紅唇に光あれ

むせ返るような花の匂いがした。
爛熟した花の匂いは強すぎて目眩がする。そこでやっと、自分がやけに色鮮やかな花畑の中に立っていることに気がついた。
この世のすべての花を集めたような秩序を持たない極彩色。そこで咲き乱れる花々からは生気を感じない。まるで作り物のようだ。ただ美しいからいうだけで生み出された被造物。

「……此処は?」

どうして私がここにいるのかも思い出せず、どうにかして何かを考えようとすると頭痛を覚える。困り果てたまま、とにかく歩いてみようと思ったとき、足を踏み出しかけた地面の花がどろりと溶けた。
驚いて咄嗟に足を引く。溶けだした花は伝播し、どろどろと広がり、気がつけば川のように彼我を作り出していた。花でできた川。なんて夢のように美しい光景だろうと目を奪われる。濃すぎる花の匂いにやられたのか、あるいは毒でも潜んでいたのか、脳髄の奥が痺れ、思考に靄がかかっていく。

ここを渡ればいいのだと、不意に思った。艶美でありながら幽るようなこの地が、幽冥の境界だということは察している。だから、ここを渡ってしまえばどうなるのかということも。それでいて、渡ってしまえばいいのだという思いも止められない。この向こうは、苦しみも悲しみもない世界なのだ。もしかしたら、神様というものだって本当にいるのかもしれない。

そんなことを考えていたとき、川の橋に小さな小舟が繋がれているのが目にとまった。さっきまではなかったはずの小舟。その上に座る渡し守は顔には面布が付けられ、表情はわからない。それどころか性別も年齢もわからぬ曖昧な佇まいで櫂を手にこちらを見ている。
怪しいとも思わず、ここはそういう場所なのだと変に納得しながら自然と舟に足を向ける。

「川の向こうまで」
「はい」
「駄賃は?」
「いいえ」

こういう川を渡るには渡り賃が必要だと読んだことがあったけれど、必ずしもそういうわけでもないらしい。そう、と頷いてから舟に乗り込もうとすると、渡し守は立ち上がり手を差し伸べた。その手を取ると、冷たくつるりとした磁器のような手触りがする。

「渡ってしまえばもう戻ることはできません。お忘れ物はございませんか?」
「ええ、私は最初から、何も持ってなどいなかったのだから」

自嘲するように笑った私に、渡し守は何も言わず櫂を持った。私も黙って腰掛けようとしたとき、ひゅうと一陣の風が吹き抜ける。それが花々を揺らし、葉と葉の擦れる音が辺り一面に響き渡った。不思議と懐かしい気のする風の音だった。
その音に名を呼ばれたような気がして顔を上げると、光が充満し白しか見えない空から滴が降り注いできた。冷たく悲しい雨が頬に当たり流れ落ちる。まるで涙みたいだった。

「……お忘れ物があるようですね」
「え?」

わずかに微笑を含んだような渡し守の声。その声を遠い昔、まだ物心もつかぬような掠れた記憶の中で知っているような気がして振り返る。だけど、そこにはもう渡し守の姿はなかった。
それどころか確かに乗り込んだはずの舟も、花が溶けて出来上がったはずの川もなくなり、ここにはただ最初と同じ無数の花々の犇めく花畑があるだけだった。
驚きながら辺りを見渡して、ハタと気づく。この世のすべての花を掻き集めたようだと思ったこの場所に、あの日フーズ様に連れていってもらった花畑で見た赤い花だけがなかった。何よりも欲しかった、あの赤い色。

その時、また強い風が吹き抜ける。風に散った花びらが私を巻き込むように巻き上がって、咄嗟に強く瞼を閉じた。







▼ ▼ ▼








目を開けると、そこにあったのは見慣れた天井だった。見慣れた、といってもここを離れてもう一年近くが経つのだから、その表現が正しいのかは分からない。だけど、染みのひとつだって見間違うことのない、フーズ様のお屋敷の天井だ。
視線をずらすのに合わせて顔も背ければ、そこにはフーズ様が私を見下ろすようにして座っていた。驚いて声をあげようとすると、ずきりと脇腹に痛みが走る。うっ、と小さく呻き声を上げながら、その痛みに此処は夢ではないのだと実感する。

「……痛いです」
「そりゃそうだろうな」

絞り出した声は乾ききり掠れていて、それだけ長く寝ていたのだということが察せられる。少しずつ蘇る記憶は、あの宵闇の手前で途切れていて、どうして私が助かり此処に寝ていたのかを知る術にはならない。私を刺した男がどうなったのかと逡巡して、結局口を閉じる。そんなことは聞くまでもなく、私が生きているということが答えのすべてになるはずだった。

そんな私の考えを知ってか知らずか、フーズ様は傍らに置いてあった盆から水差しを手に取り、私の口元にあてがう。流れ込んでくる冷たい水が喉を潤す。与えられた水分に満足すると、今度はあのフーズ様がこんな献身をしてくれたことが急におかしくなって、ふふっと声を噛み殺しながら笑ってしまう。それに反応するように、フーズ様が不機嫌そうに唇を曲げる。

「何を勝手に死にかけてんだ」
「好きで死にかけたんじゃないですよ」

ここから追い出したのはフーズ様であるはずなのに、勝手になんて随分な言い草だ。だけど、それではまるで私のことを心配していたかのようにも聞こえてしまって、都合の良い期待をしてしまいそうになる自分を戒める。

気を逸らすように部屋の中を見渡すと、捨てられたと思っていた琴も三味線もそのまま置かれているのが目に入った。てっきりすぐに片付けられ、また空き部屋となるのだろうと思っていたかつての私の部屋が、何も変わらぬまま残されている。
そのうえ、琴の表面には埃のひとつもなく、滑らかな光沢を帯びている。面倒だからとそのままにされていたのではなく、きちんと手入れをされている、もう誰も住んでいないはずの部屋。何を言えばいいのか分からないまま、口を開くのを躊躇ってしまう。だって、こんなのまるで夢のようだ。

夢、と心に思い浮かべたとき、今にも霧散しようとしていた爛漫の花畑の光景が甦った。おそらくはこの世のものではなかった彼岸を繋ぐ場所。私はたしかに黄泉へと向かう途中だったのだ。そして、その先には行けなかった。

「花の溶ける夢を、見たんです」
「夢?」
「綺麗な花畑があって、その中に立っているんです。すると、その花が溶けだして川になる。私は、そこを渡りたかった」

言葉にはしなかったけれど、フーズ様が息を飲んだ気配がした。そういうものを信じるとはあまり思えないけれど、その川を渡ろうとしたということが何を思わせるかということは知っているのだろう。

「風が吹いたんです。それが私を呼んでいるような気がして」

言葉を切ってフーズ様を見つめる。フーズ様と顔を合わせるのだって随分と久しぶりのことであるはずなのに、こうして話しをすることが当たり前のようにも感じる。遠く、隔たれてしまったと思っていた時間も距離も、そんなもの最初からなかったみたいに解けていく。

「だから、渡らせてもらえませんでした」
「……そうか」

寝転がったまま、おどけるように笑って見せれば、存外にフーズ様の声が優しくて驚く。安堵にも近いような響き。それがどこか夢の中で吹いたあの風を思わせた。

「私の名前、呼びましたか?」
「……さァな」

閉じられた襖の向こうで霏々として降り続く雪の音がする。白銀に染まる世界。死にきれず此処へ戻ってきてしまった私は、これから何処へと向かうことになるのだろう。また、捨てられることになるのだろうか。
ほんの少しだけ、やはりあのまま渡っているべきだったのだという思いが胸を掠めて瞳を伏せる。瞼を閉じれば、そこに思い浮かぶのは極彩色の花弁の群生。

「とても綺麗な花畑だったんですよ。フーズ様にも見せたかったくらい」
「なら、見に行くか。そのうち」
「え?」

興味無いと一蹴されると思っていた言葉に思いがけない返事が返ってきて、驚いて目を見開く。

「だって……あの場所は」
「だから、そのうちだっつてんだろ。当分は後だ」

何度も何度も瞬きを繰り返しながら、フーズ様の言葉を反芻する。幽冥の地。黄泉へと続く川辺に咲き乱れる花の群れ。それを共に見てくれるというのは、それが遠い行く末の約束だというのなら、それではまるで──

「──ずっと、一緒にいてくれると言われているように聞こえます」
「……そう言ってんだ。勝手に死なれちゃかなわねェからな」

わずかに肩を竦めたフーズ様が、どこか揶揄うように、だけど安堵を滲ませて口元を歪めた。その仕草を見つめながら、喉の奥が熱を持ち、込み上げた涙が頬を伝う。言葉を理解するよりも先に、本能的に溢れ出す感情の奔流。
その止め方も分からないまま、だけどもっとフーズ様に近づきたくて身体を起こす。脇腹から突き上がるような痛みに顔を歪めると、小さくため息を吐き出したフーズ様が背を支えてくれる。

だけど、それではまだ足りない。追いすがるように手を伸ばせば、私の意図を察したのかフーズ様がわずかにたじろいだ。一瞬の逡巡、その末にフーズ様の顔がそっと寄せられる。そしてその最中さなかに、乱雑に取り払われる顔を覆っていた仮面。
フーズ様の素顔が見たいと、そう告げたあの日、戻れなくなると曖昧に突き放された。言外に、私たちは同じ場所にはいられぬのだと隔絶された。それならば、今こうして私の前に晒された素顔は、フーズ様なりの共に生きるという覚悟になるのだろうか。あるいは、死を共にするという誓い。身勝手に一方的に突きつけあった願望ではなく、互いを繋ぎ合う契りになるのだろうか。

「──なまえ」

フーズ様の声で呼ばれた名が色を帯びる。何度も何度も多くの人に呼ばれ、もう間違うことなく自分のものだと胸を張って言える名が、どうしてフーズ様に呼ばれたというだけでこんなにも特別な音になるのだろう。

いつも見つめてきた、ただ無機質に光を反射するだけの仮面の瞳。その向こう側の濡れた眼球。そこに今、私が映っている。なんて、なんて情けない顔なのだろう。それでいて、なんて幸せに満ちている。
伸ばした手が触れる頬。そして、そっと寄せられた眦。そこに、ゆるやかに口付けを落とした。庭の木々の梢から雪の落ちる音だけが、静かに世界を覆い尽くしていく。









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