次の朝、目を覚ますとサンジさんの腕の中にいて、先に目を覚ましたサンジさんから「おはよう」なんて優しい声で言われるものだから、夢の続きと間違ってしまいそうだった。初めて人に見られる寝顔というのは、なんだか気恥ずかしくて、それでいてとても幸せなものなのだと知った。

それから、少し早めに宿をでて船に戻れば案の定、ナミさんとロビンさんの意味あり気な笑みが待っていた。それを曖昧にかわしながら、その日を過ごし、船は再び新たな冒険へと向かって波を越え始め数日が経った。

「さて、新しい島が見えてきたわよ」

夜の海にぼんやりと人工的な光が浮かんでいる。あれが今回の航海の終着点なのだろう。もう夜だから島に降りるのは明日にしましょう、というナミさんの声をぼんやりと聞いていると、隣にサンジさんがやってくる。

「どうかしましたか?」
「いや、明日島を降りるときは一緒に行こうって誘おうと思ってね」
「いいんですか?」
「もちろん!そのほうがおれも嬉しいし、安心だからさ」

最後のはにかんだ微笑みに、前の島でひとりで行動をして危険な目に合ったことがあるからだと思いつく。こうして気にかけてもらえることに、頬が少し熱を持つのを感じる。今日の夜の風は冷たくてよかった、と思いながら頷けばサンジさんは嬉しそうに笑ってルフィさんやゾロさんのもとへと戻っていく。

「随分と愛されてるわね」
「ナミさん……」
「まあ、心配にもなるわよね」

背後からかけられた声に思わず飛び跳ねる。さっきの光景を見られていたのかと、夜の風に冷やされたはずの頬が再び熱くなる。そして同時に、心配にもなるという言葉に戦い方も身の守り方も知らない自分が惨めになる。

「あ、別にナマエを責めてるわけじゃないのよ!?」
「はい、わかっています」

身体の内側から這い出すような憂いが顔に出ないように微笑む。それに安心したような顔をするナミさんは、綺麗だ。そのオレンジの髪のように太陽の下がよく似合う。何かの影に潜むしか太陽を眺めることのできない私とは違って、その全部でその明るい光を受け止めることの出来る人だ。

「でも、ナマエも何か武器くらい持っていた方がいいわよ。なんかないの?」

その言葉に無意識に手がスカートのポケットへと伸びる。少し躊躇してから取り出したそれは、手のひらに収まるほどの小ぶりなナイフ。刃には蔦が描かれ、柄にはそれの延長線の蔦に絡まるように置かれた鳥籠と一羽の鳥の模様が刻まれている。

「へえ……随分とお洒落なナイフね」
「昔、人からもらったものなんですけど、これだけはいつも持ち歩いているんです

ナミさんが何か言いかけようとしたところで、船の先の方からルフィさんの大きな声が聞こえる。こうして話しているうちに、どうやら寄港の準備に入るらしい。
目だけでナミさんにルフィさんたちのところに行くように促しながら、ナイフを持つ右手をぎゅっと包み込みその存在を確かめるように、再びポケットへとしまう。

こんな小さな刃でも人は殺せるのだろう。そして、自分だって殺せる。
これをくれたときのあの人の姿が嫌でも脳裏に浮かんで、ポケットにいれたまま柄の模様をなぞる指先に力がこもった。あの人は、私が鍵のかかっていない鳥籠に自分を閉じ込める主人を殺すためにこれをくれたのだろうか。それとも、この鳥籠にしか居場所がない哀れなカナリアが自らの羽を千切るためにくれたのだろうか。
少しずつ明確さを増す島の明かりを眺めながら小さく吐いたもうひとつの私の名前は、行き場を失くして海に溺れていったような気がした。











「ねえ!!助けて!!」

錨を下ろし帆を畳み、いったん眠ろうかというところで、切羽詰まったような女の声が響く。どこからだろうとあたりを見渡せば、甲板の端で一人の長髪の女性が膝をつき、その周りにみなさんが集まっているのを見つける。

「……っ」

どうしたんだろうと近づき、その女性をはっきりと視界に捉えたところで全身が粟立つ。全く会ったこともない女なのに、どうしようもなく残酷なほど私はその女を知っていた。男に媚びるように潤められた瞳や、艶やかな唇。ぱさり、と落ちる髪は絹のように細やかで、なにより甘ったるい香りで身を包む女。

もう少しだけ見ていたかったはずの夢が音を立てて崩れ落ちて、突然現実を突きつけられた身体が微かに震え始める。

「どうしたんだい、お嬢さん」
「海賊、なんでしょ……私をさらって。この島から、どこかへ」

いち早くその女に近づくサンジさんに、触らないでと思わず叫びそうになる。けれど、声帯を失ったように声はでなくて、私はただ震える脚を押し殺して静かにその場所へと近づいていく。

「私は、この島で生まれた娼婦なの。でも、もうこんな生活嫌で、私はもっと自由に生きたいの。だから、助けて」

涙混じりに女の口から発せられた言葉に一瞬世界が静まり返る。サンジさんが小さな声で「……娼婦」と反芻するのが嫌にはっきりと耳に届く。この全身を跋扈する感情の正体は、もうわかっている。同族嫌悪の苛立ちと醜い嫉妬。自由になりたいと、助けてくれと、何も考えずに口にできる女が私は羨ましくて仕方ないのだろう。
嫉み、妬む心が、私を傷つける。

助けて、と縋るように女の手がサンジさんに触れようとしたところで、爆ぜるようにさっきまではピクリともしなかったが喉が勝手に言葉を紡ぎ始める。

「甘えるのもいい加減にしたら? どうやって自由になろうっていうの? そんな媚びるしか能がないような身体で。同じようなことを繰り返すしかないんでしょう?」

月のない暗闇の中で、高く響く私の声が反響する。

「本当はわかっているんじゃないの、助けてなんてもらえないって。そうよね、私たちが自由になる道なんてひとつしかないもの……飛んだらいいのよ。どうぞ、そこから海へ飛んでみたらどう?羽をもがれた私たちは、空は自由に飛べないけれど、海の中でなら自由に消えていけるんじゃないかしら」

少しずつあの何もない秩序的で、豪華で、無機質な籠の中の自分が顔を出す。一歩一歩、女の前へと近づきながら、柔らかく微笑む。数えきれないほど偽り、顔に張り付いた聖母の仮面。

「それとも……これを貸してあげるから、私を殺してみる?」

ポケットにいれてあったナイフを女の前へと投げる。そこに刻まれた模様を見て、女が息を飲んだ。そこに閉じ込められた鳥が自分だと、彼女も思ったのだろうか。私がこれをもらったとき、そう感じたように。

「それじゃあ、この四肢に絡んだ枷を切れないけれど、この胸に突き立てれば心臓くらい簡単に止まるわ。どうぞ、私を殺すことは、あなたがあなたを殺すことと同じでしょう?」

私は、あなたと同じなんだから。

そう今日一番の微笑みを向ければ、幻惑にでも惑わされたような虚ろな瞳で女がナイフ手に取る。ああ、できればためらうことなく一刺しにしてくれればいい。痛いのには慣れたけれど、傷が出来れば、ただこの身を売ることだけで生きてきた身体が可哀想だ。ナイフの切っ先が近づくのをゆっくりと見ながら、瞳を閉じる。

しかし、来るはずの痛みは訪れなくて、目を開けた世界にあるのは残酷な現実だけだった。

「……サンジさん」

さっきまでの高らかな女の声と違う、震え怯える声は間違いなく私のものだった。ナイフを持った女の手を掴み、瞳では私を見据えるその姿に呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。次第に冷静になる頭で、今まで見てきた夢のような時間がすべて崩れ去っていくのを感じる。

「……ごめんなさい」

何に謝ったかもわからないくせにただ謝罪の言葉だけを投げ捨てて、踵を返し船を駆け下りた。そのまま夜の街に消えていこうと走る。ただ、走って走って、そのまま世界が終わってしまえばいい。
いつか、このままの生活を続けられない日が来ることなんてわかっていた。それでも、その日はまだずっと先で、もしかしたらこの鎖も劣化して、いつか外れてしまうんじゃないかなんて、愚かな期待をしていた自分を呪う。
覚悟していたはずの傷は、思いのほか痛くて、一生消えることはないのだろうとだけ、はっきととわかった。





あれからただ走り続けて、随分と街中までやってきた。真夜中のはずなのに賑わうこの街は、確かに卑しい娼婦によく似合う。乱れた呼吸を気遣うことなく、静かに微笑む。それが嫌に自分に似合うものだから、余計な傷がまたひとつ増える。

「……ヨル?」

背後から聞こえたその声に、反射的に振り返る。この声を間違えるはずないと知りながら、それでも間違いであってほしいと願う。けれど、当たり前のようにそこにいるのは、優し気な笑みをその顔に張り付けて、淡いブラウンの髪を乱れなく整えた紳士。真夜中の街の中でも、その黒いスーツはただ交じることなく存在を主張していて、そこだけが別の世界のようだ。

「オーナー……」

ああ、嫌と言うほど心臓が鼓動する。逃げることなどできなかった。世界はこんなにも広いと知ったのに、それでもやはり私の世界はこの人でしかなかった。私からすべてを奪い、私にすべて与えてくれた人。私の生きる意味で、私を死なせる意味。




私の、唯一の、支配者。



一人では息も出来ないくせをして