君に膝を折る幸福

「花が見たい」

朧に霞む月を見ながら、それが本当に自分の願いなのかも分からないまま口にした言葉に、フーズ様は何も答えはしなかった。だけど、私は明日、きっと花畑に行けるだろう。ゆらゆらと夜の色に溶け合うようにくゆる煙を見つめながら、そう思っていた。

そして私は今、目の前に広がる透明な湖水の前に立っている。湖の淵には色とりどりの花の群落があり、極彩色の有様だった。

「わあ」
「満足か?」
「はい、とても」

つまらなさそうに傍らに立っているフーズ様に微笑み返して、水辺にしゃがみこむ。その澄んだ水を掬するように手を差し込むと、ひやりとした冷たさが肌を刺して、それからしだいに馴染んでいった。
泳ぐ魚はいない。魚だけではなく、この場所に草花以外の生き物の気配は感じられなかった。今ここで、こんなにも生きているのは、私とフーズ様だけ。

そんなことをぼんやりと考えていたら、着物の袖を濡らしそうになって、慌てて手を引く。そしてそのまま、近くに生えていた真っ赤な花に視線を移す。ひらひらと風に靡く飾り紐のような花弁。つい、とそれに手を伸ばしかけたとき、フーズ様の刀の鞘が指先を遮った。

「それに触んな、毒がある」
「……毒」

こんなに美しいのに。そう思いながら、花弁に向けて伸ばしかけたままの指を所在なく彷徨わせる。すると、「こっちならいい」とため息混じりに呟いたフーズ様が片腕で私を抱き上げ、少し離れたところに群生していた小ぶりの花々の中心へと置いた。どうしても私が花を摘みたがっているように見えたのかもしれない。

だけど私が欲しかったのは、こんな淡く小さな花を稠密に咲かせることで無害を誇示するのではなく、凛と背筋を伸ばして空を仰ぎ、その花弁は誰にも触られないように毒を持つ、あの美しい花だった。

花を摘むことは諦めて、ふう、と息を吐きながらあたりを見遣る。この澄んだ湖とそこに流れ込む小川のせせらぎ。緑地に群生する花々は様々な形に色をつけ風に揺れる。夢のように美しく、だけどどこか茫洋とした場所。
この国で、こんなにも美しい光景が手付かずのまま残されているとは思えないから、おそらくはここも誰かの手によって管理されているのだろう。

美しいものを一度もその目にすることも出来ずに、その生涯を尽きる者がこの国には溢れかえっている。そう教えられ、この国の辿った凄惨な歴史も学んだ。しかし、実際にその光景を目の当たりにしたことはなく、そのせいでどこか絵空事のようにも思えてならない。

フーズ様の元に来てから、人間の欲望をすべて押し固めたような豪華さや絢爛さを知った。私が今こうして身につけている着物も、この国の末端の人間には端切れの一枚ですら手の届かないものに違いない。そして、鳥や魚をはじめとする多くの動物の命を食べた。

私の身体は、今とてもなまなましいせいの上にある。あの山奥に祀られていた頃の、もっと静謐で植物のようだった生の気配は、いつの間にかひどく私から離れた場所へと消えゆこうとしている。

「私の祠は、今、どうなっていますか?」

あの場所から連れ去られてから、祠の行く末について口にするのは初めてだった。祈る理由は失われ、もう用のない場所だと思っていた。
だけど、自分から捨てたと思っていたあの祠が、今はどうしようもなく懐かしく感じて、本当は私が置き去りにされただけなのではないかと思い始めていた。

何かもう取り返しのつかないくらい溢れ出してしまった奔流の湧き出す場所。そこにまだ私の面影が残っていることを確かめたかった。






▼ ▼ ▼







てっきり鼻で笑って断られるだろうと思っていたのに、フーズ様は花畑を離れたその脚で、あの祠へと私を連れていった。

杣道の伸びきった草は行く手を遮り、人の侵入を拒み続ける。フーズ様の腕に抱えられながら、そんな草木がフーズ様によって踏みにじられるのを眺めていた。
そして現れた目の前に建つ祠は、生まれてからずっと過ごしてきたはずの記憶の中の姿よりもずっと褪色している気がした。
錆び付いたり、朽ちたりするほどの時が流れたわけではない。だから、変わってしまったのは私の方なのだろう。

「どうする?」
「……中に入りたいです」

そう答えるとフーズ様は私を祠の入口へと降ろした。あたりを見渡してみたけれど、あの晩にここでフーズ様の手によって殺されたはずの信徒たちの亡骸は見つけられなかった。
誰かによって片付けられたのだろうか。あるいは、誰にも見つけられずに野生の獣たちによって食い荒らされたのか。そうだとすると、その残骸くらいはこの生い茂る草々の下に落ちているかもしれない。

その光景を想像しかけて、わざと目をそらすように振り返る。祠の中へと足を踏み入れようとしたとき、足元の床板に黒く沈んだ血痕を見つけた。思わず身体が竦む。
以前であれば迷いなく踏みつけることが出来たはずのそれを、どうしても踏むことが出来なかった。避けるように草履を運ぶ。そのことがひどく心の奥をざわつかせた。

フーズ様によって打ち壊されたままの扉を抜けて中に入る。荒らされた形跡もない祠の中は、あの晩からずっと時を止めているはずなのに、ここにあったはずの信仰も神秘もすっかり抜け落ちてしまっている。
かつては絢爛だとばかり思っていた祭壇も、外の世界を知った今では随分と陳腐なものだった。

祭壇の前に膝をつき、巫女であった私をなぞるように指を絡める。そこでハタと、何も言うべき言葉が出てこないことに気づいた。
もう長いこと祝詞を声にしていない。その間に、私は文字を覚え、多くの書物を翻読し、琴や三味線を弾けるようになった。新しい多くの知識や感性を取り込んで、古くなったものを忘れてしまった。口伝でのみ受け継がれてきた憑坐の巫女の祈祷は今ここで完全に途絶したのだ。

それが悲しいのかは分からない。どちらにしろ私はもう巫女には戻れないだろうから。そう、戻れない。ここにはもう、私の面影などなかった。ここはただの伽藍堂の祠にすぎない。

「どうした? ここに帰りたくなったか」
「いえ、ただ少し……二度と戻れない過去が寂しくなったのかもしれません」

たとえもし、この場に帰ることの出来る選択肢が残っていたとしても私はそれを選びはしなかっただろう。いずれ殺される時を待つまでの仮初に過ぎぬとしても、私はフーズ様の屋敷で過ごす時間が好きだったし、この祠を愛したことなんて一度もなかった。あの頃の私は愛なんて感情を知らなかったから。

小さく首を振って立ち上がる。フーズ様へと視線を向けると、仮面越しのその瞳と確かに目が合った気がした。そこでふと、この人にもそんな過去があるのだろうかと思った。

「フーズ様はどうして海賊になったのですか?」
「ア? なんだ、急に」
「いえ、私はフーズ様のことを何も知らないなと思って。この国にいる理由も、素顔を見せてくれない理由も」

この国の凄惨さを上手く想像できないのと同じで、海賊というものもおそらくは理解しきれていない。だけど、躊躇いなく人を殺し、その尊厳すらも蹂躙できる。そういう存在になるまでに、フーズ様が何を見て、何を聞いてきたのか。それが知りたかった。決して興味本位の気軽さではなくて、もっと奥深くまで繋がる重たい桎梏を持てるように。

黙って見つめ合う間、フーズ様は二度、何かを言いかけたように唇を震わせた。

「……やめとけ、聞いたら本当に戻れなくなるぞ」
「戻る?」
「あァ」
「おかしなことです。今さら私に戻る場所なんて何処にもないのに」

からっぽの祠。追放された神域。生き残っている信徒たちも、もう私を巫女とは呼ばないだろう。だからもう、私はどこにだって行ける。どこまでだって落ちていける。

そう思ったのに、フーズ様はそれ以上教えてくれる気配はなかった。代わりに目を合わせるように私の前にしゃがみこむ。それが、ひどく乱雑ではあるけど、少しだけ巫女の前で膝を折る姿のようにも見えた。

「いいか、悪も正義も突き詰めりゃ結局は同じもんになる」
「……悪と正義」
「それでもお前は、そのどちらでもねェ場所にいられるんだ。つまんねェが、まァ、お前の好きそうな綺麗な場所だ」

わざと抽象的にされているのであろう話は、上手くその首尾をつかめない。曖昧にかわされ、突き放されている。だけどそこには、隠しきれていない何か、とても大事なものがある気もする。

「……フーズ様は、そこに私がいて欲しいのですか」

つまらないけれど、綺麗な場所。自然と、先に行ったあの花畑が思い起こされる。薄ぼやけた人工の楽園。私には近づくことも触れることも許されなかった、毒を持つ真っ赤な花。

フーズ様はそれ以上何も答えず、すくと立ち上がってしまった。もうその表情の気配は読み取れない。

「どこにいても、フーズ様が私を殺してくれるのは変わらないのでしょう?」
「……そうだ」
「それなら、いいのです」

出会ったこの場でフーズ様に告げられた私を殺すという宣言は、いつの間にか契りごとのように私を貫いていた。神ではなくなった私は、いずれすぐこの手によって終わりを迎えることが出来る。どこにも行かず、暴力的な幸福の前でひれ伏すように。






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