恋と済ませるには激しすぎて、憧れと呼ぶにはおぼつかない。もう二年以上、そんな名前の付け方も分からない未完成な思いを抱えている。
たとえば、巷でよく謳われる「好きな人の幸せを願えるか」という問いかけにはもちろん頷く事ができるし、それに「好きな人の好きな人が自分じゃなくても?」と追い打ちをかけられたって、やっぱり何の躊躇いもなくイエスと大声で叫ぶだろう。嘘も偽りもなく、私は私の幸福である彼の幸せだけを願っている。
だからそう、今のこの状況は私にとってたまらなく許しがたい。
▽
空を見上げれば、昏い星が寄る辺なくぽつりぽつりと浮かんでいる。ちょうど私の見つめる虚空のど真ん中を、赤く点滅する飛行機がゆっくりと進んでいく。結ばれるべき星と星を断絶するみたいに真っ直ぐに。
「いい式でしたね」
「おー」
駅まで続く大通りを爆豪さんの隣に並んで歩く。道路を行き交う車のヘッドライトは通り沿いの店の窓ガラスに反射しては明滅を繰り返す。そこに映った私たちはスーツとドレス姿の正装で、片手には引き出物の大きな紙袋を下げている。どこからどう見ても結婚式に参列した帰りだ。
私たちを招待してくれたのはダイナマイト事務所御用達のサポート会社のコスチューム関連部の社員の女性だった。爆豪さんとは自分の事務所をかまえる前、つまりベストジーニストの事務所にいた頃からの付き合いになるらしい。
爆豪さんのコスチュームの改良や、彼女の会社の試作アイテムの批評の件で頻繁に事務所を訪ねてくるため、事務員として働いている私にとっても顔なじみ、むしろ姉のように慕う存在だった。
そんな彼女が、真っ白なウエディングドレスに身を包み、眩い光が降り注ぐチャペルでヴァージンロードを歩いてゆく姿を思い出す。
その美しさと神聖さに思わず涙ぐみながら、隣に立つ爆豪さんの横顔を何度も盗み見ていた。真っ直ぐに彼女を見つめる瞳。そこに素直じゃない祝福を湛えながら、ひっそりと奥底で揺れる淋しさの影。
「本当に、綺麗でした」
「……そうだな」
爆豪さんにしては珍しい素直な肯定。だけど、そのことに反応したりはしない。だって、爆豪さんは彼女のことが好きだった。その事実を、この事務所に入ってからずっと、爆豪さんに片想いをしている私だけが気付いている。
事務所に彼女が尋ねてくると、爆豪さんはいつだってテキトーに彼女をあしらうフリをしながら、その横顔はいつも彼女にだけの特別だった。事務所の私を始めとする誰に対するものとも、時おり顔を合わせる雄英時代の同級生に向けるものとも違う、彼女だけの表情。そこに滲む愛しさ。それに気づいたとき、私の心は沸き立った。
好きな人に自分ではない好きな人がいることを一般的には悲劇のように分類される。昔から、それを知ってはいるけど理解しきれなかった。
たとえば高校時代、当時付き合っていた彼氏から部活の後輩を好きになってしまったことを理由に別れを切り出されたとき、思わず素直に祝福を口にしてしまった。すると、彼から「俺のことなんて、たいして好きじゃなかったんだなと」軽蔑されて、去り際には淡白な女だと罵倒された。
私はちゃんと彼のことを本気で好きだったし、執着だってむしろ人よりもずっと強い方だと思っている。好きな人には絶対に幸せになって欲しいし、その幸せをずっと見ていたい。ただ、その幸せを与えるのが私でありたいという欲望が希薄なだけで。
「新郎さんも素敵な方でしたね。会社の先輩だって話には聞いてましたけど、実際に顔を見るのは初めてでした。爆豪さんは会ったことあるんですっけ?」
「何回か、打ち合わせであいつの会社行ったときに」
点滅していた信号が赤に変わる。ゆるやかに足を止めて薄闇の中で発光するライトを見つめた。慣れたように口にされたアイツという親しげな呼び方が、いつまでもねっとりと鼓膜に貼り付いている気がする。
好きな人に好きな人がいたって幸せならかまわないと本気で言えるとはいえ、願わくばその相手が私であればいいのにと思わないわけではない。それまでも思わないのであれば、それはもう恋ではなくて尊敬か憧憬だ。
私はちゃんと爆豪さんに恋をしているから、爆豪さんに好きになってもらえる彼女のことが羨ましかった。嫉み妬むような苛烈さではなく、もっと純粋な羨望。
「それにご飯もお酒も美味しかったし、私はもう大満足です。あっ、爆豪さんはあんまりお酒飲んでなかったですね」
「てめェがばかすか飲み過ぎなんだよ。潰れんじゃねぇかって冷や冷やしたわ」
「えー、流石にそれくらいの分別はありますよ」
へらっと笑って爆豪さんの顔を覗き込んだら、鼻で笑い返される。それからすぐに目を逸らされた。
きっと爆豪さんは飲みたくても飲むことが出来なかったんだろう。堪えているものが溢れ出してしまったら困るから。だから、今夜はこれから家に帰って一人でお酒を飲むのかもしれない。爆豪さんのことだからちゃんと加減をしながら、それでもいつもより少しだけ強いお酒を。そして、本当に少しだけ、泣いたりもするかもしれない。
そんな寂しい姿を想像したら、もう我慢できなかった。私の幸せである爆豪さん。その幸せに固執する私は当然、彼の不幸せに激しく反発する。
信号が青に変わって爆豪さんが歩き出す。私もその後を追って、横断歩道の真ん中で足を止めた。横を通り過ぎたトラックの振動が地面を伝って足の裏に響く。
急に立ち止まった私を不審そうに爆豪さんが振り返る。
「爆豪さんが好きなのは、私なんですよ」
「は?」
驚いたように見開かれた真っ赤な双眸が私を映す。突然立ち止まった私たちを、ヘッドフォンを耳に着けた大学生くらいの男の子が邪魔そうに避けて行った。
「爆豪さんが好きなのは私だから、失恋なんてしてないんです。今日はただのとってもおめでたい日なんですよ」
自分でも何を言っているのだろうとは思う。こんなことを言ったって何が変わるわけもなく、私が変に思われるだけなのに言わずにはいられなかった。爆豪さんが幸せじゃない現実なんて、ひとつ残らずなかったことになればいい。
強く唇を噛み締めたまま、祈るように爆豪さんを見つめる。その視線の先で、呆然と私を見つめていた瞳が細く歪んだ。
「……ああ、そうだったわ」
それは初めて見る、爆豪さんの痛々しいくらい寂しそうな笑みだった。
△ ▼ △ ▼
あれから私と爆豪さんはお付き合いを始めることになった。いや、正しくは始めることになった、らしい。そこに明確な言葉はなかったから。
ただ、次の日から業務連絡以外の私信が送られてくるようになって、仕事終わりに二人だけで食事に行くこともあった。薄々と私たちは恋人になったということなんだろうかと考えていたら、こっちに来たついでに顔を出しに来たという烈怒頼雄斗に爆豪さんから「付き合ったから」と紹介されて確信に変わった。
それから約一年半になろうとする私たちの交際は驚く程に順調だった。二人で食事に行った帰りに車の中でキスをして、次のデートでは爆豪さんが予約していたホテルで身体を重ねた。爆豪さんの誕生日には初めてふたりで一泊の旅行に行ったし、私の誕生日には好きだと前に話したことのあるブランドの新作のお財布をプレゼントしてもらった。互いの家にも行き来して、まるで本当に幸せな恋人同士みたいに過ごす。
そのすべてが幸せで幸せで、その幸福に浸るたびに悪いことをしている気持ちになる。
私はあの日、爆豪さんが失恋したのだという事実を認めたくなかった。あれを冗談だと笑い飛ばしてくれるならそれでよかった。だから、こうして爆豪さんと付き合えることになったというのは、とても奇跡的な幸せだった。
そう、私のための幸せ。
あの日、あんな始まり方じゃなければ、私は無邪気にこの幸せをふたりの幸せだと信じきっていたに違いない。だけど、この関係は私のワガママで始まってしまった。
爆豪さんの彼女への恋は報われることなく終わったけど、それはそれでひとつの恋の形であったはずだ。それにただ我慢ならなかったのは私だけだから。
最初こそ爆豪さんも胸に空いた穴を埋めるみたいに私の相手をしていたのに、しだいに彼の中にあの寂しさの影を見ることはなくなった。爆豪さんは彼女への未練を綺麗に断ち切ったのだと思うのに、私は今の関係を手放すことができない。そのたびに爆豪さんの不幸せが見たくなかったことをダシにして、ただ自分の幸せが欲しかっただけなんだと思い知らされる。
あんな始まりじゃなければ、爆豪さんが私のことを好きになってくれたと信じられた。あんな始まりじゃなければ、この恋が本物だと歌うように満たされた。あんな始まり方じゃなければ、これからのふたりをずっと夢みれた。
──だけど、あんな始まり方じゃなければ、そもそも始まることもなかったふたりだった。
「ごめん、俺から呼び出しといて遅れた」
突然降ってきた声にハタと顔を上げる。
そこにいた幼馴染の申し訳なさそうな顔に、今が駅前のカフェで彼を待っている最中だったことを思い出す。近くのテーブルに座っている学生らしきグループの話し声、厨房で食器の重なり合う音。それらの音がずっと続いていたはずなのに、たった今鳴り始めたように響く。
「大丈夫、ここ来る前にそっちで敵が暴れてるのニュースで見たから仕方なかったのは分かってるよ」
「いや、同じ業界だと理解早くて助かる」
向かいの席に座り、立てかけられたメニューを一瞥してから店員さんに声をかける彼。ふと自分の手元のカップに視線を落とす。席に案内されてすぐに頼んだはずのカフェオレは、一口も減ることのないまますっかり冷めきってしまっている。
「最近、忙しそうだね。ニュースでもよく見かける気がする」
「まあ、そっちのダイナマイトほどじゃないけど。それに、頑張らないといけないしね」
目の前で謙遜したように笑う幼馴染はヒーローだ。雄英ほどではないけど、まあまあ名の通った高校のヒーロー科を卒業し、地道にヒーロー活動を続けていた。私が就職活動でヒーロー事務所を意識したのも、そんな彼を知っていたからというのもあると思う。そうでもなければ、もっと無難に会社勤めを選んでいたと思う。
だから爆豪さんと出会えたことも、元をたどれば幼馴染の彼のおかげともいえるのかもしれない。それがいいのか悪いのか、今となっては分からないけれど。
「おばさんから聞いてると思うけど、俺、今度独立するんだ」
「うん、聞いた。結婚のことも。ほんと、おめでとう」
「ありがとう」
彼が独立し、長く付き合っていた恋人と結婚することを決めたと母から聞いたのは少し前に帰省したときだった。成長するにつれて頻繁に連絡を取ることはなくなったけど、今でも年に数回は顔を合わせる仲のいい幼馴染だった。結婚する恋人も二年ほど前に紹介してもらったことがあった。
だから、そんな彼の幸せな話を心から喜んで、今度お祝いしないとなと思っていたところで彼の方から少し会えないかと連絡が来たのだった。
「……で、このタイミングで呼び出したから、薄々は気づいてるかもしれないんだけど」
わずかに緊張した面持ち。一度言葉を切って運ばれてきたコーヒーに口をつけた彼が、静かに息を吸う。
「うちの事務所にきてくれないか」
確かにこういう話だろうということは察していた。だけど、実際に言われてみると思っていたよりずっと衝撃がデカかった。
「今の事務所って事務処理系はヒーローが関わらない方針で事務の人に一任でさ、その辺の処理がどうなってんのかあんまり知らなくて」
気恥ずかしそうな彼の表情。今、彼が籍を置いている事務所が多くのサイドキックを抱えるわりと大手で、そういうヒーローと事務員の完全な分業の姿勢なのは聞いたことがあった。ウチは爆豪さんが「てめェの仕事の後始末くらい、てめェでも出来るようにしとけや」という方針なので、基本は私が担当するものの手が回らなければ自分でやってもらえる。
どちらも善し悪しだとは思うけど、こうした幼馴染の姿を見ると、やっぱり爆豪さんは流石だなと思いたくなる。ザ・亭主関白! ってイメージなのに周りがよく見えていて、何でもそつなくこなす。
そんな爆豪さんのことを思い出していたら、つい仕事以外の彼のことまで頭に浮かんでしまって慌てて掻き消す。そんな私を見つめる幼馴染の表情はどこかバツが悪そうで、不思議に思って首をかしげれば、気まずそうに頬をかいた。
「だから、なまえみたいな経験者がいてくれたら心強いっていうか……しかもそれがダイナマイトの事務所の経験ってのがだいぶデカイ。ごめん、正直、おまえが幼馴染でラッキーって思った。この繋がり、全力で使おうって」
あまりに素直な告白に思わず面食らう。そして、そのまま笑ってしまう。そんなこと言わなくたっていいのに、言わずにはいられない人なのだ。
お人好しで正直者な正義漢。中学三年生のとき、彼が本気でヒーローを目指す道を進むと知ったとき、心の底から彼なら大丈夫だって思った。
私もそんな彼とヒーローごっこに興じた子どものころは、ヒーローになりたいと思っていた。成長にするにつれて私の方はその熱が冷めていったけど、今なら本当に目指していなくてよかったと思う。
だって、私は利己的で嘘つきな卑怯者だから。
爆豪さんと付き合ってから、好きな人の幸せが自分と共に歩く未来じゃなくたって祝福できると豪語していた信条がニセモノだったことを知ってしまった。
私は爆豪さんと一緒に幸せになりたい。他の誰かをもう好きになんてなって欲しくない。一方で時々、爆豪さんが今もまだ彼女のことが忘れられずにいたらいいのにと思う。そうしたら、私は私の想いも行動も、全部爆豪さんのためだと銘打って自分を正当化できるから。
黙ったままの私を不安げに見つめていた幼馴染がテーブルの上に置いた手を強く握りしめる。
「ダイナマイトの事務所ほどの手当は付けられないし、まだ俺なんて駆け出しだから迷惑かけることも多いと思う……でも力になって欲しい」
曇りのない、力強い声だった。そんなひたむきさを前にしてまで、自分のことばかり考えていることへの罪悪感。
伸びた背筋、毅然としたまなざし。それを見ていられなくて目を逸らす。
「……それって、今答えないとダメかな?」
「いや、そんなことないよ。あ、でも……来月までには答え欲しいかな」
「わかった。少し待って、ちゃんと考える」
彼の「ああ」という返事を聞いてから、冷めきったカフェオレに口をつける。最初から冷たかったのではなくて、徐々に温度を失っていった生ぬるさ。喉の奥にねっとりとまとわりつくミルクの後味。
このまま飲み切れる気もしなくて、もう残してしまおうかなと諦めてカップをソーサーに戻す。黒にも白にもなりきれない中途半端な液体がゆらゆら揺れる。
「なあ」
「ん?」
「……ここですぐ断られないってことは、少しは可能性があるってことでいいんだよな」
期待してしまっていること、そしてそれを隠そうとしていることまでもが結局滲み出してしまっている幼馴染の表情につい口元が緩む。どこまでも正直な人。そんな彼のもとでなら、私もまた真っ直ぐなあの道に戻れるだろうか。
笑い声で誤魔化して、彼からの問いかけにはイエスもノーも答えなかった。
back : top