嬲りものの矜恃

郭で芸事の稽古を終えた後、今日はフーズ様がここを訪れる用事があるからと狂死郎親分様に声をかけられた。親分様とふたりきりの部屋で、用意してもらったお饅頭を口に運ぶ。そんな私の様子をお猪口を傾けながら親分様が見ていた。

「美味いか?」
「はい、とても」

射し込む西日に照らされながら呵々と笑う親分様はとても絵になるな、と思っていると、背後の襖が音を立てて開いた。部屋に入ってきたフーズ様が私の姿を見て不愉快そうに唇を曲げる。

「なんでコイツがいるんだ」
「なまえの話をするのだ。いて当然だろう?」

そうか、私の話をするのか、と他人事のように考えていると、チッと舌を打ったフーズ様が隣にあぐらをかいて座った。その衝撃で、湯のみに入ったお茶が大きく波を立て少しだけ畳を濡らす。
そんな私たちの様子を見ていた親分様はふうっと息をするように笑ってから、手に持っていたお猪口を置いた。

「頼まれていた先の件、なまえの信徒だという男を見つけた」
「え!」

驚いて声を上げたのは私だけだった。隣に座るフーズ様の表情は変化を見せない。頼まれていた、というのはフーズ様によってということだろうか。こちらを一瞥もしようとしないフーズ様は私の疑問に答える気など微塵もないようだった。
だから諦めて信徒だったという男について意識を向ける。よく考えてみれば、あの晩に祠に集いフーズ様に殺された者たちだけが信徒だったとは限らないのだ。たまたま難を逃れた信徒たち。あの晩から、私は自分がもう憑坐の巫女ではなくなったと思っていたけれど、その者たちにとっては私はまだ祈りの象徴であるのだろうか。

「なまえのいう神を身に宿す憑坐というのは、神を懐胎する、ということだな?」

親分様の視線が私へと向けられる。ぼう、と違うことを考えていたせいでスグには反応ができず、親分様の言葉をもう一度反芻し直す。
そして口を開こうとしたのと同時に、隣のフーズ様が「は?」と声を漏らした。そこに凝る苛立ちと戸惑い。フーズ様の視線が私に向けられて、私もまたそこを覗き込んで微笑みを浮かべてみせる。

「私の母様は神と交わって、私を孕んだのです。母様だけではなく、脈々と私たち憑坐の巫女の一族は皆、そうして神の血を受け入れてきたのです」

神と交わって、その子を孕んだ巫女の身体には神の力が宿る。だけど人の身体に神の神気は耐えきれず、子を産み落とすと同時に神の力はその身を離れてしまう。そして力を使い果たした故に短命となる。
だから母様は私が三つになる前に死んだ。だけど、神の血が流れる私もまた、この胎に神を宿すことができる。そうやって私たちは神の真言を受け継いできた。

「だから、神以外の血は穢れたもので、私たちはそれを避けなければいけない。清廉で浄化されたものでのみ、いずれ神に捧げるこの身を清めていたのです」

そこまで語ったところで、ぎりっとフーズ様が歯噛みをした音が響いた。隠す気もなく滲み出す苛立ち。それが私の話のせいだとは伝わるけれど、フーズ様が腹を立てる理由は思いつけなかった。

「……胸糞悪ィ」

低く地を這うような声音で吐き捨てて、フーズ様は取り出した煙草を乱暴にくわえた。

「その相手の神ってのはどこから現れんだ」
「……時が来れば、私の前に降りてくださると教えられてきました」
「そんなわけがあるか。何も知らねェ女を育てて、最後には抱いて孕ませて、新しいガキが生まれりゃ用済みってことか」

最後はもうほとんど独り言のように呟かれ、私の返事を求めてはいないようだったけれど、何か言わなければと言葉を探していたとき、かつん、と小さな音が響く。
視線を向ければ、狂死郎親分様が手に持っていた煙管の灰を落としながら私たちの方を見ていた。その細く切れ長の瞳がうっすらと開く。そのまなざしの冷たさ。

「だが、あの男は本当に巫女に宿る神を信じているようだったぞ。全てを知って我欲を満たしていたのはなまえの側近にあった一部のやつらだけだろう」
「ア? 何が言いてェ」
「お前こそ、何に怒っている?」

フーズ様の煙草の紫煙と狂死郎親分様の煙管の煙がくゆり、混ざり合う。その煙が室内の張り詰めた空気を曇らせ、鼻腔から体内に取り込まれて思考にすら靄をかける。
同じ空間にいながら、私とフーズ様たちの間には半透明の緞帳が下りているかのようにすら感じるまま、ただ瞳だけを開いてそちら側を見つめる。

「この国や民を蹂躙し尊厳を奪い去りながら、今さら世直しの善人気取りか? それとも、なまえだけが特別か?」
「オイ、あまり勝手なことを言ってんじゃねェぞ」
「前にもなまえをどうする気かと問うたことがあるはずだぞ。このままお前の都合のいいように育て上げる気ならば、なまえを祀りあげた男たちと何が違う? それとも、お前も本当になまえを自分好みの神にする気ではないだろう」

フーズ様の手が傍らに置いた刀へと伸び、苛立たしげにその鞘を叩く。たん、たん、と響く指先の音。狂死郎親分様の口にしたフーズ様好みの神という言葉が渦を巻きながら私の身体の奥深くへと落ちてゆく。
その神になれたなら、私はフーズ様を救うことが出来るのだろうか。救う。それは先日のカイドウ様の御屋敷でフーズ様へ感じた違和。フーズ様と出会ってから引っかかってきた物ごとが棘のように浮かんで現れる。
神になる。救う。そう為すことが出来たなら、フーズ様は私を必要とし続けてくれるだろうか。私は必要とされていたいのだろうか。どうして?

「まァ、いい。もしも手放す気になったのなら、いつでもその身は預かるぞ」

ここにある苛立ちも戸惑いも、全部見透かしたような声で笑って、狂死郎親分様は部屋を出ていった。その後には満開の花の香りが漂う。

その残り香が消えても、フーズ様は口を開いてはくれない。木枠に囲まれた窓の向こうは、もうすっかり宵の闇に包まれている。花の遊郭はとうに見世を開け、今日も一夜の華やかな夢を見に来た男たちを招き入れている。嬌声、哄笑、三味線や琴の音色、それに合わせた語り歌。
それがここまで届くのに、この部屋はいつまでも夢に落ちていってはくれない。張り詰めた糸がそこら中に散らばって身動きがとれない現世うつしよのまま。

「さっきの話、ずっと知ってたのか」

空気を震わせもしない、ただ落ちるだけの低い声。さっきの話、が何を指しているかは分かる。巫女にだけ許された神との契り。私の存在する理由。そしてそれは、フーズ様を不愉快にさせるものらしい。

「……はい。この身は神に捧げるもの。神を受け入れ、神の子を孕む神聖な器。そう教えられ、信徒たちにはそう語って参りました」
「語って、か。本当に悪趣味な連中だな」

フーズ様は咥えていた煙草を手に取ると、その先を畳に押し付けた。灰が散り、編まれたい草が黒く焼け焦げる。それを見て、親分様に怒られないかとこの場にそぐわない心配をしてしまう。ここにいる私と、それを俯瞰する私とが分離していくような感覚。
そのとき、フーズ様の瞳が私をとらえた。離れかけていた私と私が再びこの場に繋ぎ止められる。

「おれがお前を抱けば、お前はもう神を宿せなくなるんだな」

山奥に棲む、人を喰らう獣のようなまなざしの鋭さ。伸びてきたフーズ様の長い指先が、私の腹──その皮下の胎をなぞるように押し当てられる。
身体が竦み、吸い込んだままの呼吸の吐き出し方が分からなくなる。命を奪われることなど惜しくもないと思っていたのに、もう神と繋がるものでは在れなくなると思うと、怖くて仕方がなかった。

「……冗談だ。忘れろ」

フーズ様の声に顔を上げると、視界が滲んでいた。世界が揺らいでいることに驚いてすぐ、これが涙のせいなのだということに気づく。
記憶にある限り、初めての涙だ。だけど、これが涙であることは知っている。もう、そこまでの無知ではなくなってしまった。こうして多くを知った私は、もうとっくに神の憑坐でなどいられなくなっているのかもしれないと思わなかったわけではない。

だけど、ずっと気付かないふりをしてきた。本当は神などいないのだということも。だって、それを奪われてしまえば、私からはもう本当に何も残らなくなってしまう。

制御もできないまま頬を伝う涙は、思っていたよりもずっと不快で、乱暴に手の甲で拭う。視界の端でフーズ様が私に手を伸ばしかけて止めたのが見えた。
涙は悲しいときに流れるものだ。そうならば、私は今、悲しいのだろうか。悲しみや絶望。フーズ様はこれを、私に与えたかったのだろうか。






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