次の朝は突き抜けるような青い空だった。どこまでも青くて、どこまでも果てのないような青空。そんな青い空を眺めながらすうっと深く息を吸い込む。

「ナマエ……あれはいいの?」
「まあ、もう見慣れましたし……とくには何も」

いかにもドン引きという表情をしたナミさんが指さすのは、目をハートにして街の女性に近づくサンジさん。確かに私は彼の恋人なのだからこういうときは嫉妬でもして怒るのがスジなのだろうなと思いながらも、心の中にはなんの感情を湧いてこない。
「彼女の余裕ね」なんて茶化すように言うナミさんに曖昧に笑ってごまかしながら、彼女という言葉を心の中で繰り返す。

私は間違いなくサンジさんが好きで、サンジさんが私のことを愛してくれているのも感じているのに、なんだかその言葉がピンとこない。青すぎる空の下で言葉を交わしているサンジさんとあの名前も知らない女の人を恋人同士だと紹介されたほうがまだピンとくるような気さえする。もやもやとも言えないような、心の底に少しずつ溜まる違和感。

「そういえばサンジくんとはどこまでいったの?」
「え?」

ナミさんの予想外の言葉に思わず目を開く。ナミさんを見れば、たまにはこういう女子トーク的なのもいいじゃないとニヤニヤと笑っている。

「ほーら、言っちゃいなさいよ」
「……抱きしめてもらいました」

告白されたときと柄の悪い男たちに絡まれたときのことを思い出す。それ以外にも、あれからたま船の上でふたりきりになったときなど、そっと胸に引き寄せられることがあった。でも、それもほんの数秒ですぐにまた一定のふたりの距離が保たれる。そのあとはいつも顔が見られなくて、つい俯いてしまう私のことを、サンジさんはどう思っているのだろうか。なんとなく思い出したその光景にぎゅっと胸が痛くなる。

「え、それだけ?」
「はい」
「……まあ、船の中じゃ厳しいわよね」

あの一瞬の邂逅以上のことを考える。サンジさんと口づけをして、唾液を交わして、身体を委ねる。そんな行為を想像するたびに、心は不思議なほど冷静になっていく。ああ、心の中に溜まった違和感の正体はきっとこれだったのだろう。私にはどうしたって、愛ってやつとその行為が結びつけることができない。サンジさんと恋人同士になったからといって、それ以上のことが想像できないから、嫉妬さえできない。

無知なのは罪だと優しく笑うあの人の顔がぞくりと浮かび上がって、下唇を噛む。私は結局、愛のことも恋人のことも何も知らないのだ。何も知らないから、何もすることが出来ない。あの完結されきった檻の中とは違って、世界には続きがあるのだと今になって思い知らされる。

「しかたない。可愛いナマエのために、私が人肌脱いであげる」
「……なんですか?」
「今日はサンジくんとふたりで宿にでも泊まって来なさい!」











壁にかかったどこかの農村の丘の上を描いた風景画をぼんやりと眺める。この町ではないのに、カーテンを閉めた窓の向こうにはこれと同じ景色が広がってるんじゃないかってそんな気がしてくる。
この世界のどこかにこれと同じ景色があるのだろうか。こんなに遠くに来ても、私がそれと同じ景色を見ることができるとは夢にも思えないのに。

「泊まっちまってよかったのかい?」

気遣うようにかけられた声にゆっくりと振り返れば、所在なさげにベッドに腰掛けたサンジさんと目が合った。

ナミさんの予想外の発言から、そのままあれよあれよと宿が手配され、唖然とする私たちを余所に、夕ご飯は私が作るから心配しないでと手を振りながらナミさんは去って行ってしまった。そして今、本当に私はサンジさんとふたりで同じ部屋にいる。

「んー……明日、船に戻ったら絶対ニヤニヤした顔されますね」

ナミさんとロビンさんの顔が目に浮かぶようだ、と思いながら目を閉じる。二人ともすでにお風呂は済ませていて、体の内側から熱される自分の体温にゆっくりと思考が沈んでいく。
もしも私がこのまま眠ってしまったら、サンジさんはそっと私をベッドに運んでくれて、そのまま何事もなく朝を迎えるのだろう。そういう人だと知っていて、そこに付け入ろうとしている私はやはりずるいだろうか。

「……そっちにいってもいいですか」

目を閉じたままでも、二つ用意されたベッドの片方に腰掛けるサンジさんが息を飲むのが伝わる。少し間があいたあと、いつもより少しだけ低い声で「おいで」と言われて、閉じたままだった瞳を開ける。見慣れない宿の壁は、まるで違う世界にでも来てしまったかのようだ。ソファから立ち上がり、サンジさんのいるベッドへと向かいながら、言葉を必要としない静かな世界で心臓だけがいやに脈打っている。

サンジさんの隣に座れば、二人分の重さに比例して柔らかいマットレスが沈み込む。これから、ここでサンジさんに抱かれるのだろうか。何度も何度も私はこうしてベッドの上に沈んだことがあるはずなのに、どうして上手く想像できないのだろう。

熱を孕んだ手がゆっくりと身体を蹂躙し、掠れるような吐息で名前を呼ばれる。その行為がどんなものかは知っているはずなのに、まるで異世界の出来事のようにすら感じてしまい唇が歪む。

「好きだよ、ナマエちゃん」
「……私もです」
「だから、こうやってふたりでいられるだけで満足なんだ」

前にも同じようなことを言った気がするけど、なんて照れたように笑うサンジさんに罪悪感にも似た思いがこみ上げる。そして、同時に言葉にできない愛しさも胸を締め付けて、息が苦しい。
嘘つき、と叫んでしまいたくなる。いっそ乱暴にこの身体を押し倒してでもくれたら、私はそのまま流れに身を任せることだってできるのに。ああ、愛がこんなにワガママなものだとも、理不尽なものだとも知らなかった。

ぎゅっと瞼を閉じて身体を動かす。腕をサンジさんの身体にまわし、その胸に顔をうずめる。「うわ」と驚いたようなサンジさんの声を聞きながら、さらに腕の力を強める。

「今日は、一緒に眠りたいです」

そう胸に顔をうずめたままのくぐもった声で呟けば、優しく頭を撫でられる。いつだったかミルクティーのようだと言われたその髪を、サンジさんの指が触れている。トクトクと時を刻む心臓の音がもうどっちがどっちのものかもわからないくらいに溶け合っている。ばさり、とどちらからともなくベッドに倒れ込めば思いのほか近くにサンジさんの顔がある。

「……もう寝ようか」
「そうですね」

私が蒲団にもぐりこんでいる間に、サンジさんが部屋の電気を消して戻ってくる。ふたつあるベッドに片方にふたりで潜り込むのは、なんだかとても特別なことのような気がして幸福で胸がいっぱいになる。
さっきまでの静かな胸の霧なんて、どこかに吹き込んでしまったかのようだ。闇に沈んだ部屋の中では、まだ夜目は効かなくて、なにもみえない。サンジさんはどうだろう、と瞳を動かせば、何も見えないはずなのに、はっきりとサンジさんと目が合ったことを感じて身体がカッと熱くなる。

「……私はたぶん、今サンジさんとキスがしたい」

その熱に浮かされるように、呟いた言葉が思ったよりも重みを持って落ちていくような気がした。次第に世界は輪郭を取り戻し、ゆっくりとサンジさんが近づいてくるのを両目がとらえる。そして、触れ合った唇は噛みつくような荒々しさではなく、かといって触れるだけのやさしさでもない。

ただ、どうしようもない愛情だけがそこにはあって、涙が零れ落ちそうになる。それを堪えるように瞼を閉じれば、抱えきれない幸福と温かい体温だけがそこにはあって、ゆったりと眠りの微睡みに誘われる。久しぶりに海の音のしない二人だけの世界で、私は生まれて初めてのような気さえする、深い深い眠りへと落ちていく。




そうして二人にやってくるのが同じ朝でありますように