道徳のない夜

濃紺色の空の中を風に流されていた雲が漂う。その傍らに佇む今日の月は大きく穿たれ欠けている。その様子を何を思うでもなくぼんやりと眺めていたら、ぎしりと床板の軋む音が響いた。
縁側に腰掛けたまま、顔だけを音の鳴った方へと向ければ思っていた通りの人がそこには立っている。

「おかえりなさい、フーズ様」
「今夜は随分と夜更かしじゃねェか」
「フーズ様がいらっしゃらないかな、と思って待っていたのです」

二人で都へ出掛けたあの日から、フーズ様は毎日とはいわずとも時折、この部屋へと顔を見せて下さるようになった。そして日中には、手の空いたフーズ様の部下の方が私に文字の手習いをしてくれるようにもなった。
そのため日中は読み書きを習い、他の時間は、庭先だけなら出歩くことを許可されたので散歩をして過ごすことが多くなり、無聊を慰めるために祝詞を詠むことも随分と数を減らしていた。

「お隣をどうぞ」

立ち話だけで帰ってしまうこともあるけれど、今日は私からも話したいことがあったので隣に座ることを勧めれば、少しだけ面倒くさそうに溜め息を吐き出しながらも座ってくれた。
その時ふと、フーズ様の周りに漂う嗅ぎなれない匂いが鼻につく。饐えた肉と錆びた鉄、あの夜と同じ不浄の香り。

「……今日のフーズ様は臭いです」
「うるせェな、仕事帰りだ」

フーズ様自身に怪我をしている様子もなければ、その身体に返り血がついている様子もない。だからこれはあまりに濃度の濃い血溜まりの中にいたから、その匂いだけが染み付いてしまっているということなんだろう。
私を祠の外へと連れ出した日、フーズ様によって殺された信徒たち。今日のフーズ様はあの夜と同じだけの人間を殺めたのだろうか。それとも、もっと多くの人間がただの肉塊として屠られたのだろうか。

幾多の人間を無心に手にかけることの出来る人だということは十分に理解しているし、私自身もいずれはその手によって殺めるつもりだということを忘れたわけでもない。
だけど、私が今ここにいるのはこの手のおかげであって、それが余人の命を奪おうが救おうがどちらでも構わないのだ。もとより神の憑坐として祭壇に鎮座していた頃から、人を殺す善悪を説いた覚えもない。

そんなことをぼんやりと考えていたら、フーズ様はチッと舌を打って取り出した煙草を吸い始めた。それがまるで煙草の香を纏うことによって、血潮の匂いを誤魔化そうとしているように見えて、思わず口元を抑えて笑ってしまう。

そういえば文字の手習いを受けながら、フーズ様を「猫みたいでしょう?」と問われたことがあった。猫、と口に出して問い返しただけで、頷くことも首を振ることもしなかったけれど、内心では「そうだろうか?」と思っていた。
フーズ様はずっと人間らしいと思う。人を殺めることも生かすことも、それを選んで行うのは人間だけだ。だからそう、こうして生かされる以外の選択肢もなく、そしていつかその手で殺されることを待つ私の方がよほど猫らしい気さえする。

「それで、おれに何か用があったんだろう?」
「あ、そうそう! 今日はフーズ様にふみを書きましたよ」
「手紙?」

懐から今日したためた手紙を取り出し、フーズ様に渡す。それを受け取ったフーズ様は呆れたように鼻で笑った。

「読めねェよ」
「そうですか? 上手に書けていると思うのですが」

一緒になってフーズ様の手元を覗き込んで首を傾げる。確かにひょろひょろ頼りない文字が並んではいるけれど、最初の頃に比べたら随分と上達したといえるはずだ。フーズ様が本当に読めずにいるのか、意地悪で言っているのかは分からないけれど、仕方がないので声に出して読んでみせることにする。

「カニのパエリアを私も食べてみたいです、と書いてあります」

私が喋り始めると同時にフーズ様が笑ったので、おそらくは意地悪の方だったのだろう。拗ねて唇を尖らせて見せれば、馬鹿にしたように顎を上げて見下ろされる。

「どんなもんかも知らねェだろ」
「フーズ様のお好きなものだと聞きました。蟹は海にいる生き物で、パエリアは米を炒めたもの」

手習いを受けながら聞いたフーズ様の好物の話。蟹もパエリアというものも上手く想像出来てはいないけれど、話を聞いている限りとても美味しそうだったのだ。そのうえフーズ様の好物だというのだから気にならないはずがない。

「稗や粟しか食ったことのなかった細っこいガキが随分と舌が肥えたもんだな」
「この屋敷で食べるご飯はどれも美味しくて驚いています」

祠にいた頃の食事といえば、ただ胃に収めるべきものであってそこに味などは必要なかった。それがここに来てからというもの三食も用意される上に、そのどれもが彩りよく味もまた舌鼓を打たせてくるのである。
この屋敷に来た最初の頃は、運ばれてきた料理をどう食べたものかと頭を悩ませもしたけれど、今ではすっかり毎日の食事の時間が楽しみになっている。

そのおかげもあってか、自分の身体が以前よりも肉付きがよくなり血色も良くなっているのを感じる。殺されるためにここにいるのに可笑しな話である気もするけれど。

「でも、この国の人間の多くは満足に食べ物も得られないのだそうですね」
「へェ、やっとそこまで教わったのか」
「ここで美味しいご飯が食べるのは、ここが海賊の屋敷だからだって」

雲のかかった朧月を仰ぐ。視界の端で室内の行灯の焔がゆらゆら揺れて、照らされた障子が波打つように見える。仮面で隠されたフーズ様の瞳は、きっと面白いものでも見るように細められているのだろう。

この国の辿った凄惨な歴史を聞きながら、出会った日や都に出向いた日にフーズ様が口にし、私の中にわだかまっていた言葉が繋がっていった。謀略、背信、惨殺の上に、表面上だけの明るい都を作り上げ、そこで暮らす人々は心の内に慙愧の念を募らせているのだ。
そして、その都にすら入ることの出来なかったものたちはそんな見掛け倒しの繁栄にすらあやかれず、今日の食い物も手に入らねば、喉を潤すことさえ許されずに飢えて死んでいく。

フーズ様は私が己の無知を恥じ、不遇な人の子たちを憐れむと思っているのかもしれないけれど、そんな話を聞いても蓄積されていた所以の分からぬ言葉が知識と繋がり外へ放たれ、少し身軽になったな程度にしか感じることはなかった。

おそらく欠けているのだ。遡及する記憶のすべては祠の中で完結し、自分がこの国の人間であるという意識が希薄で、もっと言ってしまえば、そもそも己が人間であるという自覚さえ満足に出来ていないのかもしれない。私自身は神ではない、だけど神と繋がれるものとして育てられ、人間ともまた何か決定的に欠いてしまっている気がするのだ。

「フーズ様は海賊なのですよね」
「あァ。つっても、お前は海賊なんて知らねぇだろ」
「悪い人ということは覚えました」

この国の外にどこまでも広がる大きな海というものがあって、そこには姿形の異なる様々なものが住んでいる。そして、フーズ様たちもまたその外側からやってきた。海賊と呼ばれて暴力と奪略を尽くすものたち。

「フーズ様は悪い人なのですねぇ」
「ああ、すげぇ悪い人だ」

足を伸ばし間延びした声で呟けば、フーズ様は呵々と笑った。

「なら、その悪い人と一緒にいる私もまた、悪いものとなりますか?」

隣で笑っていたその顔を覗き込むようにして尋ねれば、珍しく言葉に詰まったように見えた。ほんの一瞬だけ、らしくもない逡巡。
夜空の雲が風に流され、再び月明かり射し込んでくる。フーズ様はまるでその明かりを避けるように顔を背け、すくと立ち上がった。そして一度だけ私を振り返り、ふっと鼻で笑った。



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