あれから特に何事もなく島を出発し、新しい旅路へと向かう。あれを機にロビンさんともサンジさんとも何かが変わるということもなかった。
だけどひとつだけ変化があるとすれば、朝起きて顔を洗い、髪をひとつに纏める一連の流れに、サンジさんからもらったペンダントを首にかけることが加わった。

「おはようございます」
「おはよう、ナマエちゃん」

恒例となった朝ごはんの支度の手伝いをしに、キッチンに顔を出す。そのとき、いつもサンジさんの瞳がチラリとペンダントの有無を確認する。そして、私の胸元に閉じ込められた宇宙に嬉しそうに笑うのだ。私はきっと、この顔がみたくて、毎朝自然とこれに手を伸ばしているのかもしれない。

月は手が届かないから美しいのに、私は毎朝それを胸元に押し込んで、少しずつその息苦しさで殺しているような気がする。月の光は死に絶えてすべてが暗いその世界では、夜と海の境界が曖昧になり、まるで混じり合うように、世界はひとつに溶けていくのだろう。

この扉の向こうでは、朝の生まれたばかりの太陽が燦々と輝いているはずなのに何を考えているんだろうと首を振る。気を取り直してサラダを作るための野菜を切り始めると、サンジさんが不意に手元を覗き込んできた。

「ナマエちゃんも随分と成長したね」
「そうですか?」
「最初の頃は包丁の持ち方から怪しかったじゃないか」
「……それは忘れてください」

拗ねたように顔を背ければ、「ごめんごめん」とサンジさんが笑う。でも確かに、最初の頃は包丁なんて握ったことがないから戸惑ったものだ。そう考えれば、今まな板の上で均一に切り揃えられた野菜たちを、成長の証と呼んでいいのかもしれない。

そんなことを思いながら、慣れた手付きで作業を進めていけば大半の料理が出来上がった。ルフィさんを筆頭に食事の量がすごいから、一食作るだけでも私には一苦労である。

「そろそろ寝ている人たちを起こしてきますね」
「ああ、悪いね」

これ以上は私の手伝える範囲ではないので早々に手を引く。軽く水でゆすいだ手をタオルで拭いながら、窓越しに外を覗けば青々とした空に、それを覆い尽くしてしまいそうな入道雲が広がっていた。
そういえば、次に着くのは夏島で、気候はすでに夏なのだとナミさんが昨日言っていた。ドアに手をかけ、まだ夢の中にいるはずの彼らを呼びに行くために足を踏み出す。

キラキラ輝く太陽に背中を押されるように不思議な程に足が軽い。軽くて、軽くて、飛んでしまいそうだ。
その瞬間、くらりと世界が揺れる。ゆらゆら揺れて、反転。そして、色を失くした世界はゆっくりと暗転する。
遠くの方で私を呼ぶ声がしたけれど、それはうるさいほど反響する波の音に気圧されて、曖昧に消えて行ってしまった。









夢を見ているのだとわかった。

ここは深海で、私はその底に沈んでいる。沈んでいる最中ではなくて、もう完全に沈み切った場所にいた。口からはコポコポと酸素が漏れ出しているけれど、不思議と苦しくはない。深海というのは暗いものだとばかり思っていたけど、ここはとても明るくて、静かだった。

どうせなら闇で包んでくれたらよかったのに、どこにも行けない身体で、明るい希望だけを見せるのはなんて残酷な行為だろう。その光に手を伸ばしたいのに、身体は錨のように重くて、ただまとわりくつ海水が不快なだけだった。

水の中だからわからないけれど、きっと私は泣いているのだろう。声も出さずに、ただ涙だけが溢れだす。この涙は海水と溶け合って、少しずつその濃度を上げるかもしれない。誰かがこの海に落ちたとき、そのしょっぱさに私の想いを受け取ってはくれないだろうか。

ああ、きっとここは絶望の深淵だ。これが絶望だというのなら、次は希望を見てもいいだろうか。これ以上の絶望がないというのなら、私はあの人の隣に立つ希望を見たかった。

コポコポと不規則に零れていた酸素が尽きる。きっと、死ぬのだろう。夢が死ぬのか、私が死ぬのかはわからないけれど、怖くはないと思った。











目を開けると、再びそこは光の世界だった。苦しくはないけれど、やはり身体は重い。

「ナマエ!!」
「チョッパーさん……私、どれくらい寝ていましたか」
「二日だ!ひどい睡眠不足だったんだぞ」

二日、という言葉をゆっくりと噛みしめる。私の知らないところで、ふたつの太陽が生まれて、ふたつの夜が死んだのか。二日間寝続けた身体は節々が痛む。けれど、やけに右手だけが暖かいのが不思議だった。

「そうだ、サンジ呼んでこないと」
「サンジさん?」
「ほとんどずっとナマエの側にいたんだ。ただの睡眠不足だから、命に別状はないとは言ったんだけど」

ぎゅっと胸が痛くなる。その一瞬で、右手のぬくもりの理由が分かってしまった。
握っていてくれたのだろう。ただ眠っているだけの私を、心配してくれたのだろう。覚えてはいないけれど、確かに覚えているような気がした。そして、同時にあの深海の夢を思い出す。死んだのはあの夢だった。私はこうして、ここに帰ってきた。その事実が、甘えかもしれないけれど、私を許してくれているような気がした。

だから、しなければいけないことがあるのだろう。

「私、サンジさんに会ってきます」

二日間も眠り続けた思考はぼんやりとしていて、それと同じだけ海の底にいた足は、陸に初めて立った人魚姫のようにぎこちなかった。けれど、ただ希望だけがしっかりとそこにはあった。




「……サンジさん」

ドアを開けばあの日の続きのような燦々とした太陽の光が飛び込んでくる。甲板で煙草を吸っていた彼が、驚いて目を開くのが何かの映画のワンシーンのように映る。これがそんな幸福な映画のラストシーンだったらどんなにいいだろう。けれど、現実はそうはいかないから、私はこれからくる希望に胸を弾ませて、きっと襲い来る絶望から目を逸らさなければいけない。

ここは明るい悲しみの世界なのだから。

「よかった。目が覚めたんだね」
「はい。ただの睡眠不足ですから」
「だからって、二日も眠っていたんだよ」

自然と私の肩に触れる手。それがなんだか私の存在を確かめるようで、少しだけくすぐったい。

「昔からたまにあるんです。あまり眠るのが得意じゃなくて、いつもゆらゆら浅瀬にいるみたいな、現実の続きみたいな睡眠しかとれないから。だから、ときどき電池が切れたみたいに、ずっと眠ってしまう事があるんです。そういう時はいつも、目覚めたとき悲しくて、起きたのは間違いだったって思うんですけど」

大きな部屋の豪奢なベッドの中で、ひとりで目を覚ました時のことを思い出す。痛む身体にカラカラの喉。なんで目覚めてしまったのだろうと思う。このまま人形のように死ねてたら、こんな思いはしなくてすんだのに。

「……今日は目が覚めて本当によかった」

あなたに会えたから。

そう微笑めば、グッと世界が揺れて、気がつくとサンジさんの腕の中にいた。日差しの暑さだけではない熱がじっとりと身体を包む。

「おれはナマエちゃんのことが好きだ。きっと、初めて君と出会ったその日から」

初めて出会った日。澄んだ青い空。この出会いは運命だったのかもしれない。星が惹かれ合うような自然さで私たちは出会った。ただし、この恋が絶望を孕んでいることを忘れてはいけない。それが怖くて認められなかったのに、結局こうして幸せそうに頷いてしまっているのだから、これは運命であり必然なのだろう。

いつか必ずあの絶望の深海がやってくる。そして、その絶望にこの人を巻き込んでしまうことになるのだろう。それでも、私はこの束の間の幸せを噛みしめたい。すべてを与えられるだけだった私が、たったひとつだけ、自分でつかんだ未来を思って瞼を閉じる。




代償の行方