「やあ、ひさしぶりだね」
「……どうして、ここに」
「おかしなことを聞くじゃないか。ここは君が生まれ育った場所だろう?」

カツカツとこちらに近づいてくるオーナーから逃げることもできないまま、ただうつむいていた顔を勢いよく上げる。

「ああ、君はあまりこっちには来たことがなかったね」
「……私は帰ってきてしまったの」
「帰ってきた? 違うだろう、君はどこにも行けなかったんだ」

幼い子供に真実を諭すように、オーナーが優しく目を細めながら私の頭を撫でる。どこにも行けなかった、とその言葉をもう一度自分で口にしてみれば、それが酷く真っ当な現実のような気がしてくる。
ついさっき、娼婦に似合いの街だと思ったここは皮肉にも、私の生まれた場所だった。脚についた見えない鎖が重みを増して、もう一歩だって歩けやしないような気がする。

「ナマエちゃん!!!」

そんな鎖を断ち切るように私の名前を呼ぶ声が聞こえる。この声で名前を呼ばれるだけで、あまりにも単純に私は希望を見出してしまう。また、その手を取れるような気がしてしまう。だから、せめてその姿を見たくなくて思わず振り返りそうになる身体を必死に押さえつける。

「これはこれは、かの有名な麦わらの一味のクルーじゃないか」
「……ナマエちゃん、そいつは一体?」

振り向くことはできないまま、心臓が止まりそうになる。そんな私を見てか、それともこの状況すべてが面白いのか、オーナーが心底愉快そうに笑った。

「ナマエ、そうか彼の前で君はナマエだったか」

無駄に整ったその顔を精一杯歪ませて笑っても、やっぱりどこか気品が残るこの笑顔を見るのも随分と久しぶりだ。そして、こういう笑顔のあとはいつだって。私に待っているのが絶望だということも、嫌というほど知っている。

「ヨルではなかったんだね。僕の可愛い可愛いヨル」

まるでお気に入りの玩具を自慢する傲慢な子供のように目を細めて、慈しむように頬を撫でられる。この華奢な見た目に似合わない無骨な手の感触をずっと染み込まされてきた身体が、思わずぞくりと反応する。

「……ヨル?」
「僕が与えた名前さ、娼婦というのは名はひとつでは困るだろう?」

オーナーのその言葉に思わずサンジさんの方を振り向けば、先程の船でのやりとりのせいか思ったより驚いたという様子は見られなかった。
けれど、それでも片方だけ覗いた瞳が、現実を受け入れられないように歪む。そんな顔をさせるとわかっていて、愛を告げたのは私のはずなのだから、傷ついてはいけないと自分に言い聞かせる。

「おや、君たちはもしかして特別な関係だったりするのかな」
「……意地悪ね」

オーナーの翡翠色の瞳が試すように私を見据える。そこに映った怯え、戸惑う、哀れな女の姿を見ていられなくて、そっと顔を背けた。このまま私の淡い夢は終わるのだ。だけど、そんな私の甘い考えとは裏腹に、オーナーの手が私の肩に触れて、軽く押される。

「彼のもとに行くといいさ。それが君の幸せだというなら、僕は喜んで君を手放そう」
「……え?」
「さようなら、可愛い僕のヨル」

くるり、と背中を向けて淀みなく歩いていくオーナーを見つめる。彼が私を思って振り返ることはない。このまま、闇に消えて行ってしまうのだろう。心臓はうるさいくらいに鼓動を響かせていて、瞬きが出来ない。

あの言葉は決して私を解放する裁断の刃などではない、むしろよりいっそう強くこの鎖を縛り直す躾だ。サンジさんに、あの船の彼らに、この身の穢れを知られて、それで再びこの島に帰ってきて、あの人と出会う。そんな運命としか思えない必然に、私はここでしか生きていけないと思い知らされて、私はオーナーという居場所すら失うような勇気はないのだ。

「……っ、待って!」

爆ぜるように擦りきれるような叫び。ゆったりと振り返るその顔には、いつもと変わらない微笑みが浮かんでいる。私が呼び止めることなど予想できていたのだろう。
それでも、今はその笑顔に縋りつきたい。あの路地裏でオーナーから差し伸べられた手を救いだと思った幼き私のように。

「置いていかないで、オーナー」

涙は流れていないはずなのに、声だけは泣いているかのような響きをしていた。そんな自分の声に戸惑いながらも、必死に彼を繋ぎ止める言葉を探す。

「愛しているの、愛してるわ」
「ああ」
「だから……ひとりにしないで」

口の中で転がす愛しているの言葉はなんの味もしない。いつも通りの呪いの言葉だ。愛がどういうものなのか私は知ってしまったから、いっそうこの言葉の鎖としての重みが増した気がする。
愛してなんていないくせに、愛していると嘯いて、私は自分で自分の首を絞める。上手く呼吸ができなくて、苦しい。そんな私を嘲るように、オーナーの微笑みのしわが深くなる。

「私も、愛しているさ。おかえり、ナマエ」

こういうときに、私の本当の名前を呼ぶ酷い人なのだ。もうどこにもいけない。ナマエもヨルも、ここでしか生きることの出来ない卑しい存在なのだから。諦観の滲む微笑みを携えて、オーナーに一歩近づこうとする。

「待ってくれ。一体、どういうことなんだ」

しかし、それは叶わず、後ろからサンジさんに抱きしめられる。このまま振り返らずに別れられたらよかったのに、という思いながら、それでも最後にこうして煙草の香りに包まれることができた幸せで、心がぐちゃぐちゃになっていく。

「サンジさんといられて幸せでした。それこそ本当に夢みたいでした」

サンジさんの腕にそっと自分の手を重ねる。私は今一体どんな表情をしているのだろうか。泣いているのか、笑っているのか、それすらわからないのに、やけに冷静な自分もいる。

「だけど、私はいつも劣等感で死にそうだった」

重ねた手でゆっくりと私を抱きしめるその腕をほどく。そして、ゆっくりと振り向いて、さっきオーナが私を突き放したように、そっとその肩を押す。

「私は、この腐った島で生まれても、オーナーに拾ってもらえて、他の娼婦たちよりも豪華な生活をさせてもらった。だから、私は幸せなんだと思っていたのに……世界はもっと広くて、誰かと笑い合えることが当たり前で、好きな人と過ごせることが幸せなんだと知ってしまった」

サンジさんの表情を見つめたまま、ゆっくりと後ろ向きに歩く。この先にあるのは地獄だろう。ひどく静かな地獄だ。もしかしたらこの先には道なんてなくて、あるのはただの奈落だけかもしれない。それでもいい、それでもかまわないと思えてしまう。

「私は、間違いなく不幸だった。貴方たちに出会わなければ、私は私を不幸だなんて知らずにすんだのに。他人には世界がこんなに優しく映るんだって、鳥籠の中から恨めしく思うこともなかったのに」

こんなに生きていることを呪っても、自ら死ぬ勇気がない臆病者だから、このまま真っ逆さまに落ちて死ねたらいいのに。だけど、それも叶わないと知っているから、私は精一杯、惨めな娼婦らしく微笑むのだ。

「だから、私は、絶望を教えてくれた貴方に感謝している」

オーナーの隣で、そっと足を止める。その顔を見上げれば、あんなに苦しかったはずの呼吸が、随分と楽になる。水の中でしか呼吸が出来ない魚のように、私もまたこの人の隣でしか息が出来ないのかもしれない。
だって、そうなるように教え込まれてきた。

「絶望は……とても綺麗な色をしていたわ」
「ああ、だから今の君はとても綺麗だ」

闇の中へと歩き出そうとするオーナーの腕に手を絡めて、私もまた夜の中へと歩き出す。誰もいない鳥籠の扉ががちゃりと開く音が、どこからか聞こえてくる。胸元には、サンジさんからもらったペンダントが揺れている。
ああ、きっと、これだけが、私から彼への最後の未練となるんだろう。




愛部よりも優しく首を絞める