「え、まだあの彼氏と別れてないの?」
二列に並んだテーブルの隅。ガヤガヤとざわめく個室の料理屋の一室で、半年ぶりのクラス会が開催されている。最初はみんなでワイワイと騒いでいたけど、宴も半ばに差し掛かれば、各テーブルでいくつかのグループが形成され始めていた。
いつものように女子たちで集まって、三杯目となるアルコールを傾ける。そして、ヒーローといったって、この歳になってくると話題の中心は恋愛ごとだ。自然と集まるみんなの視線から逃げるように俯いて、居心地の悪さを誤魔化すように割り箸の袋をくるくると丸めてみる。
「うーん、まあ……」
「絶対、別れた方がいいよ! いや、他人の彼氏を悪くいうのよくないのは分かってるけど、なまえちゃんの彼氏は流石にさぁ……」
二年前から付き合っている恋人の評価は、友人間で既に地の底へと落ちかけている。別に敢えて彼の愚痴を言ったりしたこともないのだけど、聞かれたことに正直に答えているうちに、こうして会うたびに別れを勧められるようになってしまった。
本気で私を心配してくれているのだと分かるお茶子の顔を見つめて、それから出来る限り柔らかく微笑む。
「まあ、でも悪い人じゃないんだよ」
「ろくでもない男と付き合ってる彼女の常套句だよ! それ!」
部屋中に響くお茶子の声。狙い通りの反応に肩を揺らして笑っていたら、テーブルの上に放置していたスマホが震え始める。しばらく続く振動に着信だと気づいて画面を覗くと、そこに表示された名前に思わず眉がぴくりと反応してしまう。
「あ、ごめん。ちょっと……」
私の表情に誰からの連絡か察したのか、みんなが何か言いたげに私に視線を向けたけど、それには気付かないふりをして部屋を出た。襖を閉めると途端にあの騒がしさが、ずるりと身体から抜け落ちてしまったような気がする。
そうして私を守る柔らかな繭を脱ぎ捨ててしまえば、クラスの誰の前でも見せることの出来ない、醜く卑屈な私が出てきてしまう。
「もしもし、どうかした?」
「どうかしたのはそっちだろ。なんで返信しないんだよ」
足早に店の外に出て、急いでスマホの通話ボタンを押すなり聞こえた苛立たしげな声。ため息混じりに、本来の高さをまるで感じさせない重く暗い雲の垂れ込む空を見上げる。
「ごめんごめん。今日はさ、雄英のときの同級生の集まりだったから」
「あ、そうなんだ。連絡ないから心配したけど、そういうことなら仕方ないね」
雄英と口にすれば、途端にがらりと変わる声色。恋人を好きにさせてあげる心の広い自分に酔い始めたことがあまりにも分かりやすく、電話越しにバレないように気をつけて薄く笑う。そしてもう一度だけ、思ってもいない謝罪を口にした。
私が彼と出会ったのは、事務所の一般スタッフの子に誘われた合コンで、「女性ヒーローが来るっていうと男の集まりがいいんですよぉ」という彼女の言葉通り、まさに私の肩書きに釣られてやってきた男だった。
「どう? 楽しんでる?」
「うん、楽しいよ。心配させてごめんね」
「こっちこそ水さしたみたいで悪かったな。言ってくれたら電話なんかしなかったのに」
「一昨日会ったときは一緒にいるの楽しくて、つい言うの忘れちゃった」
「なまえは意外と、そういううっかりしてることあるよね」
それを自分は許してあげているのだ、と言いたげな甘い笑い声。本当は伝えていたし、忘れてるのはそっちだろ、と心の中で悪態をつきながら、彼と一緒になって笑ってみせる。
だけど、仕方ない。一昨日の夜にこの話をしたとき、彼はスマホを片手にから返事だったし、その後も次の日も朝から任務だからと行為を断る私に「一晩くらいヤッたて何とかなるでしょ。鍛えてんだし」なんて平然と言ってのけていたのだから。
だからつまり、彼は実際のところ私のことなんて、そこまで好きではないのだ。彼が好きなのは、ヒーローと付き合っている俺、でしかない。
「それじゃあ、そろそろ戻らなきゃ」
「そうだね。でも、声が聞けてよかった。好きだよ」
「私も好き。ありがと」
躊躇いもなく押した赤いボタン。もう彼の声が聞こえなくなった画面の明かりをしばらく見つめる。向こうは今頃、さぞかし理想通りの自分に陶酔していることだろう。
そのとき、背後からざっと靴の底が擦れる音がして振り返った。
「気色悪ぃ声出してんじゃねぇぞ」
「爆豪……」
ズボンのポケットに手を突っ込みながら店から出てきた爆豪が、私に向けて舌打ちをする。実際、自分でも自覚のある余所行きの声を出していたので、それを指摘されたことに恥ずかしさで顔が熱くなる。
「それが毎回別れろって騒がれてる男かよ」
「あ、ごめん。うるさかったよね」
隣に並んだ爆豪が睨むように私を見下ろす。みんなすっかり出来上がっていたから聞かれていないと思っていたけど、やっぱりクラスの集まりでああいう話をするのはよくなかった。私の恋愛事情が筒抜けになっていたことに頭が痛くなりながら、素直に反省する。
近くの幹線道路を走る車の振動。店の外灯に照らされて、並んで伸びる私と爆豪の影。しばらく待っても何の反応もしない爆豪は、一体なぜ店の外に出てきたのだろう。タバコを吸ったりもしないはずだし、酔いを覚ます必要があるようにも見えない。
「えっと……私、中に戻るね」
気まずい沈黙と居心地の悪さに耐えられなくなって、店に向けて踵を返せば「おい」と低い声で呼び止められる。
「……ホントに別れねェのかよ」
振り返ってみても、爆豪は私の方を見てなんていなかった。だから視線をさ迷わせて、ふと足元で止める。店の中から漏れ出す光。そこにあと少し届かない影の中で立ち止まる爪先。
なんだかそれが可笑しくて笑ってみたけど、ひどく乾いた自嘲するような笑いになってしまった。だけどそのまま、通りを見つめる爆豪の横顔に視線を向ける。
「別れないよ」
あっさりとした色のない声。声を発した自覚はあるのに、それは知らない誰かのものみたいに感じた。
たとえ彼が私の肩書きだけを好きなのだとしても傷つかない。どんなに友人に心配されようと本気で別れようなんて考えない。だって、彼が自分が気持ちよくなるために私が必要なように、私も、私のために彼が必要だから。
愚かで浅はかな男。私は、彼のそんなところを何より愛している。私たちはお似合いのろくでなし同士だ。
△ ▼ △ ▼
ガラスの向こうを歩く散歩中のポメラニアン。その愛らしい後ろ姿に目を奪われていると、カツンと食器のぶつかる音がして我に返る。
顔を上げると、前の席に座った彼がコーヒーのカップをソーサーに置きながら得意げな顔をして笑っている。
「それでさ、部長が俺になんて言ったと思う?」
「えー、そうだな」
「この仕事は君じゃなきゃできないから、なんとか頼むよ! なんて言うんだ。困るよね」
自分で訊いておきながら、私に答えさせる間も与えない。相変わらずの薄っぺらい自慢話は今日も絶好調だ。
こうやって通り沿いのカフェで彼とデートをしていると、昨日はヒーローとして街でヴィランと戦っていたことの方が夢のような気がしてくる。
自分で選んで辿ってきたヒーローとしての道。それに対する後悔はない。だけど、毎日のように人を救う存在として活動し、命を削るような死闘を繰り返していると、ふと脳裏をよぎる。
──もしも、失敗したらどうなるだろう。私のせいで多くの人が死んで、私のせいで世界が危険にさらされる。
そんな日が来るんじゃないかって、時々どうしようもなく怖くなる。
そんなとき彼を見ていると、世界も人間も所詮こんなものかと思えてくる。みんな暇を持て余して、昨日と変わらない今日で息をして、明日と明後日の違いも分からず生きていく。
彼と愛し合ったあと、今日もこんなものを守ってあげたんだって、私は私を少しだけ褒めてあげたくなれた。
「頼られてて本当に凄い。こんな素敵な彼氏で、私は幸せ者だなぁ」
「そんなことないよ、買いかぶりすぎだって」
謙遜を装いながら隠しきれていない自信。
隣のテーブルを見ると、同じ歳くらいのカップルが何か話すこともなくお互いにスマホをいじっている。退屈そうな表情。彼らは何のために一緒にいるんだろうって一瞬考えて、そんなことを考えてしまったことに自嘲した。
誰も彼もが私と同じで恋に利益を求めているわけではないと知っているのに、それをつい忘れてしまいそうになる。
「あれ、ダイナマイトじゃない?」
窓の外を見る彼の視線の先を追うと、確かに道路を挟んだ向かいの歩道を爆豪が歩いていた。堂々とヒーローコスチューム姿で歩いているから、パトロールの最中なんだろう。
近づいてきた女子高生に絡まれているらしく、追い払おうと威嚇している。それがなぜが、さっき見たポメラニアンを思い出させて、声を押し殺して笑ってしまう。
そうしたら、爆豪がこっちを向いた。思わず息を飲む。距離があるから確実とはいえないけど、目が合ったような気がした。
「なまえって、確かダイナマイトと同期だったよね」
「あっ、うん。そうだよ」
「話してみたいんだけど、紹介とか出来ないの?」
「うーん、でもほら、向こうは仕事中だしさ」
私の動揺に気づきもしない彼が、あからさまに機嫌を悪くする。
「なんだよ、使えねぇな」
散々、自分の体裁ばかりを気にしているくせに、こういうことを平気で言えてしまう人なのだ。軽薄で、考え無しで、可愛い男。
そんなこと思っていることは気取られないように気をつけて、出来るだけ反省して見えるように眉を下げる。
「ごめんね。でもクラスメイトだっただけで、そこまで仲がいいわけじゃないから」
実際、爆豪との関わりはそこまで多かったわけじゃない。だから、この間は声をかけられて少し意外だった。卒業してから二人で言葉を交わすことなんて滅多になかった。でも、ひとつだけ、どうしようもなく忘れられない爆豪との思い出がある──
──雄英の三年生の夏、突然降り出した夕立に、どの科の生徒も玄関で雨足が弱まるのを待っていた。その中を傘を開いて歩み出ていく。強く降りつける雨粒が傘の中で大きな音を響かせる。
こういう強い雨の中を歩くのが好きだった。視界は雨で煙り、傘に遮られた私だけの世界が出来上がるような気がするから。
それなのに突然、がくんと傘が揺れて驚いて足を止める。
「おい、入れてけや」
「え、爆豪」
我が物顔で傘の中に入ってきたのは、わずかに髪や制服を濡らした爆豪だった。唖然とする私を他所に、爆豪は手の甲で額の雫を乱暴に拭う。そして、低いと文句をつけて私の手から傘の柄を奪った。
「夕立だし、待ってればスグに止むじゃん」
「あ? んな、ちんたら待ってられっかよ」
爆豪の背丈に合わせて傘の位置が高くなり、視界が広がる。相変わらず雨の勢いはおさまらず、道路は川のように水が流れていく。爆豪と相合傘をしていることになることに一瞬は焦ったけど、どうせ見ている人もいないのだからいいやとスグに諦めた。
「だいたい、いくら傘あるからって出ていくような天気じゃねぇだろ」
傘を打つ雨の音に混じって降ってきた爆豪の声。ただ寮に早く帰るための雨凌ぎの屋根にされたと思っていたのに、会話をする意思があったことに少し驚く。
「好きなんだよね。こういうすごい雨の中って、海の中を歩いている気分にならない?」
「なんねェよ」
「えー、爆豪は情緒がないなぁ」
肩を揺らして笑うと、思いがけず爆豪に触れてしまう。改めて意識すると、特別大きいわけでもない傘に二人で入るために私と爆豪の距離はかなり近い。おそらく、爆豪と出会ってから一番の至近距離。下から見上げる爆豪は普段の粗野な言動に似合わず端正な顔立ちをしているから、なんとなく緊張してしまう。
どぎまぎする心。その一方で、まだ出会ったばかりのような気がするのに、別れの季節も近づいているのだということを変に意識もしてしまった。
「なんか、もう三年なんだってびっくりするよね」
「別に」
「まあ、爆豪はそうだよね。ありがたいことに卒業後の事務所もほぼ決まって、無事にヒーローにはなれそうだけどさ……私は時々、目が眩みそうになる」
爆豪の赤い瞳が私を見る。それをしばらく見つめてから、私の方から逸らした。降り続く雨はまだ止みそうにない。
「何にンなこと感じんだよ」
「なんていうか、歩むべき道の真っ直ぐさ、みたいなものに」
たまに連絡をとるヒーロー科に進まなかった中学時代の同級生たちはみな、今は進路のことで頭を悩ませているのだという。
就職をするか、進学をするか。さらにその先で何を選ぶか。彼らの前に広がるのは途方もない広大な世界で、そこには無数の未来への選択肢が用意されている。
だけど、私の前にあるのは一本の真っ直ぐな道。その周りは奈落へと繋がる崖で、足が竦むことも許されないまま正義という重責を背負って歩かなくてはならない。別に今さらヒーローを目指したことを後悔したりはしないし、それでも憧れてしまうから今日まで来れたのだと思っている。
それでも時々、本当に時々、この崖の下が気になってしまう。飛び込む勇気もないまま、へっぴり腰で奈落を覗き込む臆病な自分。そんな自分が嫌いだった。
「爆豪はそんなこと、考えもしないんだろうね」
わざと明るく放った声に返事はなかった。傘を打つ雨の音。歩くたびに水が跳ねる。冷たいのに心地がいい。煙る視界の向こうに、私たちの寮の影が見え始めていた。
△ ▼ △ ▼
「じゃあ、おつかれさまでしたー!」
「ご協力ありがとうございました」
チームアップの要請を受けた事務所のヒーローたちに見送られながら外に出る。背負ったリュックと、手に持ったヒーローコスチュームを入れたアタッシュケースの重みが、仕事後の疲労感に加わる。
街灯には明かりがともり、薄暗くなり始めた空をほの明るく照らしている。
「おい、てめェこの前」
「あっ、爆豪がパトロールしてるときの話でしょ。やっぱ目合ってたよね」
一緒に事務所を出た爆豪に話しかけられる。まさか爆豪も呼ばれてるとは思わなかったけど、おかげで思っていたより早く片付いたので助かった。
「一緒にいたのが例のクソ男かよ」
「人の彼氏をクソってね……ろくでもない男ではあるけど、どうしようもない男ではないんだよ」
自慢も文句も多いけどちゃんと働いているし、イベントごとや記念日には贈り物もくれる。ただ、それがどれも私の趣味ではないし、ネットに載っている彼女への贈り物ランキングみたいなものを見たんだろうなというのが見え透いているだけで。そして、自分を優しく最高の彼氏だと思っていることが隠しきれてもいない。
「そんなやつのどこがいいんだよ」
「色々あるんだよ」
そんな彼の浅はかさを利用している私も、大概ろくでもないという自覚はある。だから、誰にも本当のことを話したりなんてしない。
だけど、別に彼に褒めてくれとねだっているわけじゃない。ただ自分で自分の頑張りに折り合いを見つけているだけ。それってみんながが言うほど悪いことなんだろうか。
「……帰んねえのかよ」
「あ、私? この近く、水族館あるんだって。それ見てから帰ろうかなって」
駅の方へ向かって歩き始めた爆豪の背中を見送っていたら、ふいに爆豪が振り返った。水族館のある、駅とは逆方向の道を指差すと、訝しむように眉をひそめられる。
「何時だと思ってんだよ。そろそろ閉館すんだろ」
「だから、いいんじゃん」
またね、と微笑もうとしたら、何故か不満そうな爆豪が踵を返して私の指さす方へと歩き始める。予想外の行動に爆豪も行くの? と尋ねたら、ふんと鼻を鳴らして返された。
よく状況も理解できないまま爆豪と並んで向かった水族館。受付で閉館時間の心配をしてくれるお姉さんに大丈夫と答えて二人分のチケットを買う。
歩いている人たちはみんな出口へと向かっていて、その波に逆らうように進んでいると、逆再生するフィルムの中に入り込んでしまったような気分になる。あるいは、私たちだけが時間の流れから弾かれてしまったような。
そうして大水槽に辿り着くと、周りには私たちしかいなくなっていた。悠々と泳ぐエイが目の前を横切っていく。見上げれば、水槽の上にはぐるぐると回遊する銀の魚の群れ。
静かで鮮やかな水中の世界。引き寄せられるように手を伸ばすと、透明なガラスに隔たれてしまう。
ふっと、息の漏れる音が聞こえて隣を見ると、爆豪が口の端を歪めて私を見ていた。不思議と嫌な感じのしない笑い方だった。
「そんなに好きかよ」
「好き。海の中にいるみたい」
すう、とガラスを撫でるように指を動かす。青白い光が水に揺れてゆらゆらと爆豪を照らしている。砂をひかれた底を這うように泳いでいた、少しブサイクな魚が泡を吐き出した。コポコポと小さな泡が水中に浮かび、弾けて消える。
「できることなら、海の中で暮らしたいな」
「不便だろ」
「爆豪はやっぱり情緒がない。夢もないよ」
「んなもん、いらねェんだよ」
心底面倒くさそうな表情がおかしくなって噴き出すように笑ってしまうと、爆豪が苛立たしげに舌打ちをする。だけど、それもやっぱりどこか柔らかな響きだった。
館内に閉館のアナウンスが流れ始める。目線だけで帰ろうかと告げて、二人で出口へと向かう。
低く響くポンプの機械音。水槽へと送り出されていく空気。この静かな時間を私たちだけが共有したのだと思っていた。
数日後、私と爆豪の熱愛記事がでることを知るまでは。
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