さざめく夜

「驚いたな、こんなとこにガキがいたとは」

突然祠の扉が打ち壊されて、暗い闇の中から現れたのは随分と派手で大きな男だった。目を奪われるような真紅。それを辿っていけば顔を覆う面妖な仮面。
祭壇の前で執り行っていた祈りを中断し、男に身体を向けて座り直した。

「私も驚きました。新しい信徒の方ですか?」
「はァ?……なるほど、こそこそしてるヤツらがいると思ったが、そういうことか」

嘲るように鼻で笑った男が、この古びた祠には似つかわしくなく絢爛な祭壇を睥睨する。男の纏う色香も雰囲気も、私が今まで見知ってきたものとは比べ物にならないほどに鮮やかで、その一挙一動に思わず見蕩れてしまいそうだった。

「悪ィな、お前の信徒とやらはみんな死んじまったよ」
「なるほど、どうりで誰も騒がないと思いました」

ギシギシと床板を軋ませながら私の目の前に立った男は愉快そうに口元を歪めた。男の入ってきた戸口からは、外に控えているはずの信徒たちの気配は感じられない。死んでしまった、というけれど、おそらくはこの男が殺したのだろう。そして、たぶん私も。

「……これから自分も殺されるっつーのに、随分と呑気なもんだな」

仮面で見えないものの、男はつまらなそうに瞳を細めたような気がした。洋袴から取り出した煙草に火をつけると、紫煙がくゆりと立ち上る。それをしばらく目で追ってから、ハタとそれが私への問いであることを思い出した。

「皆さん死んでしまったのでしょう? 私を必要とするものがいないのなら、私もまた要らぬというだけです」
「へェ、お前がここの教祖ってことか?」
「いえ、私はただの憑坐。この身に神を降ろす器にすぎません」

それは生まれてからずっと教えられ続けてきた言葉だ。この身は神に供物するためのもの。だから常に清廉で穢れを許してはならない。神の器として相応しくあるために、祈りと修練を積んできた。それだけが私の価値であるはずだった。
だけど今、そんな私を必要としてくれていた人はみな死に絶えてしまったという。それならばもう私がここに留まる理由もまた終えたということだろう。

殺されるのなら一思いにと目を瞑り首を差し出す。この男がどうやって外の者たちを殺したかは知らないけれど、一瞬で終わればいい。

「気に入らねェな」

だけど想像していた衝撃は訪れず、降ってきた声に閉じていた瞼を開けた。目の前で男は相も変わらずつまらなそうに煙をふかしている。

「ただの器だから、死ぬことも怖くねェってか」
「……ええ、恐怖も悲しみも、私のものではありませんので」

目尻を下げるように笑う。こんな状況でも笑える自分が意外だった。そもそも最後に笑ったのがいつだったかさえ思い出せないのに。死ぬ間際になって、押さえ込んでいた感情が坩堝の底から溢れ出すようで、ゆるりと弧を描く唇は制御が効かない。
そんな私を何も言わずにしばらく眺めていた男が煙草を床へと落とした。灰が散らばり、赤く燃えた炎が踏みにじられる。その仕草にいよいよかと再び瞳を閉じれば、慣れ親しんだ祠の暗闇が瞼の裏へと宿る。

しかし、襲われたのは痛みでも苦しみでもなく浮遊感だった。慌てて目を開ければ床板が真下に映り、ゆらゆらと手足は行き場なくさまよっている。突然宙に浮いた身体が、男の小脇に抱えられているせいだと理解するのにしばしの時間がかかった。

「……殺すのではなかったのですか?」
「あァ、殺す」

そう短く答えた男はそのまま祠の外へと出た。山奥の林立した木々の中、月影だけに照らされた夜の闇から生臭い血の匂いが立ち込めている。穢れた不浄の香り。思わず顔を顰める私を見て、男が愉快そうに唇を歪めた。

「お前に楽しみも悲しみも教えて、その神ってもんの座から引きずり下ろしてからな」














祠の外から続く杣道そまみちを通れば山を下りられると知ってはいたけれど、実際にそこを通るのは初めてだった。山を下り、都に近づくほど空気に生活や人の息吹が色濃く残り、酸素こそ山よりも多いはずなのに上手く取り込めずに呼吸が苦しくなる。

「オイ、大丈夫か」

そう問いかけてきた男の声には気遣いの色など微塵もなかった。どう答えたものかと悩んだ末にゆっくりと首を振ると、その瞬間に小脇に抱えられていた身体がさらに持ち上がり、男の片腕に乗せられるような形に変わった。その不安定さに思わず男の首に手を回してしまう。そのまま顔を上げれば、明るく火の灯った提灯がゆらゆらと連なる様子が目に入る。さっきまでは耳をつんざく騒音だと思っていた音は、人の声となり言葉を織り成した。
──まるでこの瞬間に世界が創られたようだと思った。苦しかったはずの呼吸が急に楽になる。

「……ここが都」
「山を出るのは初めてか」

鮮やかな色の溢れる景色に目を奪われながら、こくりと頷けば、男は揶揄うように笑った。

「この国が謀略を尽くされ、おれたちによって踏みにじられ奪われた末に、なけなしの自由を掻き集めた場所だ。そして、そんな見せかけの自由すらお前には与えらるどころか、知ることさえ許されなかったってわけだ」

男が滔々と語った言葉の意味はほとんど理解できなかったが、都を見てどう思ったかと問われていることだけは理解することが出来た。
もう一度、都の様子をじっくりとまなこに映す。そうして、わずかに唇を開いた。

「……眩しいです」

男は何も答えなかった。かまびすしい町中でも、これだけ近くにいるのだから聞こえぬはずもない。だから、もっと話せと促されているのだろう。生まれて初めて見る色の海に溺れそうになりながら、息継ぎをするように言葉を探す。

「それから、色も匂いも強くて目眩がしそう」
「ハッ、すぐに慣れる」

仮面越しに男と目が合った気がした。そして、片方の口の端が吊り上げられていく。

「色のねェもんほど、染まるのも早いもんだ」

その言葉に真っ白な布が泥の中に落ちていく様を想像した。それは確かに簡単にその汚れに染まるだろう。のままの私の白もまた、何も知らぬまま溢れた色を受け入れるに違いない。

「私はこれからどうなるのですか?」
「まァ、とりあえずはうちで飼ってやる」

それはつまり、私が楽しみと悲しみを覚えて男に殺されるまでの間ということだろう。なぜ男がこんな気まぐれを起こしたのかは分からないけれど、楽しみとやらは簡単に覚えてしまうような気がした。今でも既に、この場所に充溢する多くが、あの祠での生活で穢れていると忌避されたものであるはずだと知りながら、胸が踊るように浮き足立ってしまっているのだ。

だけど、悲しみはどうだろう。祠の外で死んでいった人の束の中には、生まれてからずっと身の回りの世話をしてくれていた者たちもいたはずだ。それなのに、その死を悼む気持ちも生まれなければ、涙のひとつも流れない。心の中で悲しみのために与えられた場所があるのなら、私のそこは伽藍堂の欠陥品なのではないだろうか。

この男はそんなあるかも分からぬ悲しみを私に教えられるというのだろうか。
その時ふと、男が男がと胸の内で呼んできたことに疑問を覚えた。

「それなら、名を知らなければ不便な気がします」

これからしばしの間でも共に過ごすのであれば名を呼ぶ必要も出てくるだろう。信徒たちを呼んでいたときのように、ただ汝や其方などと呼ぶことをこの男は許さないような気がする。

「フーズ・フー」

突然降ってきた聞きなれぬ音の響きが、男の名前であることを理解するのにしばしの時間を要した。ふーず・ふー。心の中でその音を拙く反芻している間、男──フーズ様は挑発するように唇を歪めた。

「お前は? まさか名すら与えられてねェなんて言わねェよな」

ハタと言葉に詰まる。実のところ、今こうして問われるまで、自分が名乗らなくてはいけないことにさえ考えが至っていなかったのだ。祠ではいつも巫女様と呼ばれるばかりであったけど、フーズ様が私をそう呼ぶとも思えない。
困って目線を俯かせたとき、ふと記憶の奥底にひらめく何かを掴んだ。

「……なまえ、と」

長らく封じていた記憶がひもとかれていく。口にしてもまだ、それが自分のものだという実感は伴わない。だけどずっと昔、随分と優しい声で私にむかいその名を奏でる人がいた。

「母様だけは、私をそう呼んでおりました」

手繰る思い出すらまともにないはずの母様の姿を今なら思い描けそうな気がして、ぼうと宙を仰ぐ。視界の端でフーズ様の唇がゆるりと動くのを見た。

「──なまえ」

欠片を集めて結像しようとしていた母様の姿が再び散り散りに霧散する。その褪色した記憶の代わりに、彼の声によって呼ばれた名が鮮やかな色を帯びていくような気がした。フーズ様と同じ、唐紅の色。

「これでおれがお前の名を呼んだ二人目ってわけか。そして、これからは散々呼ばれることになる名だ。もっと自分のもんらしい顔をしとけ」

仮面によって覗くことの出来ないその瞳をじっと見つめれば、煩わしそうに顔を背けられた。心の中で覚えたばかりの彼の名と、初めて出会ったような気のする自分の名を繰り返し唱える。そうしているうちに肌にまとわりつくだけだった都の空気が、少しずつ私の内にまで馴染んでいく心地がした。




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