あれから食事の準備と片づけの手伝いをすることが自然と日課になった。最初のころは危なっかしかった包丁にも少しずつ慣れて、簡単なものなら一人でもサクサクと切ることができるようになった。
そうして私のほんの少しの力添えができた料理が、今日も美味しそうに食卓に並べられている。

いただきます、と声に出して食事をするようになったのは、この船に乗るようになってからだ。命をいただくから「いただきます」。サンジさんの作ってくれる料理を食べるようになって初めて、こうして口に入れているものはみな、かつては生きていたものだということを知ったような気がする。あの部屋で食べていた食事は、絢爛な鎖にに首を絞められて、どれもこれも死に尽くしていたから。

「そういえば、もうすぐ島につくと思うわよ」

ナミさんの言葉にルフィさんが目を輝かせながら両手を挙げる。食事中だとそれを窘めながらも、みんなどこか楽しそうだ。
そんな様子を見ながら、自分の心が重みを増していくのを感じる。このたった数日で仲間になったと思うほど思い上がるつもりはないけれど、少なからず距離が縮まったと己惚れてしまっている。だからこういうとき、素直に新しい島への冒険に胸を弾ませる彼らとの違いを思い知らされたような気がして悲しいんだろう。本当にバカみたいだ。

「ちょっと、ナマエ聞いてる?」
「……え!?」

突然、自分に向けて発せられた声に驚いて顔を上げと、呆れたようにナミさんが肩を竦めたところだった。

「まずは私とロビンと服を買いに行くわよ」
「服……?」
「次に行く島は冬島よ。ナマエ、冬用の服持ってないじゃない」

冬島、と聞こえるか聞こえないくらいの声で呟く。
真っ白な雪が降っていて、とても寒くて、それでいて言葉では語り切れぬほど美しいのだとおとぎ話のようにあの人が私に語った言葉を思い出す。

「とりあえずは私の貸してあげるから、ついたらすぐに買いに行きましょう」
「あ、それならナミさんが着なくなったのください。そして、ナミさんが新しいの買えばいいですよ」

ナイフを刺すだけでとろんと黄身が溢れ出す半熟のオムレツをつつきながら言えば、ナミさんの呆れたような溜め息が聞こえた。
何にそんな呆れさせてしまったのか分からなくて、困ったように視線をさ迷わせるも、隣で微笑みながら話を聞いているロビンさんは助け舟を出してくれそうにはない。

「ほら、私お金持ってないですし、買ってくれるつもりなんですよね? それなのにそんなの悪いですよ」
「あのね、そんなことアンタが気にしなくていいの」

軽く頬を摘ままれながら言われたその言葉は、どうしようもなく優しくて上手く喉を通らない。それでも、どこか嬉しいようにも感じる気持ちは初めてで、どうにも居心地が悪かった。



そうして初めて降りった冬島は想像してい以上の寒さだった。生まれて初めての凍るような冷気。それでも、話に聞いていたとおりの澄み渡った空気と、純白の雪によって染め上げられた景色に言葉にならない感動が白く凝る息遣いとなって空へと溶けだす。
そんな私を連れて町の中のいくつかの店を、ナミさんとロビンさんが一緒に歩いてくれる。ふたりの見立てで何着かの服を買いながら過ごす時間は素直に楽しかった。

そんな慣れない時間は、船に戻って夕ご飯を食べて一息ついてからも、ふわふわと足元の覚束無い心地を私に引きずらせている。まるで今までの私の人生の方が夢だったんじゃないかと、そう錯覚してしまいそうになるのが怖くて夜の海を眺めに甲板へと出た。

「……寒い」

夜になってまたいっそう澄み渡った夜空に、月がぼんやりと浮かんでいる。ずるりと壁に寄り掛かれば、背中から冷たい温度がじわりと身体に染み込んでいく。まるで夜に浸食されているようだ。このままゆっくりと目を閉じれば、私は夜の一部になれるかもしれない。
今度こそ、本当のヨルに。

「こんなところにずっといたんじゃ、風邪ひくよ?」
「……サンジさん」

私を世界の深淵から引きずりだすのは最近はいつもこの人だ。深遠の夜空に浮かぶ月のような人。困ったように笑いながら手渡されたブランケットをそっと羽織る。
サンジさんは本当に優しい人だと思う。だから、この優しさは素直に受け取っていい。否、素直に受け取ることだけが許されている。

「ナミさんたちとの買い物は楽しかったかい?」
「はい!すごい勢いで買っていったのには驚きましたけど……」

今日のことを話しながら笑い合う声が、静謐な夜に反響する。私を侵食していた夜はどこか遠くへ行ってしまったのだろうか。あれだけ冷たかった心の奥が、じんわりと暖かくなってしまっている。

「そういえば、今朝言っていたことだけど」

思いついたように私の方を向いたサンジさんの瞳を見つめる。なんのことだろうと一瞬考えてみるものの、私が思いつくよりも前にサンジさんは言葉を続けていく。

「ナマエちゃんは、本当にもう少し欲しがっていいと思うよ」

ああ、と心臓が脈を打つ。それはたぶん、今朝の会話のことだろう。まるで私が謙虚で慎み深い、聖母のような女とで思われているような口ぶりに、心の奥底に棲みつくもう一人の私が嘲り笑う。本当の私はとてつもなく強欲で貪欲な女なのに。人を蹴落として、踏み潰して、生きてきたのに。
だけど、そんなことをサンジさんは知らない。だから私は今、この人を騙しているのだと忘れてはいけない。忘れてはいけないのに、忘れてしまいたくて仕方がない。

「じゃあ、ひとつお願いしていいですか」
「ん? なんだい?」
「明日の食材の買い出しに、私もついていきたいです」

なんでそんなことを言ったのか自分でもわからない。そんな私のわがままを断られはしないことに安心したかったのだろうか。今の自分が偽りであることを、より深く戒めのように確かめたかったのだろうか。まとまりの無い心とは反対に、夜の冷たさに晒されたはずの頬はとても熱くて胸は痛いくらいに脈打ている。









冬島で過ごす二日目。昨日より寒いような気がするものの、空は雲ひとつない。冬の空の色はとても薄いのだと初めて知った。白い絵の具を塗りすぎたような空に、はあ、と吐いた息が白く白く昇っていく。

「寒くないかい?」
「はい、大丈夫です」

昨夜のお願い通りに、サンジさんと食材の買い出しに行けることになった。ナミさんとロビンさんと一緒に行った昨日の通りとはまた違う、様々な食材が並ぶ店があちらこちらに建っている。カラフルな野菜や見たこともない魚、そんなものを眺めながら歩いていると、私は今本当に知らない場所にいるのだなと実感する。

ざくざく、と雪を踏みしめる感触を感じながら、私の歩幅に合わせてくれているサンジさんを横目に眺める。出会ったその日から、優しさを与えてくれるばかりの人。

もしもこの寒さで、私が少しずつ少しずつ凍ってしまって、いつか一歩も進めなくなったとしたら、その時きっと、サンジさんは隣に座って春がくるのを待ってくれるのだろう。死んでしまうほど冷たい世界で、彼のその暖かい優しさが世界を生温くするから、凍って流れないはずだった涙がポタポタと零れてしまうかもしれない。

「ナマエちゃん?」
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって」
「疲れたなら少し休もうか?」
「いえいえ、まだまだ大丈夫です」

ほら、またこうして貰った優しさが募っていく。
返すことも出来ないくせに、貰ってばかりいる私はきっとあまりに惨めだ。
本当は綺麗でも優しくもない世界で死なないことが幸せだとは限らないし、生きられないことが不幸だとも限らない。そんな世界を知りながら純粋で無垢を演じる私が、ただひたすらに優しさに恵まれることはきっと唯一無二の幸福な不幸せだ。
きっとそれを知っていようといまいと、優しいこの人は求められれば、与えてしまうのだろう。

「そういえば、海賊の船に乗るっていうのはもっと危ないことがいっぱいあると思ってたんです」
「危ない?」
「なんかこう、船を襲撃されたりとかお宝を取りあったりとか」

そう言えば、サンジさんは明るい笑い声をあげた。子供扱いをされているようなそれがなんだか面白くなくて、少し拗ねたように唇を尖らせれば、サンジさんが困ったように私を見て瞳を細めた。

「大丈夫だよ。何があったってナマエちゃんはおれらが守ってみせるさ」
「それは、なんだかこの世界のどこにいるよりも安全そうですね」

その言葉に同じように笑い返して見せながら、心にはじゅくじゅくと膿むような傷が残る。守られるだけの私では隣で歩くことを許されなかったのだと邪推してしまう。
まるで、自分から薔薇の花を素手で掴むような自傷行為だ。真っ白な薔薇の花を、この穢れた血で美しく染め上げることができたなら、この世界は私が存在することを許してくれるだろうか。

「ナマエちゃん見てごらん」
「わぁ……」

サンジさんの言葉で空をあげると、思わず感嘆のため息が漏れる。

「冬島が初めてならこれも初めてだろう?」
「これも雪、ですよね?」
「これが雪だよ。みんなこうして降り積もったんだ」

寒さを体現するような淡い色の空から舞い降りる白い結晶。その儚い神秘さに、天使の羽のようだと思った。罪を咎められ翼をもがれる天使。そして、それは許しを請う贖罪のように降り注ぎ、決して許されない断罪のように舞い落ちる。
私はこの人に許されたいのに、許されたくないとも思っているのだろう。それは決して相反するものではなくて、表裏一体で二対一体な一蓮托生の想いだ。

隣で一緒に空を見上げるサンジさんを見つめる。とくり、と小さく高鳴る胸。私はすでにこの気持ちの名前を知っている。だから、どうかこの真っ白な断罪が、決して私を許さずこの身体を凍てつき殺してくれればいいと願うことしかできない。




温かい傷をあげる