結局、物事をはかる基準はすべて愛なのだ。
愛があるから頑張れて、愛していようと耐えきれないことがあったなら、それは単に愛が足りなかったと判断される。愛という名のもとなら万能になれる殊勝な誰かの基準が重たくのしかかってきて身動きが取れない。
そんなことを夜中に呼び出しがかかって出て行った恋人の欠けるダブルベッドの上で朧気な朝日を浴びながら考える。寝返りを打ったって十分に広いこのスペースをどうやって飲み込むか。そうやって今日もまた愛の耐久力を試されている。
「……起きるか」
誰に言うでもなく口にしたのは何かきっかけがなければ思考から浮き上がれず、このままずっと沈みこんでしまいそうだったから。
セットしたアラームが鳴るより三十分早く出た寝室。その先のリビングに恋人はいないものの、共に過ごした時間が見ないフリできないほどに染み付いてしまっている。
ペタペタとフローリングの上を裸足で歩いてシンクの前に立つ。昨夜恋人の洗ってくれたグラスに蛇口から流れ出した水が溜まっていく。透明なグラスの中で消えていく小さな泡沫。それを一気に飲み干せば、胸の奥底にわだかまった行き場のない感情が少しだけ押し流される気がする。
こんな黒くてドロドロとしたものを流してしまうには、生温くてカルキまみれの水道水がちょうどいい。冷蔵庫に恋人が常備してくれているミネラルウォーターではあまりにも透明で綺麗すぎるから。
そんなことを考えながらぼーっとしていると、玄関でがちゃりと物音がして自然とグラスを持つ手に力がこもる。ふう、と息をついてから振り返れば少し機嫌の悪そうな恋人が顔を出した。
「あ、おかえり。早かったね」
「クソザコ敵だったわ。あんなもんで呼び出しやがって」
「あはは、お疲れ様。今日は休みでしょ? ゆっくり寝直しなよ」
返事の代わりにふんと鼻を鳴らして洗面所に向かっていった私の恋人、爆豪勝己はヒーローだ。それも今やトップレベルで活躍する、とびきりの。
そんな彼の背中を見送りながら自然とこぼれた笑みは決して無理をしているものじゃない。いつも通りの調子で彼が無事に帰ってきてくれたことを安心して、愛しいと思っている。
五年前、彼と出会って恋をしたあの日々から勝己に対する愛情は変わっていない。出会った時から勝己はすでにヒーローで、ヒーローの恋人となる覚悟を持って彼と付き合ったつもりだった。事実、勝己とのデートがヴィランの襲撃でなしになろうと、品のない週刊誌に私の知らない誰かとの熱愛報道が載っているのを見ても、多少は寂しさを感じるものの、それは決して傷ではなかった。
不安よりもずっと与えられる愛情が幸福で、勝己のそばにいられるだけでいいと本気で思えていた。それなのにどうしてか最近は勝己の隣いると上手く呼吸が出来なくなるときがある。
「おい!」
「え? あっ、ごめん……まだ寝ぼけてた」
突然近くで声が聞こえて驚いて顔を上げると、いつの間にか戻ってきたらしい勝己が怪訝そうに眉をひそめている。表情から察するに何度か声をかけられたあとなのだろう。誤魔化すようにへらりと笑えば、すうと伸びた勝己の指に頬を抓られる。
「ちょっと、痛い痛い」
「そんな痛くしてねぇわ。朝メシ作ったるから、さっさと目ェ覚ましてこい」
「わっ、勝己のご飯久しぶり! 最近は別々で食べること多かったもんね」
「おー、今日は夜も俺が作ってやるから腹空かして帰ってこいよ」
勝己の瞳が今度はひどく柔らかく細められる。それがどうしようもなく私のことを好きだって言っているような気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。無理やりに流し込んだモヤモヤの残滓が少しずつ浄化されていく。
「じゃあ、とりあえず顔洗ってメイクしてくる」
「おー」
私の頬から手を放し腕まくりをしてキッチンに立つ勝己を少しだけ見つめてから洗面所へと足を向ける。
勝己に愛されて、私も愛して、そうやって保ってきたバランス。百の幸せのために犠牲にするいくつかの我慢。パタンと洗面所のドアを閉めたままずるずる寄りかかる。
ポケットのスマホを開けば、手癖のように見てしまうニュースサイト。そのトップには昨晩の事件が大々的に掲載されて、ヒーローとは思えないほど不敵に笑うダイナマイトの写真がある。
指でそっとその写真をなぞっていると、さっき消えてなくなったばかりのはずのあの黒い澱のような感情が湧き上がってくる。
彼の熱愛を面白おかしく邪推するゴシップ誌なんかより、最近はこうして彼の勇姿を絶賛する記事がやけに心に刺さる。恋人として勝己の活躍を喜び、一番に褒め称えなければいけないと分かりながら、この写真に映るヒーローとしての勝己があまりにも遠くに感じて虚しさばかりが込み上げる。
ふいに目にする勝己の身体。そこに残る一生消えることのない傷痕たち。彼がどこでどうやってその傷を負ったのか、私はほとんど理由も知らない。
自分が映画や小説のヒロインならば、恋人のヒーローの活躍をうっとりと夢見心地に眺められたかもしれない。だけど、ヒーローとしての彼の前では私は守られるべき一市民でしかない。初対面の人間だろうと恋人だろうと命に貴賎はない。そして、それらすべてを守りたいと思うからヒーローなのだ。
分かっているし、別に一番に守られたいから勝己を愛したわけじゃない。彼がヒーローだと知っていながら恋をした。誰よりも強くありたいと願うひたむきさに憧れた。悪態をつきながらも誰かを守りに行くその背中が好きだった。
そして同じだけ、いや、それ以上に私にだけ向けられる特別な優しさも知っている。
それなのに、今まで歩いてきた道で急に迷子になるみたいに、どちらの足から踏み出せばいいのか分からなくなって歩き方を忘れてしまった。
耳を澄ませると扉の向こうからカツカツと包丁を扱う手際の良い音が聞こえてくる。疲れて帰ってきたはずなのに私のために作ってくれる朝ごはん。
軽く首を振って背筋を伸ばす。行き止まりでもないのに歩み出せない重たい足。勝己の隣を歩いていくことへの覚悟。これ以上そのことを考えていたら辿り着いてしまうだろう答えから逃げるように思考を止める。
△ ▼ △ ▼
蛇口から流れ出す水がシンクに重なるお皿に当たり水滴が跳ね上がる。勝己が作ってくれた晩ご飯を食べてから洗い物をするためにキッチンに立った。カウンター越しのリビングでは、付けっぱなしのニュース番組をソファに座りながら勝己が見ている。どこでどのヒーローが活躍したという日々のニュースの中で今映っているのはデクだ。
何気なく見ているように装いながら勝己の意識がしっかりテレビに向けられているのが後ろ姿からも伝わってきて、思わず声を潜めて笑ってしまう。
勝己の母校であるかの有名な雄英高校。その同級生のヒーローたちのことを何だかんだ勝己が気にかけているのは知っている。実際に会ったことがあるのは烈怒頼雄斗くらいのものだけど、みんな名のあるヒーローたちだ。
すごいな、と素直に感心しながら、さっきまで一緒に食事を取っていたはずの勝己の背中がまた遠くなったように感じる。
テレビの向こうのヒーローたち。彼らにもまた恋人はいるのだろうか。それは同じヒーローなんだろうか、それとも私みたいな一般市民の人間だろうか。そうだとしたら、その恋人たちはどんな思いで彼らの背中を見ているのだろう。
私だってヒーローになって隣に立ちたかったとか思っているわけではない。ヒーローになれるような派手な個性ではないけど気に入ってはいるし、そもそもヒーローを志そうと思ったことすらない。だから、こうして私をひたひたと支配しようとする黒い感情の正体は劣等感や嫉妬心ではない。ただ漠然とした行き場のない不安。その落とし所が見つけられない。
「あっ」
そんなことを考えながら洗い物をしていたせいか、水切りかごに入れようと持ち上げたお皿が手から滑り落ちてしまう。床に飛び散る破片、無機質な音。
「ご、ごめん」
「気ィつけろや」
慌てて散らばった破片を片付けをしようとすると、ソファから立ち上がってこっちに向かっていた勝己に手で制される。
「危ねェだろ。俺がやるからおまえはそれ続けてろ」
「……うん、ありがと」
しゃがみこんで割れた破片を拾い集める後頭部。柔らかなその髪に私は触れることを許されていて、日常のこんな些細な危険からも守られようとしている。
守られることが嫌なのではない。勝己が守る人であることが嫌なのでもない。それなのに、どうしてか今ここに私がいることも、これから先もずっと勝己の隣で生きていくということも、全部が重たくて仕方がないと思ってしまう。
「ねえ、別れよっか」
蛇口から水を流すような自然さで口から零れた言葉に勝己の赤い瞳が私に向けて見開かれた。
「は?」
勝己にしては少し間の抜けた表情。今、何を言われたのか素直に分からないと言いたげなその瞳から逃げるように目を伏せる。
当然、喧嘩をしていたわけではない。さっきまで何気ない会話をしながら食事を共にして、たった今だって私に対して優しく接した。そのタイミングで別れを切り出されるなんて誰が思うだろう。
自分で言っておいて何も今じゃなくてもと自嘲する。だけど発言を撤回するための言葉が浮かばない。凍りつたみたいに唇も声帯も震えなくて、それでいて少しだけ息がしやすくなってしまった。
「今の、本気で言ったんか」
「……うん」
だって、限界だと思ったのだ。表面張力でぎりぎりまで水を張ったような、あるいは、摩耗しきったグラスを無理やりに使い続けてきたような心が限界だと思ってしまった。
あと少しで崩壊してしまいそうな予兆を抱きながら、それでも今まで通りを装ってしたものが、手の中から滑り落ちたお皿が割れたこと、そして勝己の優しさに触れたことで、ついに壊れてしまった。水は溢れ出し、グラスは粉々だ。だけどもう、壊れることを恐れて気を擦り減らす必要はなくなった。
「先に、これ片す」
「……うん」
カチャカチャともう元には戻ることのない破片の重なり合う音を聞きながら、私もまた中途半端に残った洗い物を片づける。これから別れ話をしようとする緊張感と、今まで通りの日常の断片でしかない動作。その相反する境界でぼうとする頭で流れていく泡を見つめる。
すべての食器を洗い終えてリビングに戻れば、先に破片の片付けの終わった勝己がソファに座ったまま私を見つめてくる。その視線の強さに戸惑いながら、どこに座ろうか迷っていると「横でいいだろ」とすべて見透かしたみたいに勝己が呟いて、言われるがままに隣へ座る。いつもなら躊躇う必要もない私の定位置。
「……で?」
「別れたいな、って」
「だから、なんでたって聞いてんだよ」
洗い物を片付けながら勝己が思っていたよりもずっと冷静で落ち着いていたことに一人で驚いていた。別れたいなんて口にしたら彼ならもっと激高して大きな喧嘩になると思っていたのに、今目の前にいる勝己は詰問するというよりも、ただ私の話を聞いてくれようとしているように見える。
「勝己と一緒にいると、最近なんか息がしにくい」
「……なんで」
「勝己の彼女でいることと、ヒーローの彼女でいることが上手く折り合いが付けられなくて」
勝己の声に導かれるように胸の底で無理やりに押しとどめていた言葉が溢れ出す。たとえ心の中であったとしても、形にしてしまえば戻れなくなってしまうからと蓋をしてきた言葉たち。これ以上、傷を広げないように口を押さえつけてしまいたい衝動と、このまますべて吐き出してすっきりしてしまいたい本能。
「勝己はヒーローだから誰かのために戦うでしょ? 私はそれを本当に尊敬してるし好きだと思ってる。そして、そんな勝己のことをみんな褒めてくれてる。ちゃんと、それを嬉しいって思ってる」
気がつけば涙まで零れ始めて視界が滲む。ゆらゆらと揺れる視界の中で、私を見つめ続ける勝己の瞳の赤色だけがやけに鮮明だった。
「その一方で、勝己をヒーローじゃなくて恋人としか見れない私がいて、誰かのために好きな人が傷ついて、それなのにみんなが凄い凄いって口にすることに引き裂かれそうになる」
勝己の身体に無数に残る傷痕。それらはすべて誰かを守った証だ。目に見える形として、その腕に救いあげられた人がいる。そして、その結果として間接的に救われた人々がもっといる。私もまた、その大勢の中の一人である。勝己の恋人としてこの家で優しく守られる私と、一市民としてヒーローに守られる私が散り散りに分裂する錯覚。
「……それがね、苦しいの」
「そんなん……」
「分かってる。勝己の……ヒーローの恋人になるってことはそういうことだって分かってここにいたつもりだった。付き合う時に勝己に約束したとおり、覚悟してるつもりだったの」
好きになったのは勝己が先で、告白をしたのは私が先。返事の代わりに貰ったのは「俺と生きてく覚悟はあんのか」の問い掛けだった。それに頷いたのは私で、なんかどっちが告白したのか分からないねって笑ったのは二人だった。
あの瞬間、私は確かに無敵だった。その場の勢いで頷いたのでは決してない。好きな人がヒーローとして死地へだって駆けつけていく。背負わなくてはいけない不安が沢山ある。それでも、一緒にいたいと思った。
愛があればなんだって大丈夫。世界だって救えてしまうとさえ思っていたのは、まさに私だった。
「……だけど違った。私はその覚悟をなんとか持てただけで、持ち続けることが出来るわけじゃなかった。今は、重くて仕方ない」
ずっと膝の上で握りしめていた手を開くと、手のひらにうっすらと爪の跡がついていた。
勝己がくれる百の幸せ。それと引き換えの忍耐。だけどそれって、半分の幸せの代わりに何も我慢せずに生きていけることと、どちらが正解なんだろうって考えてしまった。
「ンなもん、重くて当たり前だろーが」
「え?」
「どんなもんだって、ずっと持ってりゃ腕も疲れてくる。そしたら素直に重てぇって言やいいんだよ」
肯定された言葉にすうと肩の力が抜ける。そんなこと言ってはいけないと思っていた。だってそれは私の愛を否定することになるから。愛があれば何だってできるって本気で思っていた無敵の私が無惨に消え去って、弱くて頼りない私になってしまうから。
勝己に悪い所なんて何もないのに、私の弱さのせいで振り回してしまった。それでも、精一杯に愛されたし、私も全力で愛してきた。だから、せめて今日までの時間が勝己の中でも無駄にならなかったらいいなって自分勝手な願いが胸をよぎる。
私は勝己の隣に立ち続けることができなかったけど、きっとその役目を貫き通してくれるもっと強い人がいる。だから、いつかテレビで勝己が私の知らない誰かと結ばれたことを知る日が来るだろうか。それを想像しただけで痛む胸のことは気付かないふりをして、私もまた勝己の瞳を見すえた。
「ごめん、ありがとう……お互い、ちゃんと幸せになろうね」
「ア? 何勝手に終わらせてんだ。重てぇって言っていいとは言ったが捨てていいとは言ってねぇだろ」
涙を堪えて不格好に微笑めば、眉間に皺を寄せた勝己が思いもよらないことを言うものだから言葉を失う。どう考えても円満なお別れへと向かうムードだったじゃないか。
「え? だって、じゃあ……どうしろって言うの? このままずっと疲れたとか重いとか言いながら過ごせって言うの? そんなの勝己だって嫌でしょ?」
「別れるよかそっちのが何倍もマシだわ。不満も文句もいくらでも言え。その代わり一回覚悟決めたからには最後まで責任持てや」
「なに、それ」
声が震える。言ってしまったら終わりで、元には戻れなくなるのだと思っていた言葉をぶつけたのに終わることなんて出来ないと言われている。決壊しきっていたはずの涙はすっかり引っ込んでいて、戸惑うまま視線を俯かせた時、勝己の手が私の手首を掴んだ。
「こっちは一生かけてなまえと生きてく覚悟してんだ。ちょっと重てぇくらいで捨てさせてたまるかよ」
毎日のように誰かを守る勝己の手と、何も守ることの出来ない私の手。うっすらと傷跡の残る骨ばった手と白く柔らかな手の対比。
「いいか。お前がどんなに怪我すんなって頼んでも約束は出来ねェ。死ぬなって泣かれても、こんな仕事してりゃ死ぬときゃ死ぬ。なまえのためにしてやりてぇことの半分もしてやれねぇと思う」
息継ぎのために吸い込んだ呼吸の音が悲鳴みたいに聞こえて、そっと顔を上げれば勝己の瞳が私を見つめている。それに射抜かれて、動けなくなる。
「それでも、おまえが俺のためにその重てぇもん抱えてくれんなら、それだけで避けれる傷も確かにあんだよ」
喉の奥がぎゅっと締め付けられて声にならなくて、なんとか開いた唇はわずかに震えただけだった。それでも全部伝わってるとでも言いたげに勝己が優しく微笑む。
「重くて仕方なくなったらお前ごと抱き上げて立ってやる。だから、何があっても捨てんな」
さっきよりもトーンの落ちた勝己の真剣な声に、一度だけ大きく頷く。そっと開いた手のひらからは、握りしめていたせいでついてしまった爪痕はもうすっかり消えていた。
「……なんか、プロポーズされてるみたい」
「は? それはそれで考えてんだよ、焦んな。大人しく待っとけ」
一緒に暮らしてきた中で勝己との将来を考えていないわけではなかった。今日のようなことがなければ当たり前に想像していた未来を、勝己もまた当たり前に願ってくれていたことが嬉しくて思わず笑ってしまう。
どんなに重くても苦しくても、逃げることは許してくれない。逃がして楽になんてしてくれない。その代わり、そんな私ごと受け止めてくれるという。なんて横暴な愛だろう。そして、なんて優しい愛なんだろう。
「来週」
「ん?」
「新しい皿、買いに行くぞ」
手首を掴んだままだった勝己の指が滑るように私の指を搦めとる。左手の薬指。近い未来、逃げることの出来ない覚悟としてここに嵌る愛の証。それを想像しただけで花開くように溢れる幸福感。
あんなに重かったはずの心が、今は飛べそうなくらいに軽くて、また自分の足で立って歩いて行ける気がした。勝己の隣を生きる長い未来。いつかまた今日みたいにうずくまってしまう日も来るだろう。だけど、そのたびに勝己は私を抱き上げて無理やりにだって先へと進ませる。だって、ここにあるのは最強のヒーローの最高の愛なのだから。
逃げ道は塞がれた
back : top