、そして陳腐な夢だろう。いや、夢とさえ呼べないかもしれない。青い海と空の衝動に駆られるように島を飛び出したあの瞬間、ただその行動を正当化できる理由をくれるものが欲しくて、遠い昔のあの人の言葉を持ち出しただけで。

水平線へと視線を向けると先程までいたはずのカモメの姿はいつの間にか見えなくなっていた。きっと、その翼で思うがままに空を飛んで行ったのだろう。風切羽根を手折られた籠の中のカナリアのことなど知りもしないまま。




たとえばの話をしよう