縋る指先の温度

フーズ様が私を連れていったのは彼の住む屋敷だった。彼が帰るなり部下だという女性たちが私を見て、きゃあと明るい声を上げた。それを煩そうに払い除けたフーズ様が、その内の一人に私の部屋や必要なものを一通り揃えるように命じた。
そんなやり取りがなされている間、祠での生活で滅多にまみえることのなかった女性、しかもその胸や脚を露出した姿に些か物怖じし、私はじっとフーズ様の首に腕を回し身を固くしていた。

そうして与えられることとなった一室は、フーズ様は手狭な空き部屋と評していたけれど、私にとっては十分すぎるほど広く手入れの行き届いたものだった。勝手に出歩くなと釘を刺されたけれど、かといって見張りをつける気配もなかった。

三日ほどそうして部屋の中でぼんやりと苔むした岩の転がる庭を眺めたり、祝詞を詠んでみたりして過ごした。今さら祝詞を詠んだところで詮方無いことは重々に承知はしていたけれど、毎日こなしてきたことを突然に辞めるというのもまた落ち着かないような気がしたのだ。

だから今日も、運んできてもらった朝餉を食べてから祈りを捧げようかと思っていたとき、この屋敷に連れてこられて以来姿を見せることのなかったフーズ様が突然の来訪をしてみせたのだった。そして挨拶もそこそこに「都に行くぞ」と短く命じた。









昼前の太陽は空高くにあり、真上から燦々とその光を惜しみなく降り注いでいる。夜に見た時とはまるで雰囲気の違う昼の都は、明るく活気に溢れ、軒先に店を連ねる商店の店主たちが闊達な声で客寄せをしている。
見るものすべてが物珍しく、逸る胸を抑えきれぬまま、着物の裾を翻す勢いで、あちらこちらと店先の品を覗き込んでは感嘆の声をあげる。

「凄い! 下界はこんなにも栄えていたのですね」
「ハッ、同じことをこの国のヤツらに言ってみろ。女とはいえタダじゃ済まねェぞ」

私としては都の繁盛を讃えたつもりであったのに、タダじゃ済まないなどと穏便でないフーズ様の言葉に首を傾げる。後ろからついて歩いていたフーズ様は、振り返ったまま立っている私の目の前で足を止めた。

「本当にこの国の歴史を何も知らねェんだな」

フーズ様の口から吐き出された紫煙が高く空に上り、刷毛で薄く引き伸ばされた雲みたいに消えていった。私を見下ろすフーズ様の声は嘲りというよりも、憐れんでいるかのようにも聞こえる。

「この国で生まれ育っておきながら、おでんの名前を知らねェやつなんて、お前くらいだろうよ」

返答などもとより求めていなかったとでもいうようにフーズ様はすぐに私から目を逸らした。降り積もった言葉はやはり私には飲み込めず、だけど無かったことにはならずに、いつまでも私の中でわだかまっていくような気がした。
釈然としないまま顔を上げたとき、道端の店屋の床几台に腰掛ける人々を見てぎょっとした。皆、黒い汁を美味しそうに啜っているのだ。栄えているように見えたけれど、本当は泥をも食まねばならぬほど飢えていたということか。

「都の人間は泥まで食べていたのですね」
「は?」

私を置いて歩き出そうとしていたフーズ様の洋袴の裾を掴むと、怪訝そうに口元を歪めてから私の視線の先に目をやって、納得したように肩を竦めた。

「汁粉も知らねえのか」
「しるこ」
「そこに書いてんあんだろ」

顎で指された店ののぼり旗には黒字に白抜きで何かが記されていることは分かった。そうか、あれを「しるこ」と読み、それは泥ではないのだと理解し、一人で頷く。そんな私の反応を見ていたフーズ様が、仮面の下で僅かに瞠目したのが気配でわかった。

「待ってろ」

それだけ言い残すと、フーズ様はその大きな足で汁粉屋まで向かって行ってしまった。そして、店主から皆が持っているのと同じ椀をひとつ受け取って戻ってくる。
私のために購ってくれた、否、正確には店主を恫喝し奪い取ったというべき様子だったけれど、とにかくフーズ様の予想外の施しに戸惑ってしまう。そんな私に痺れを切らしたのか、フーズ様は乱暴に椀を押し付け、空いている床几台に座れと命じた。

「フーズ様の分は?」
「おれは要らねェ」

言われた通りに赤い布の引かれたそこに座れば、フーズ様はそれ以上何も言わず傍らに立ったまま新しい煙草に火をつけた。
両手に持った椀をじっと観察すると、遠目に見た時ほど泥のようには見えなかった。何かを濾しているのか滑らかな質感の黒檀色の液体に、白い餅が二つ沈んでいる。
そうして矯めつ眇めつ汁粉を検分してから、意を決して恐る恐る椀に口をつけた。そうして、口の中に流れ込んだ思いがけない味に目を見張る。

「……あまい」

今までに一度も口にしたことのないような甘味さ。驚きと感動の入り交じった気持ちをどう表現すればいいのか分からず、目線を汁粉とフーズ様の間で行ったり来たりさせる。フーズ様は一度だけ鼻で笑ったきり、あとはこちらに目をくれることもなく煙を吹かしたままだった。ゆっくり食えと、言外にそう言われているのだと勝手に理解し、私もあとは黙々と椀に向き合った。

「お前、もしかして文字が読めねェのか」

汁粉を平らげ床几台の端に置きやったのを見ると、フーズ様は二本目となっていた煙草を踏み消した。そして、私へと投げかけた借問。それにすぐに答えることは出来なかった。

先ののぼり旗の件で、私がそこに書かれた文字を読めぬことを悟られたのだろう。そして、それは事実である。だけど、やはりこの歳で文字も読めぬというのは物珍しいものであるのだろうか。ここへ来る道中でも、まだ年端もいかぬ童が店屋の品書きを見て母親へと駄々をこねる様子も見た。
そう思うと、目に一丁字ないことが恥ずかしいことなのだと急に思い知らされて、自然と声が下を向いてしまう。

「……文字は俗世と繋がるものだと、祠では教えられてきました」

ほとんど決まった人間としか関わることのない生活の中で、文字を扱えないことに特に不具合は生じていなかった。ただ、信徒たちが時折手にしている巻物や書物を通して、あの記号が文字というものだということはぼんやりと知っていた。

「神に祈りだなんだと捧げてんだろ、あれはどう覚えたんだ」
「祝詞はすべて口伝でした」

物心ついた折から、一日の殆どを祭壇の前で過ごした。覚えたはずの祝詞を間違えれば、手厳しい折檻を受けたこともあった。そうまでして覚えてきたものは、あの祠から外に出れば何の役にも立たぬもので、禁じられていた読み書きの方が余程価値のあるものであったのだ。

「文字を覚えてみてェと思うか?」
「……今さら、私に覚えることが出来るでしょうか?」

悄然とする私に気付いてか、フーズ様はおもむろにそう問いかけた。逡巡の後、そう返せば意地悪く口の端が吊り上がる。

「庭の蛙に話しかけてる時間がありゃ、覚えることも出来んだろ」

その言葉にかっと頬に熱が上った。確かに祝詞を詠むにも、ぼうとするにも飽きていたとき、庭の苔むした石の上に佇む蛙を見つけたことがあった。そして、名を尋ねたり、行方を問うたりしてはいたが、周りには誰もいなかったはずだ。
屋敷に連れてこられた日から一度も姿を見せなかったと思っていたけれど、もしかして私の様子を見に来たことがあったのだろうか。それとも部下の誰かから伝え聞いたのだろうか。

いくらその顔を見つめても真相を教えてくれる様子はなく、揶揄するように口元はニヤニヤと歪むばかり。諦めて素直に手習いをしたいと頷いてみせる。

「フーズ様のお名前にも、それを示す文字があるのでしょう? それを知りたいです」

そう言うとフーズ様は少しだけ意外そうに動きを止めた。そして私の斜向かいにしゃがみこむと手のひらを差し出される。何を要求されているのかと慮っていると、「手出せ」と指示された。言われた通りに右の手を差し出す。

「ちいせェ手だな」
「フーズ様が大きいのですよ」

私の手のひらにフーズ様の指先が重なる。指一本でいっぱいになってしまいそうなそこに、難儀そうに指を這わせるのは少しだけ愉快だった。無論、私にはやけにふにゃふにゃとした線がいくつも描かれているようにしか思えないけれど、これがフーズ様の名を成すのだと思うと特別なもののような気がしてくる。

「これでいいか」
「はい、満足です」

名はその人を表すと云うなら、今こうして手のひらに刻まれたこれもフーズ様の一断片とも言えるのだろうか。
手のひらに刻まれた感触を少しでも長く留めておきたくて、ぎゅっと指を握りこむと、ふわふわと水中を漂うように浮ついていた足が置き場を見つけたような気がした。





silent filmback