彷徨う感情

右を見ても左を見ても、終わりの見えない廊下が続いている。その真ん中でぽつんと立ちすくむのはなんて寂寞とした心地になることだろう。

「……本当に広い御屋敷」

ぽつり、と呟いた声は誰にも拾われず消えてゆき、寂しさを増すだけだった。
フーズ様の御屋敷も十分に広いけれど、それよりもずっと宏壮な建物。ここはカイドウ様の御屋敷。カイドウ様には会ったことはないけれど、その名前はもう何度も聞いていた。フーズ様の従う方で、この国を支配している大海賊。

そんな方の耳にまで私の存在が届いたのは、フーズ様がえらく入れ込んでいる娘がいるという噂のせいだった。その噂の真偽はともかくとして、フーズ様が最近連れ歩いている女、つまり私に興味を持たれて次の宴に連れてこいという運びになったらしい。
昨晩、私の部屋へとやってきたフーズ様は渋々といった様子で「明日は宴に連れてく」と言っただけで帰ってしまい、事の仔細についてはフーズ様の部下の方々から教えてもらった。

そうしてこの屋敷へと連れてこられた私が、どうしてこのようなことになっているのか。それはフーズ様が私のような小さな生き物を連れ回すことに慣れていなかったこと。そして、初めて都に連れていった私の姿を知っていながら、どこにも寄り道をせずに後ろをついてくるだなんて甘い考えを持っていたせいだ。

後ろをついてきていると思っていた私がいないことに、フーズ様はそろそろ気がついただろうか。それなら変にウロウロとせずこの場に留まっておくべきだろう。

そんなことを考えながら、回り灯篭の光に誘われるように障子の開いた室内を覗き込んでいると、背後から足音が聞こえてきた。フーズ様とは違う。聞きなれない二つの足音。
振り返ると、結ばれた金色の髪をゆらゆら揺らす恰幅のいい男と目が合った。

「ンー? お前は確か……」

顎に指を当てて私の顔をじっと見つめていた男の前に、隣を歩いていたおそらく部下と思われるもう一人の男が割り込む。

「オッ、新入りの遊女か?」

下賎な笑みを浮かべた不躾な視線。それを受けながら何と答えるべきか悩む。フーズ様の名前を出してもいいのだろうか。そして、出したところで私は自分をフーズ様にとっての何であると答えるつもりなのだろう。拾われ、飼われ、いずれ殺される。私はあの人にとって、一体。
そのとき、にやにやと舐めまわすように私を見ていた男の手がまっすぐに伸びてきた。避けようにも、いきなりのことに身体が動かない。

「──勝手に触んじゃねェ」

パン、と軽やかな音が響く。同時に、目の前の男の頭からおそらく体内の一部だったものが飛び出て壁を汚した。真っ赤な絵の具を撒き散らした斬新な絵画のような惨状。錆びた鉄の匂い。床に倒れ伏してしばらく痙攣していた男はやがて事切れた。
男の頭から流れ出た血潮が黒ずんだ赤い水溜まりを作って、あと少しで私の草履を汚そうとしたとき、ぐいと身体を引かれる。見上げれば、感情の読めないフーズ様の顔。

「おい、フーズ・フー! 人の部下になにしやがる!」
「この程度で死ぬようなやつ、いてもいなくても変わらねェだろ、クイーン」

クイーンと呼ばれた男がずんずんと身体を揺らしながらフーズ様を睨む。フーズ様よりさらに大きなその体躯の圧に押されて思わず身体が震える。そんな私を隠すようにフーズ様の手が肩に触れた。
その様子を見ていたクイーン様が今度は愉快そうに唇を歪ませる。

「ハーン、そうか。それがてめェのお気に入りとかいう……」
「うるせェ、さっさと消えろ」
「ムハハ! こりゃおもしれェもん見せてもらったぜ」

不機嫌そうに舌を打つフーズ様の隣を、大きな笑い声を響かせながらクイーン様が通り抜けていく。その姿を横目に見ながら、もう一度倒れ伏した男に目を向けた。

もう血は流れ尽くしたのか、端から黒く変色をはじめ固まりだしたいる。ぴくりとも動かない指。
フーズ様が人を殺すことはよく知っているつもりだったけれど、実際にその瞬間を目の当たりにするのは初めてだった。いずれ、私もこんなふうに殺され、そして捨てられるのだろう。今、私はただ生かされているだけなのだということを改めて実感したとき、視界を遮るようにフーズ様の手が目の前に現れた。

「オイ、そんな見てんじゃねェ」
「……大丈夫です。死体を見るのは初めてではないので」

狂死郎親分様の郭でも、親分様が手にかけた男を見たことがある。今はただ、フーズ様の手によって殺された男に自分を重ねていただけ。そこまでは言わなかったけれど、フーズ様も何か言おうとして躊躇ったように見えた。

「……血の匂いはあれだけ嫌がるくせに、死体はいいのか」
「血は穢れたものですが、死は違うでしょう? すべての生き物に与えられた摂理です。ただ今死ぬという運命だっただけのこと」
「お前を神として縋ってたヤツらが救われねェセリフだな」

嘲るようにフーズ様が鼻で笑う。
遠くではガヤガヤと騒ぐ声が聞こえてくるのに、今こうして私たちがいる場所だけがこの世から切り離されているように感じる。森閑としたあの祠の静けさ。それが今、影のように足元までやってきている。

「私は神ではなくて、神と繋がるものです。だけど、神だって人を救おうなんて思ってないですよ」

私の肩に触れたままのフーズ様の指がピクリと震えた。何か言われるのかと思ってしばらく待ったけれど、フーズ様が口を開くことはなかった。

「勝手に人が救われているだけなんです。祈ることや願うことで、神を希望にする。だけど信仰は期待ではない。有難い説教や生きる道筋を示して欲しいのなら、そんなもの修養した和尚にでも縋ればいいのです」
「……ハッ、本当に救われねェな」

救われない。
フーズ様の口からそんな言葉が発されたことが何とはなく不思議な気がした。客観的に私を信仰していた信徒たちのことを嘲っているのだろうけど、まるで救われたかったと言っているような響きに聞こえてしまった。神など信じてもいなそうなこの人も、一度くらい何かに縋ったことがあるのだろうか。
顔を上げてフーズ様の瞳を覗き込んでみるけど、光を反射するだけのそこには何の感情も見て取れなかった。諦めて視線をふいと庭に向ける。

「私にはむしろ、それが救いのように思えます」

吹雪くように降りつける雪が庭の潅木を白く染め上げる。その重みに耐えかねた梢から、どさり、と雪の塊が落ちた。
フーズ様は何も言わない。凍てつくように冷たい空気に溶ける私の声もまた、ひどく温度がない気がした。

「神が人を救うのだとしたら、救われなかったものはどうすればいいのか分からなくなってしまうでしょう? それならば、誰にもその手を伸ばさずにいた方がいい。平等に誰しもを救うことなんて出来ないのだから」

祠の中で祈りを捧げる日々。限られたものしか入ることの許されないその祠の扉の前で、幾人もの人間がこうべを垂れて跪いていた。彼らの中で、私の中に宿ることになる神はどれほどの救いとなれていたのだろう。

「だから、もしも祈っても救われないと思ったのならば、そんな神など捨ててしまえばいいのです」

ゆるりと弧を描いた唇でフーズ様を見上げる。ずっと引き結ばれていたその唇がわずかに開いた。

「……お前は」
「え?」
「お前は今、何でいるつもりだ。神ではないと言ってるくせに、随分と人間でもないような口ぶりじゃねェか」

吐き捨てるように投げかけられた言葉。私が何者なのか。かつては巫女であり憑坐であった。そうやって育てられた。いつかこの身に神を宿す存在。多くの信徒たちが私を崇めて奉った。そのために祈りを捧げてきた。
だけどそう、私自身が神なのではない。ならば、人間か。そうなのだろう。だけど、私自身が人の子であると意識はひどく靄がかかる。薄い膜で覆われているかのように。
祠での記憶が蘇っては消える。場面を変えて、何度も何度も。神様、巫女様、神様、神子様、憑坐様、かみさま──

「──なまえ」

ぐるぐると坩堝の中を彷徨ってた意識が現実に引き戻される。普段は、オイやお前で済まされるから、フーズ様から名前を呼ばれるのは久しぶりだった。
初めてその声で呼ばれた日と同じように、私の名前が鮮やかな紅を伴っていくような錯覚。自分のものらしい顔をしておけと言われたその名が、背骨のように不安定な心を支えていく。

「……フーズ、様」
「もういい、つまらねェ話は終わりだ。帰るぞ」
「でも、宴は……」
「気分じゃねェ」

そう短く呟い、てフーズ様は私を抱き上げる。片腕に乗せるように抱えられ、その襟にぎゅっと手を伸ばす。

「自分で歩けますよ?」
「……そう言っていなくなったのは誰だと思ってんだ」

不満と呆れをいり混ぜたような声。そういえば私は迷子の途中だったのだということを今やっと思い出した。

「迎えに来てくれて、ありがとうございます」

返事の代わりにフンと鼻を鳴らして、フーズ様が歩き始める。静かに伝わる振動とフーズ様の体温。高くなった視界からは、いつもより遠くが見渡せる。
私はかつて巫女であったとしても、今はただこの手の中で生かされているに過ぎない。そんな私はフーズ様にとって何であるのか。それが今の私の存在の名になるんじゃないかと思って聞いてみたい気もしたけど、それを決めたら何かが変わってしまう気がして言葉にはできなかった。








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