「ナマエ」

どこからか聞こえたその声が私を呼んでいるのだと認識して、ハッと顔を上げる。私の中でもうひとつの世界を構成していた手元の本がただの文字の羅列へと戻り、今いる場所が船内のソファだとゆるやかに理解が追いついてくる。

遠くのようにも近くのようにも感じる波の音が、少しだけ開いた窓の外から響いている。入口の扉に寄りかかるようにして微笑を浮かべるロビンさんが、今まさに私を呼んだのだと思うものの続く言葉がないものだから戸惑ったまま首を傾げてみせる。

「えっと、ロビンさん?」
「ふふふ、お風呂次どうぞって」
「あ、ごめんなさい。わざわざ呼びに来てもらっちゃって」

慌てて読みかけの本をパタリと閉じる。少しだけ読み進めるつもりが気がつけば随分と長い時間が経ってしまっていたらしい。
三分の二ほど読み終えたそれはロビンさんから貸してもらったもので、捕らわれのお姫様と異国の盗賊の恋物語だった。

お姫様を助けるたなら自分を犠牲にすることさえ厭わない盗賊と、それに必死で応えようとするお姫様の恋は様々な障害に阻まれながらも確実にその絆を深めている。
きっと残りのページも、そんな彼らの愛を描いていて、最後はお決まりのハッピーエンドになるのだろう。

甘ったるくて、溶けてしまいそうなお話だと思う。こんなこと有り得ないと分かりながら、有り得ないと分かっているからこその救いのようにページをめくる手が止まらなかった。

「随分と熱中して読んでいたみたいね」
「はい、面白いです。今までも本は読まない方ではなかったんですけど、本当に暇つぶしという感じだったので」
「気になるものがあったら、好きに読んでいいわよ」

ありがとうございます、と小さく頭を下げる。そのまま部屋を出ていくのかと思っていたロビンさんがゆっくりと私の前へと近づいてきた。その長い足の歩みをぼんやりと眺めながら、ついに私の前で立ち止まった彼女の顔を見上げる。

「ねえ、ナマエ」
「なんですか?」

この船に乗せてもらってから、もう何度もロビンさんと話をしているけれど、ほんの少しだけその真っ黒な瞳が苦手だった。ゆっくりと見つめ合うと、まるで心の中を見透かされているんじゃないかって落ち着かない。
それでもなんとか瞳を逸らさないまま、頭の中で鳴り響くその先の言葉は聞きたくないという警鐘に逃げ出さないように耐え続ける。

「あなた、サンジのことが好きでしょう?」

世界を劈くようにその言葉が鼓膜に届いたとき、思わずガタリと椅子から立ち上がってしまった。顔は朱に染まるというよりも、あまりの驚きに血の気の失せた色になっているだろう。
心臓が早鐘のように鳴り響いて、死んでしまいそうだった。それは開けてはいけない扉なのに、これから重い重い鍵をかけようとしていたのに、なんてことをしてくれるんだ、と理不尽な怒りさえ込み上げる。

だけど、きっと、ロビンさんはそんな私の心さえ見透かしたうえで、こんなことを言い出したのだろう。
思えばこの本を貸してくれたことすらおかしかった。こんな夢見る少女のような恋物語をわざわざ選んで渡してくるなんて。
どこまで私のことを知っているのかわからないけれど、少なくとも、何か感じることがあったのだろう。放っておいてと叫びたいのに声が出ない私は、ただ誤魔化すように笑うことしかできない。

「何、言ってるんですか。本当にそんなことないんですよ」
「そう? それにサンジだってナマエのことを特別な目で見ていると思うけど」

ピシャリ、と冷水をかけられたように心が温度を失っていく。核心を撫でられて慌てふためいていた心が、今度は急に冷静さを取り戻し始める。場をとりなすように笑ったつもりだけれど、上手くできるどころか嘲笑するように唇が歪んでいく。

「それこそおかしいですよ。特別も何も、サンジさんは誰にだって優しい人でしょう?」

優しさを愛情だと取り違えてはいけない。少なくとも愛に関してなら、人一倍の知識を持っている。愛なら誰よりも享受してきた。愛なら誰よりも吐き捨ててきた。だから、あれは愛ではない。愛だと認めるわけにはいかない。

逃げるように飛び出した部屋の扉の閉まる音が、嫌に耳に残って気持ちが悪い。









「やあ、ナマエちゃん」

部屋を出た足のまま行くあてもなくフラフラ歩いていると、甲板の端でサンジさんと出会った。こんな気分のまま会いたくなかったと思いながらも、他の誰でもなく彼が来てくれたことに安心してしまう自分もいる。

「どうしたんだい、こんなところで」
「……お風呂に行こうと思って」

一瞬言葉に詰まる。まさかロビンさんから逃げてきましたと言うわけにもいかず、お風呂と口にしてみたものの、着替えも持たずにバスルームから遠いこの場所にいるのは少し無理があったかもしれないと後悔が込上げる。

「そうだ。丁度良かった」

後ろめたい気持ちで押しつぶされそうな私を他所に、サンジさんはなにやらポケットをがさごそと漁り始める。
なんだろう、と疑問符を浮かべる私の前に差し出されたのは小さな箱だった。彼の行動の意図が読めなくて首を傾げたままの私に、サンジさんははにかむように笑ってから蓋を開いた。その中には、石の付いたペンダントがちょこんと鎮座している。

「これをナマエちゃんに」
「え、私に?」

差し出されたそれを前に言葉が出ないでいる私に、サンジさんはそっと受け取るように促す。まるで宇宙の色を抽出したような藍色の石の中に、赤や青、黄などの様々な色がちりばめられているそれが、そっと私の手の中に納められた。

「きれい、ですね」
「よく夜空を見ているから、きっと気に入ると思って」
「本当に夜の空みたい……これ、本当に私が貰ってもいいんですか?」
「もちろん。ナマエちゃんのために買ったんだ」

片方だけが覗く彼の瞳が柔らかく細められると、かあっと身体が熱くなるのを感じた。
ダメだ、と思う。本当にダメだ。こういうことをされるともう隠しようがないくらい、誤魔化しようがないくらい、私はもうこの人を好きになってしまっていると思い知らされる。

ここに来る前のロビンさんとのやりとりを思い出して、ぎゅっと俯いて唇をかみ締めた。私はサンジさんを好き。そう心の中でなぞると、もうどこにも逃げ場なんてないとしか思えなくなる。

だから、それは認めようと思う。だけど、サンジさんが私を好き。それは、どうしても認めるわけにはいかない。夜の甲板にいれば温かいミルクティーを出してくれるのは優しさだ。街を歩けば人にぶつからないようにさりげなくエスコートしてくれるのも優しさだ。

だから、こうして私のためにプレゼントをくれるのも、そうして幸せそうに私の前で微笑んでいるのも全部、全部、ただの優しさなのだ。だって、そうしないと、あまりにも世界は残酷すぎるじゃないか。



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