雁が音の残響

「ここを出て行け」

部屋に入ってくるなり、フーズ様はそう言い放った。明瞭に一字一句を聞き取りながら、その文字の羅列が意味することが理解しきれず、読みかけの書物から呆然と顔を上げる。私を見下ろすフーズ様の表情は、変わらず仮面に覆われ見えないものの、ひどく冷たい視線を想像させた。

「狂死郎の口利きで、都で働けることになっている」

何かを言わなくては、と唇を震わせるも何ひとつとして声にならない。驚愕、戸惑い、困惑。それらすべてが入り混じったまま、動けない私をしばらく見つめていたフーズ様は、それから黙って背を向けた。
引き止めたいと思うのに、まるで声帯が凍りついてしまったかのように声が出ない。冷たい声と冷たい視線。絶対零度の冷気に晒されて、永久凍土にひとりきりで取り残されるような心地。

フーズ様と入れ違いに入ってきた部下の女性が、箪笥や戸棚から着物や簪などを荷造りしていく。私の手元に置かれたままだった読みかけの書物は、しばらく迷っていたようだけど閉じて風呂敷の中へと詰め込まれた。
小さな風呂敷ひとつに収まってしまう都での暮らしの支度。当然のように残された琴や三味線たちはこれからどうなるのだろう。すっかり私の部屋の様相をまとった室内が、また、ただの手狭な空き部屋に戻っていく様子を想像して、再び唇が戦慄いた。

「……フーズ様」

やっと声になった言葉は行き場もなく、ただ虚しく響くだけだった。この屋敷に来てから一番世話になったひとりである彼女は、そんな私の声を聞いて痛々しそうに顔を歪めた。彼女の瞳には今、私はどのように映っているのだろう。

いつか、ここでの日々にも終わりが来るのだと思っていた。だけどそれは、フーズ様の手によって私の命ごと終わらせてもらえる日のことだと信じていたのだ。それなのに、どうして私は明日からの命まで保証され、この屋敷から追い出されようとしているのだろう。何も持たずに殺されるために連れてこられた場所を、与えられたものたちの一掴みを抱えて生きながら追放される滑稽さ。

促されて、なんとか立ち上がる。よろよろと足を進めて部屋の敷居を跨いだとき、私はフーズ様から切り離されたのだということを自覚した。捨てられたのではなくて、置いていかれたのだ。

憎まれたのであれば、無惨に殺されていた。嫌われたのであれば、そのまま雪上に捨てられていた。だけど、そのどれでもなく、ただ要らなくなったから手放した。住む場所も働き口も、生きていくための居場所を整えて、だけどフーズ様はもう私とは関わらない。

身勝手だ、と熱を持った喉が叫びそうになる。だけど、私たちの関係が身勝手でなかったことなんて、最初からなかったのだ。
私を護る防壁でもあった祠に踏み入って、私を取り巻くすべてを蹴散らして、フーズ様は身勝手に私を外の世界へと連れ出した。私が楽しみと悲しみを知り、もう神を宿すような純真を失ってから殺してやると、そう宣って。けれど、フーズ様にとってその言葉は決して契約ではなかった。ただの気まぐれ。それを勝手な契りとして、あの手で殺されることを望んだのは、私の身勝手さだった。フーズ様は私に愛など教える気はなかったのに、私が勝手に、愛を知ってしまった。

あの夜、フーズ様の手のひらに想いをしたためてからの数日。返事は貰えぬものの、何も変わらぬ日々を過ごしてきた。フーズ様とは毎日顔を合わせていたし、交わした会話も何気ないものばかりであった。それでも、私たちの間には埋めきれぬ距離が空いていたのだ。私の知らないところで、フーズ様は着実に私を捨てる準備をしていた。

「……っ」

息を吸ったまま、吐き出すことが出来なくて苦しい。俯いたまま歩いていた視界が滲む。自分が泣いているのだと、そう気づくのに時間はかからなかった。涙を流すことも、もう初めてではないから。
だけど、フーズ様の前で涙を流したあの日とは違う。押し寄せる涙は熱く、怒涛のような勢いで流れ出す。喉の奥が燃えるように熱く、獣のように喚くことを我慢できない。

まるで、幼子のようだ。都で見かけた迷子の子供。置いていかれた子供と、今ここにいる自分の姿を重ね合わせる。子供と呼ぶには、かけ離れた己の姿。だけど、泣けば泣くほどに時間もまた流れ込んでくるような気がした。
母を呼ぶことも、甘えることも、涙を流すことすら禁じられ、祠に閉じ込められていた幼き日の時間が動き出す。それが、うねりのように私を巻き付け、このまま完全な人間になってしまうのだと悟った。









▼ ▼ ▼









暖簾の隙間から射した日差しが眩しくて、思わず瞼を閉じる。それから、ゆっくりと瞳を開ければ白けた光の先に映るのは見慣れた店の軒先だった。

「いらっしゃいませ」
「なまえ、いつもの二つ」
「はい、いつもありがとう」

最初こそ戸惑った仕事にはいつの間にか慣れ、今では誰に何を教わるでもなく店の仕事をこなすことが出来るようになっている。狂死郎親分様が私のために計らってくださったのは、親分様の郭に多くの菓子を卸す店だった。そこで、あのお屋敷にいるときほどの豪華さはなくとも、飢える心配はないまま今日も生きている。それが親分様の庇護であり、フーズ様の施しなのだ。

「みたらしのお団子、どうぞ」
「おう、これで今日の仕事の疲れも吹っ飛ぶよ」
「ふふ、おじさんにも伝えておきますね」

嬉しそうにお団子を頬張る男は、常連の大工の若衆のひとりで、近所に工房を構える親方が私と同じ年頃だからと連れてきてから何かと店に顔を出してくれている。
傍から見れば、微笑ましい都の一場面なのだろう。すっかり板に付いてきた菓子屋の娘としての生活。あの祠のことも、かの飛び六胞のひとりであるフーズ様の屋敷で暮らしていたことも、つゆ知らぬ人たち。

店主である老夫婦くらいは狂死郎親分様から、多少何かしらを聞いているのかもしれないが、はっきりと触れられたことはない。子供がいないという夫婦は、私のことを本当の娘のように可愛がってくれている。

ふと足元に目を移せば、少しよれた着物の裾が目に入った。フーズ様の御屋敷から持ってきた着物は、都の町娘として暮らすには些か豪奢すぎると親分様に預かられている。
初めてこの都に足を踏み入れたときは、あんなにも浮き足立っていたのに、今ではこんなにも自分の足で歩いている。

「そういや今日は、狂死郎一家の遊郭での仕事だったんだ」
「あら、そうなんですね」
「庇を少し直すだけだったんだが、親方がおれがこの店に通っている話をしたら、親分さんからなまえに今日顔を出すって言伝を頼まれたんだ」
「それはわざわざ、ありがとうございます」

この店の菓子が親分様の見世に卸しているからというのもあるけれど、親分様は折に触れて顔を見に来てくれることがある。そのせいで、私たちの関係を邪推する噂があることは知っているけれど、相手があの親分様となれば表立ってそれを口にするものはいない。
この都で生活の地盤を固めながら、フーズ様と過ごしたあの時間が夢や幻ではなかったことを約束してくれるものは、もう狂死郎親分様との繋がりしか残っていない。だから、親分様に目をかけてもらえることに安心に近い思いを抱いていることに、親分様もきっと気づいてはいるのだろう。それでいて、こうして会いに来てもらっている。
そんな考えが表情にも出ていたのか、団子を頬張っていた男は不満そうに眉を顰めた。

「……なァ、あまり親しくしすぎるなよ」
「え?」
「なまえにゃいい顔をしているが、あのオロチや海賊側の人間だぞ。そのうち痛い目を見るかもしれねェ」

声を押し殺すようにして囁かれた言葉に、一瞬瞠目してから、曖昧に笑って濁す。この都の元締とはいえ、親分様の周りにいる人たちが皆、その存在を快く思っているわけではない。これは芸事を習いに郭に通っていた頃には気付けなかったことだけど、こうして都の店に身を置いていると、親分様の前ではへらへらと追従しながら、その姿が見えなくなった途端に下賎な悪態を吐き捨てる者たちを何人も見たことで知った。

フーズ様の元ではどこか絵空事のように感じていたこの国の現実が、だんだんと見につまされて感じられたものとなっている。だけどそれでも、フーズ様によって用意されたこの場所にいるうちは、その残酷さが私の身に降りかかることはないのだと信じてしまう。

半透明の防壁。あの人によって与えられた繭はまだ、完全には破れきれずに、私を薄い膜で護ってくれている。この国を蹂躙し、こんな有様にした、その手の中にいる方が純度を保っていられる。人の命に手をかける血塗れた手で守られていた、その事実に思わず嘲るような笑みが浮かんでしまって、それをかき消すようにもっと大きな笑みで誤魔化した。

「……ご心配くださって、ありがとうございます」
「い、いや、いいんだ。なまえに何かあったら……おれも困るからよ」

駄賃だ、と数枚の硬貨を残して男が去っていく。その後ろ姿を見送ってから、皿の片付けをしようとすると、入れ違うようにして人の気配がした。顔を上げるまでもなく分かる空気の変化。

「親分様!」
「久しいな、なまえ。よくやっているか?」
「そう久しくもないじゃないですか」

声を弾ませながらクスクスと笑ってしまえば、声に気づいたのか厨房から店主が顔を出す。

「これは狂死郎親分様! いつもご贔屓くださりありがとうございます」
「なに、この店の菓子は都一だからな。さて、しばしなまえを借りてもいいか?」
「勿論にございます。ほら」

目配せに頷いて、手に持っていた空き皿を戻して親分様の隣へと立つ。顔を見せたついでに、親分様の散歩に付き合いながら近況の話をする。そんなふうにして都を歩いたことが、もう幾度もある。目を覚ました朝、そこにあるのがあの屋敷の天井ではないことにも、とうに驚かなくなっている。

それでも、私は今でも指先に残るフーズ様の体温に縋り、私の名を呼ぶ紅の鮮やかな声を何度も何度も思い出そうとしてしまう。この暖簾をくぐって、フーズ様が私を迎えにきてくれるのだと、そう夢見ることを止められないまま。








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