慕情に幽す

久しく狂死郎親分様の郭での稽古には行っていない。もう行かなくていい、とフーズ様が言ったから。その代わりにフーズ様は日中にもよく私を連れ歩くようになった。屋敷の中も自由に歩き回っていいと言った。
屋敷の人は、そうしてフーズ様の後をつき歩く私を、巣立ちの練習をしている雛鳥みたいだと笑った。





月白の残る東の空を眺めながら、ふうと吐き出した息が白く染まる。それが呼吸をしていること、生きているということの形である気がして、どことなくバツの悪い気持ちになる。理由の分からない寂寞が、ぼんやりと胸の内に降り積もって、いてもたってもいられないような気がした。
そうして、雪は降っていないものの重い雲に覆われた空を眺めているうちに、ふと散歩に行こうと思い立つ。夜に出歩くことはあまりないけれど、屋敷の中であれば禁じられているわけではなかった。

部屋に戻って手燭の準備をしていると、からりと襖の開く音がする。顔を上げると、憮然とした表情のフーズ様が私を見下ろしていた。

「出かける気か?」
「少しだけ散歩に行こうかと」

そう告げれば、フーズ様は煩わしそうに溜め息を吐き出して私の隣へとしゃがみこんだ。それから「貸せ」と言って、私の手から手燭を奪い取る。洋袴から取り出された点火器で、簡単に蝋燭に火が点る。ゆらゆら揺れる炎に関心していると、フーズ様はまた私の方を見て唇をへの字に曲げる。

「それじゃ寒ィだろ。もっと厚着しとけ」
「……厚手の長襦袢は着てますよ」
「前に買ってやった羽織もあるだろ」

少し庭までのつもりだったから構わないと思っていたけれど、やはり寒いだろうか。大人しくフーズ様の言葉に従って、箪笥から仕立て上がったばかりの羽織を取り出す。臙脂色に麻の葉の幾何学の模様のこの反物は、フーズ様と共に選びに行ったものだった。
本当はもっと鮮やかな赤のものが欲しかったのだけど、フーズ様が「それを着て横に並ぶ気か」と嫌そうな顔で言うものだから妥協したのだ。それに袖を通して振り返ると、フーズ様は手燭を持って立っていた。それがまるで、私を待っているかのように見える。

「あら、フーズ様もご一緒に?」
「……一人で行く気だったのか?」

首を傾げた私を一瞥して、フーズ様は部屋を出た。その背中がさっさと着いてこいと語っていて、嬉しさに逸る心を抑えながら私も後を追った。







▼ ▼ ▼







新雪を踏みしめる音だけが空気を伝ってあたりに響く。夜空に昇る月は雲に隠れたきりで、その明かりは頼りない。フーズ様の持ってくれている手燭の灯りだけが道を照らし出し、なんとか自力でも歩いていられた。

「見ている分には綺麗ですけど、歩くには大変ですね」
「そんな短ェ脚じゃな」
「あら、失礼」

ちらりとこちらを見てクッと喉を奥を鳴らして笑ったフーズ様に、拗ねたふりをし唇を尖らせてみせる。確かに脚の長さの違いは否定できないとはいえ、暗闇にも雪にも取られることない軽やかな足取りの理由はそれだけではないだろう。

「フーズ様はやはり夜目が効くのですか?」
「まァな、お前がいなきゃこの明かりもいらねェくらいにはな」
「それは能力のおかげで?」

そう尋ねるとフーズ様は足を止め、怪訝そうに私を見つめた。私も隣に立ち、同じようにその瞳を見上げる。

「猫は夜でも目が見えると」
「……猫じゃねェって言ってんだろ」

期待通りの返事に満足してクスクスと笑ってしまう。フーズ様が悪魔の実というものの能力者であることは、部下の誰から聞いたのだったか。とにかく、それで強請っていたら、変身した姿も一度だけ見せてもらった。
本物の猫を私はまだ見たことがないけれど、まだ狂死郎親分様の郭に通っていた頃、猫の絵というものを見せてもらったことがある。フーズ様の変身した姿は猫とよく似た姿であった。

そんなことを思い出していると、ひょいと身体が宙に浮いた。遠くなる地面と、すぐそこにあるフーズ様の顔。不満を示すようにフーズ様に視線を向ければ、取り合う気などないというようにしっかりと抱え直される。

「歩きたいです」
「うるせェ、冷えてんだろ。大人しくしてろ」

確かに冷気にあてられた身体は芯から凍え、フーズ様の体温をなんとか吸い取ろうとしている。寒い、と感じるようになったのは、いつからだっただろう。
あの隙間風の吹き込む祠で過ごす夜も、そんな人間じみたことを思ったことはない気がする。随分と、感覚が鋭くなってしまった。身体も、心も。

薄い膜に覆われて、俗世と己を切り離すことが出来ていた頃とは明らかに変容している。それでありながら、フーズ様が私を殺そうとする素振りを見せない理由が分からずにいる。
あの日、フーズ様が言ったすべてを私は手に入れた。それでいて、あの刃は私の首を落とさない。穏やかで、たおやかな、まるで平和と錯覚しそうになる時に惑わされそうになるとき、あの約束の冷たい感触に引き戻される。

自分でも揺らぎゆく己の感情を、理解しきれなくなり始めていた。人の世に落ちてしまったこの身を、フーズ様の手によって終わらせられる。それを救いのように思いながら、フーズ様と共に過ごす時間がこのまま永遠に続けばいいとも願っている。このままでは死ぬことが怖くなりそうだった。そして、それが何より怖かった。



「オイ、降りろ」

しばらく私を抱きかかえたまま歩いたフーズ様が足を止めたのは、屋敷の庭にある東家の前だった。生簀の隣に建ったそこに私が足を下ろしたのを確認すると、フーズ様は据え置きの長椅子に座った。そのまま、取り出した煙草に火をつける。

「すぐに帰るからな」

こくりと頷いて生簀の前にしゃがみこむ。生簀といっても、その水は凍って雪に覆われてしまっている。周りを囲む丸石によって、なんとかここが何かの境目であることが分かるものの、うっかり誰かが乗っても、今自分の足の下には冷たい水が留まっていることにも気が付かないかもしれない。

「あっ」

強い風が東屋の間を吹き抜けて、フーズ様が傍らに置いていた手燭の灯りを消した。私たちの周りだけをぼうと照らしていた灯りがなくなると、色の濃い闇が流れ込んでくる。月明かりも届かぬ池の底も、こんなふうに何も見えないのだろうか。

「……点け直すから動くなよ」

フーズ様の咥えた煙草の火だけが、闇の中を泳ぐように浮いている。まだ目の慣れない私と、夜目の効くフーズ様には、見えている世界がまるで違うのだろう。そう思ったとき、ふと、それは今この瞬間に限った話ではないのだと気づいてしまった。

「ちょっとだけ、待ってください」
「ア?」

言いつけを破って歩みを進めた私に、フーズ様が身動ぎをした気配が伝わる。もしも何かに足が躓いたとしても、地面に転がる前にフーズ様の手が差し伸べられるのだろう。祠を出て都に降りてから、私の見てきた世界はずっと、そういう施しのもとにあった。
多くのことを知ったつもりになりながら、結局は何も見えていない。だけどそう、私が望むもの自体もまた、そうした盲目の世界なのだ。この手が与えてくれるもの、それだけを信じていたい。

フーズ様によって設えられ、施されたものだけで作った未熟な繭。私はそこで眠る幼体なのだ。羽化などしたくないのに、背中から生え出そうとする翅が疼いて仕方がない。外の世界に出て、その翅脈に陽の光を浴びてしまう前に、自由と不自由が隣合わせの空へと羽ばたいてしまう前に、どうかその手で火を放って欲しい。柔らかいものだけで作り上げたこの繭は、きっと、よく燃えるだろうから。

そうやって私を誘う蛍の光のような煙草の火を頼りに、フーズ様の前まで歩み寄る。そっとその膝に手を伸ばした。

「何がしてェんだよ」
「手を、出してください」

はぁ、と溜め息を吐き出しながらも、膝に乗せた私の手にはフーズ様の指が触れた。そこから搦め取るように手のひらへと指を這わせていく。そして、そっと指の腹を添わせる。

私の意図を察したからか、フーズ様が暗闇の中で息を飲むのが分かった。しだいに慣れてきた瞳は、少しずつ朧に世界の輪郭を捉え始める。
かつて都でフーズ様がそうしたように、今度は私が手の中へと文字を刻んでいく。あの頃は、そうして書かれた文字が、彼の名だということ以外分からなかったのに、今ではこんなにも自由に扱うことが出来るようになった。

そうして、したためているのはフーズ様に向けた恋文に他ならない。恋、あるいは、愛。フーズ様へと抱くこの想いが、そう呼ぶに相応しいものであることから、ずっと目を逸らしてきた。だけどもう、それも限界なのだ。フーズ様の前で涙を流したあの日から、加速度的に私は人間へと堕ちていってしまっている。
フーズ様が、私に与えようとした歓楽と悲哀。そのすべてを混ぜ合わせ、そしてそれ以上に激情と劣情に塗れたものが愛ならば、それを手にした私はもう、本当にただの人間だ。

「──ほら、これ以上に、私を殺すに適した時宜もございませぬでしょう?」

これがフーズ様の望んだことであるはずで、同時に私の夢の果てでもあるはずだった。そう思って笑って顔を上げたけれど、フーズ様が今どんな表情をしているのかは、闇に沈んで見ることが出来なかった。








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