私たちが恋人という関係を手に入れたところで、この船での生活はほとんど変わらなかった。いつものように食事の手伝いをして、いつものように会話をする。
もしかしたら、もっと恋人同士のような甘い雰囲気というやつを求められるかもしれない、と思ってもいたけれど、そういうことが苦手だとわかってくれているようで本当にいつもどおりだった。そういう優しさが、やはり好きだと思う。

言葉や態度には示さないものの、私たちの関係が変わったことを気づいている人たちもいるようで、ナミさんやロビンさんなんかはあからさまに意味あり気な目でこっちを見てくるときがある。恥ずかしさで居心地が悪くなるものの、どこか満更でもない気がするから複雑だ。

ほら、今こうして三人でお茶をしているときもナミさんがニヤニヤした笑みを浮かべている。

「そういえば、ナマエからはサンジくんに何かあげないの?」
「え?」
「それ、サンジくんから貰ったんでしょう?」

そう言ってナミさんが指さしたのは、胸元でぶら下がる小さな宇宙。

「……なにかあげたほがいいんですかね」
「まあ、喜ぶとは思うわよ」
「考えたことはあるんですけど、何も思いつかなくて」

サンジさんが用意してくれたミルクティーに口をつけながら、再び思い返す。同じようにネックレス、調理器具、本、花、時計。色々なものを考えるけれど、どれもこれもピンとこない。
そう考えると、私はあの人の好きなものをほとんど知らないのだなと思い知らされる。それに、そもそも私にだって好きなものがないのだ。それでいて誰かの好きなものなんて思いつけるはずもないのかもしれない。

「明日には新しい島に着くんでしょう?そこで探してみたらどうかしら」

探せるだろうか、と不安になりながら、それでもサンジさんの喜ぶ姿を見たいと思った。本当はきっと何をあげたって喜んでくれるのだろうけど、やはりちゃんと選びたい。「探してみます」と頷きながら、もう一度マグカップのミルクティーに口をつければ、いつも通りの優しい甘い味がする。






新しい島につき、早速サンジさんへのプレゼントを探しにとにかく歩き回ってみることにした。ナミさんかロビンさんに一緒に行ってもらおうかとも思ったけれど、あれこれと意見を聞いているうちに私は流されてしまうような気がして、結局ひとりでこの島を歩いている。

青い空に入道雲が浮かぶ姿がよく似合うこの島には、カラフルなものが多い。虹色の貝殻だとか、小洒落たネックレスなんかを物色しながら、ただひたすら歩く。

「あ……海」

ふと顔を上げると海岸沿いの林が途切れて、半円状の海が広がっている。最近は船の上から見ることが多かったので、こうして陸からみる海はなんだか懐かしいもののような気がした。

青い水平線と青い空が曖昧に濁っている。随分と遠くに来たはずなのに、この海の向こうにまだまだ世界が広がっているというのは想像もつかない。
頭ではわかっていても、私の中の何かが理解を拒む。まるで、夢のようだ。夢の中であったら何処にだって行けるのに、きっと目が覚めたら私はあの檻の中にいるのだろう。

そう思ってしまうあたり、結局私の世界はあそこにしかないのかもしれない。なんだかあんなにも幸せだった気持ちが息苦しく締め付けられる。幸せが大きくなればなるほど、その影が大きくなって迫ってくるようだ。
そんなことを思ってボーっとしていると、急に腕を掴まれる。

「え……!?」

驚いて顔をあげると、にやついた笑みを浮かべた男の二人組が私を見下ろしている。

「こんなところでひとり?」
「よかったら、いいところ案内してあげようか?」

少し危機感を感じながら、まわりを見回す。海に惹かれるようにして随分と歩いてしまったらしく、人ごみの喧騒からは離れてしまっていた。どこを見ても助けてくれそうな人はいない。心臓が早くなるにつれて、呼吸も浅くなる。

「あの……大丈夫です」

どういう表情したらいいのかわからなくなる。笑えば、あの檻の中の私がでてきてしまうようで怖くなるから。今までの私なら、媚びるように微笑んでそっとその腕に手を回すことができたのだろう。だって、それしか知らなかったのだ。

けれど、私は今あの人たちと出会って、たくさんのことを知って、臆病になってしまった。掴まれた腕の痛みのせいなのか、痛む心のせいなのかわからないまま泣きたくなくなる。だけど、ここで泣けばその涙すら、ただの女の武器としての意味しか持たなくなるのだろう。

「おい、なにしてやがんだ」

その声に驚くというよりも、納得する自分がいた。ああ、あの優しい彼が、根っからの騎士な彼が、この場面で登場しないはずがないのだ。

「……サンジさん」

私の言葉に、彼があの麦わらの一味だと気づいたらしい男たちが怯むのを感じる。その隙に腕を振り払って、サンジさんに向けて走り出す。勢いに任せてその身体に抱き着けばほんのりと煙草の匂いがした。
それだけで、さっきまでの不安なんてどこかに行ってしまうようで単純な自分に苦笑する。ちらり、と振り向けば男たちは逃げるように走り去っていく後ろ姿が見えた。

「大丈夫だったかい?」
「はい……助けにきてくれてありがとうございます」
「ナマエちゃんがひとりで出て行ったっていうから探していたんだ」

腕の掴まれていた部分に触れながら、サンジさんが心配そうに私のことを見る。

「……サンジさんに何か贈れるものを探していたんです」

そう小声で言えば、サンジさんが一瞬驚いたように目を瞠ってから優しく微笑んだ。

「そんなのいいんだよ。おれは君がそばにいてくれたらいいんだ」

抱きしめられた腕の中で、煙草の香りに包まれる。海岸からは波が打ち寄せては去っていく音が響いている。まるで、この世界には私たちしかいないようだ。そばにいてくれたらいい、というサンジさんの言葉を口の中で転がす。

ああ、それがきっと一番難しいのに。他にはどんな高いものでも、どんなに希少なものでも、きっと贈ることができるのに。その望みだけは、どうしたって約束できないから、私は言葉を失ったように何も言えないまま、この静かな世界に佇んでいる。










夜の微かな音で目が覚める。この船に乗るようになってから、前よりは眠りが深くなったような気がするけれど、十分なものとは言えないのだろう。
ベッドの上で暗闇に目が慣れるのをじっと待ち、少しずつ天井とか本棚の線がはっきりしてくるのを眺めながら、小さく息を吐いた。
このままもう一度眠りにつく気にもならず、音を立てないように部屋から出れば、静かな夜の空気が肌に張り付く心地がした。

「……あれ?」

水でも飲もうかと、自分の足音を聞きながらキッチンに向かうと、わずかに光が漏れていることに気づく。誰かいるのだろうか。伺うように扉を開けばグラスにお酒をそそぐサンジさんと目が合った。

「あれ?どうしたんだい、こんな時間に」
「目が覚めてしまって」

そう言えばサンジさんの瞳に不安の色が滲む。きっと、また私が倒れるんじゃないかと心配してくれているんだろう。今ではすっかり体に馴染むその優しさに、そっと笑い返して彼の側へと歩み寄る。

「大丈夫ですよ。そうそう倒れたりしません」
「……あのときは本当に心配したんだよ」
「はい、とっても伝わりました」

だから、私はあなたの優しい愛に刹那の身を委ねようと思えたんです。
口には出来ない言葉を、心の中で呟く。もう幸せの真似事だなんて思えない、確信的な幸せがゆっくりと充ちていく。愛されることが幸せだなんて思ったことなかったのに、今私は間違いなく幸せだ。

「サンジさんこそ、こんな真夜中に晩酌ですか?」
「ちょっと寝付けなくね……よかったらご一緒にどうですか、プリンセス」
「ふふふ、喜んで」

グラスをゆすりながら冗談めかして聞いてくるサンジさんに、同じように微笑みながら頷く。サンジさんが席を立ち、私のぶんのグラスを持ってまた戻ってくる。透明なグラスに注がれる真っ赤な葡萄酒が海のように波を立てる。
そういえばこれが神様の血だという話を聞いたことがある。そうした信仰が私にあるわけではないけれど、そう考えて葡萄酒の赤色を眺めると確かに特別なものであるような気がしてくる。

「ナマエちゃんって意外とお酒に強いよね」
「意外ですか?」
「ちょっとだけね」
「うーん、昔から飲む機会が多かったからですかね」

こくり、とその赤い液体を飲み込めば、胃の中に流れ込んでいく。ここで神様への感謝を述べれば、私は神様とひとつになれるのだろうか。なりたいとは、思えないけれど。そんなことを思いながら顔をあげれば、サンジさんが何か言いたげにこちらを見ていることに気がつく。「どうかしましたか」と首をかしげれば、ひとくちだけグラスに口をつけてからサンジさんが話し出す。

「ときどき、ナマエちゃんが何かに怯えているような気がするんだ。眠るのが得意でないところや、ひとりで星を眺めているところとか、そういうときに何か力になりたいと思うんだけど……おれになにか出来ることはないかな」

昼間の騒がしさとは打って変わった、静かな真夜中の中で私は次に紡ぐべき言葉を探す。真夜中が美しいのは世界が半分になるからだ、という言葉を聞いたことがある。その言葉の意味はよく分からないけれど、きっと世界の半分を夜が食べてしまうのだろう。
だから、夜の世界に浮かぶ星たちは、そんな食べられた世界の未練なのかもしれない。夜がなければ輝けない星と光を食べないと生きていけない夜。ああそれは、どうしようもない依存で、どうしようもない片想いだ。

ほんのりとまわってきたアルコールとそんな夜の空気にあてられて、結局うまく言葉を選べない私は代わりの言葉を探す。

「……星が、ただの燃えるガスの塊だと知ったとき、とても悲しかったんです」

突然こんなことを言われても、わけがわからないだろうに黙って聞いてくれるサンジさんに微笑む。

「私はずっと、エトワールになりたかったから」

神様のことを考えるとき、いつも頭に浮かぶあの人のこと考える。この世界にはきっと神様はいるのだろう。だけど、私にはいない。私の神様はいつだってあの人だった。私はあの人のエトワールで、サンクチュアリで、カナリアで

──そのすべてが偽物だった。

燃え尽きるだけのエトワール、白濁にまみれたサンクチュアリ、どこにも行けない成りそこないのカナリア。私はいつだって空っぽで、何にもなれなくて、でもたったひとつだけ、本物の夜ではあった。



優しい夜の眠る家