君の涙も汗も知っている


蛇口から流れ出す水をキュッと止める。軽く手についた水を弾いてからタオルで拭き取った。ついさっき食べ終わった食器も洗い終えたし、あとはお風呂も入ってしまおうか。
悩みながら時計を見ると二十時を少し過ぎたところだった。寿くんもそろそろ帰ってくる頃かもしれない。

そう思った瞬間、ガチャっと扉の開く音が玄関の方から聞こえて、あまりのタイミングの良さに笑ってしまう。

「おかえり」
「おー、ただいま」

廊下に顔を出すと、いつも背中に背負って出ていく大きなリュックから練習着だのなんだのを出している寿くんの姿がある。洗濯するものは、帰ってきてまず出す我が家のルールはちゃんと守られている。

「それ、私やっとくからいいよ。まだ温かいからご飯食べちゃいな」
「あー……いや、もう全部出したからいいわ。今日、メシは?」

洗面所の電気を消した寿くんがリュックを持って立ち上がる。そんな彼に向かって、したり顔でピースをしてみせる。

「煮込みハンバーグ」
「へえ、平日なのに珍しいな。今日も学校はあったんだろ?」
「職員会議もなかったから定時で帰れちゃった」

生徒たちは三者面談の時期で授業は午前しかないし、今年はクラスを持っていない私は割と早く帰れている。テストが近づくと残業三昧で、平日はまともなご飯を作れないので、今日くらいは頑張っておこうと思ったのである。

「なまえ」

リビングに入って、キッチンから寿くんの分のハンバーグとご飯を持ってこようとすると、不意に呼び止められた。

「あのよ、話したいことがある」
「……なに?」

帰ってきた時からどこかぎこちない寿くんの様子に、何か話があるのだろうとは予感していた。促されてダイニングテーブルの寿くんの向かいに座りながら、心臓は自然と足早になっていく。
一度大きく息を吐いた寿くんが、真剣な表情で私を見据えた。

「引退して、高校でバスケを教えようかと思う」
「え?」
「いつかはって考えたはいたんだ」
「それは分かるけど……今?」

大学でもバスケを続けた寿くんは、大学リーグでそれなりに名前を馳せはしたものの、Bリーグのチームから声がかかることは無かった。
その代わり、地域リーグでのチームを持っている会社から声がかかり、実業団チームのバスケ選手となった。今年で六年とちょっと。少しずつベテランの枠にはなりながらも、今も前線でチームを引っ張る寿くんに引退なんて、まだ早いはずだ。

驚きと戸惑いで困惑する私を気遣うように、寿くんの眉が下がる。

「安西先生が退職されるらしくて、オレにやってみないかって連絡があったんだ」
「安西先生が?でもそんな話、職員には全然……」
「すぐにってわけじゃないらしくて、もう一年は続けるからその間は二人で……」

今日も職員室で会ったはずの安西先生の顔を思い浮かべる。そんなことを考えていたなんて思いもしなかった。私にも一言くらい言ってくれてもよかったのに、と思いはするものの、こういう話は本人から聞くのがいいと考えてくれたこともわかる。ああ、違う。そんなことより──

「安西先生ってことは……」
「湘北でバスケが教えられる」

力強く頷いた寿くんの声に、もう覚悟は決まってるのだと分かってしまう。引退後、いずれは高校でバスケを教えたいという寿くんの考えは以前から知っていた。そのために大学では教員免許を取るために頑張っていたのもずっと見てきたのだから。
それを知っている私に言えることなんて、もう他にあるはずがなかった。

「寿くんのやりたいようにやったらいいよ。私は応援する」

嬉しそうな寿くんを見ながら、心が少しだけチクリと痛む。もうコートでバスケをする寿くんを見れなくなる寂しさもあるけど、この痛みはそれとは別のひどく自業自得な思い違いのせいだ。

大切な話をされると分かった時、そこに勝手な期待を乗せてしまった。二人で暮らし始めてそれなりの月日が経った部屋を眺める。二人分干された洗濯物も、使い慣れたソファも、あまりにも私の日常の一部として馴染み始めている。
これから新たな挑戦を始める寿くんを前に、少しだけ、本当に少しだけ、また婚期が遠のいたなと思ってしまった。
まだお互い二十八歳。そこまで結婚にこだわっているわけではないけれど、二人で重ねてきた十年の時間が、少しだけ私を焦らせる。





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