朝、事務所に来るなり呼び出された所長室で、呆れたような視線を浴びながら背中を丸める。机の上に置かれているのは、今日発売だという週刊誌の記事のコピー。そのタイトルは『ダイナマイト!夜の水族館でお忍びデート! 』と、無駄にコテコテとしたゴシック体で飾られている。
「では、あくまで友人として……ということでいいんだね」
「はい、現場が一緒だった帰りに寄っただけで、決して特別な関係ということは……」
「うん、分かった。じゃあ、何かあればウチからはそういう旨でコメント出すから。たぶん、彼の事務所からも同じような対応を取ってくれるはずだよ」
ありがとうございます、と深々と頭を下げながら、人気ヒーロー相手に迂闊な行動をしてしまったことを恥じ入る。
記事の中の写真は水槽を見つめる私たちで、わずかに横顔が見えている爆豪と違って、私は完全な後ろ姿だ。タイトルからも分かる通り、爆豪狙いの記事なんだろう。
相手がわからない方が話題になるとでも思われたのか、記事の中に私の名前も出てはいなかった。だけど、見る人が見れば分かってしまうだろう。
爆豪にも迷惑かけてしまったことを謝ったほうがいいかな、と思いつつ、でも勝手についてきたのは向こうなんだよな、と思っていたら、所長が何故か薄い笑みを浮かべていた。
「え、なんか笑われるような感じでしたっけ」
「いや……初めての熱愛記事で相手にダイナマイトを持ってくるとは。君もなかなかやるなぁ、と思って」
「ちょっと、からかわないでくださいよ! 結構反省してるんですから」
軽い謝罪を口にする所長を恨みがましく睨みながら、少しだけ心が軽くなっていくような気がした。
退勤後、更衣室で今日発売は避けられなかった記事についての反応を調べると、想像以上の話題となっていた。さすがのダイナマイト人気に舌を巻く。ショックを受けている女性ファンと、なぜか爆豪が恋愛をできていることを安心し喜ぶ母親みたいなコメントが多くを占めていた。だけど、中には相手を特定しようとする人たちもいるようで、そこに少数ながら私の名前もあがっていたことには驚いた。
念のため、今日はひとけの少ない時間を狙って退勤したつもりだけど、一応しばらくは気をつけたほうがいいかもしれない。そう思って事務所を出たところで、通りに佇む見慣れた人影に目を見張る。
「え、何してんの?」
「それはこっちのセリフだろ? なんだよ、これ」
こんなところにいるはずもない恋人。平日の今日は彼も仕事のはずで、退勤後そのまま来たのかスーツ姿で、彼の手には例の週刊誌が握られていた。一体いつから待っていたのか、手の中の記事はグシャグシャだ。
それを見ながら、こめかみのあたりが痛くなってくるのを感じる。深くため息を吐き出してから、なるべく優しい笑みを向ける。
「ああ……ちゃんと説明するから、ちょっと場所変えよう」
事務所の前で喧嘩なんてするわけにもいかず、かといって内容を考えると、どこか店に入ることも出来ない。互いの家も距離があるので、仕方なく選んだ人目のない路地裏。そこでことの経緯を丁寧に説明する。宥めるように話す私の声を聞きながら、彼はずっと落ち着かず爪をいじっていた。苛立っているときの彼の癖。
「だからさ、ダイナマイトとは本当に何もなくて、ただ任務後の流れでね」
「は? そんなこと信じると思ってんの。この前、自分でダイナマイトとは仲よくなんかないって言ってたよね? 仲よくもないのに、任務で顔を合わせたからって水族館なんか行くわけないだろ。どうせあの時からお前は浮気でもしてたんだろ?」
あのカフェでの会話。いつもは私の話したことなんて覚えてもいないくせに、こういうことは忘れないんだなと思ったら、ため息が出そうになって、視線を逸らして噛み殺す。
「……なんだよ、その目」
聞き慣れない彼の冷たい声に驚いて顔を上げる。さっきまで血走りながら、困惑と怒りを混ぜ合わせたように揺れていた彼の瞳が完全に据わっている。今まで何度も向き合ったことのある、何かしらのタガが外れてしまった人間の瞳。ヒーローとしての経験が警鐘を鳴らす。嫌な予感に背中を流れる冷たい汗。
落ち着かせるために呼んだ彼の名前は、「うるさい!」という叫びで掻き消された。
「前から思ってたけど、なまえって時々、そういう俺をバカにしたような目するよね」
「別に、バカになんて……」
爪を弄る彼の手の動きが、どんどん乱暴で速くなる。よく見ればわずかに血も滲み始めていた。
「ヒーロー様から見たら、俺みたいな、ただのサラリーマンがおまえのために尽くすのはさぞ滑稽だったろ? 二人で俺のことを笑ったりしてたんだろ?」
「ちょっと……」
我を忘れて荒げられる声。なんとか彼を宥めようとしたとき、彼の手が振り上げられた。それだけじゃない。変形する彼の右手。話にだけ聞いたことのあった彼の個性は、十分に攻撃性のあるものだったはずだ。そして当然、ヒーローとしての資格を持たない彼がこんな場所で個性を発動したらどうなるか──。
それは、ダメだ。
避けなければと思っていた思考が、止めなければに変わって、今度はその伝達が上手くいかなかったのか身体が動かない。今まで散々ヴィランとの戦闘でこんな場面を乗り越えてきたのに、そんな経験まるでなかったみたいに、振り下ろされる手を見つめて、目を見開いたまま立ち尽くすことしか出来ない。
「何やってんだよ」
諦めかけた瞬間、背後から現れて彼の右手を掴んだ人影。その姿を見て、肺の酸素が漏れ出すような音が喉からこぼれた。
「……爆豪」
手首を握る手に力がこもったのか、低く呻き声をあげた彼が個性を解除する。見慣れた線の細い腕が戻ってくる。
「あ、いや……違うんだ……俺は、ただ、こいつが……俺を、バカにするから……」
冷静になってきて自分のやったことの重大さを理解したのか、急激に青ざめた彼がしどろもどろな自己弁明を始める。だけど、そんな声、耳には入らなかった。爆豪の燃えるような赤い瞳。その奥の深い怒りの感情。そこから目を離すことができない。浅くなる呼吸で爆豪を見つめていると、その唇がゆっくりと開いた。
「もう一回言うぞ、何やってんだ」
それは爆豪の手の中でうなだれている彼ではなく、私へと向けられた低く冷たい声だった。
▽
警察署を出る頃には、もうとっくに日付も越えた真夜中だった。週の半ばで酔っ払いすらいない閑散とした通りを、会話もないまま爆豪の少し後ろをついて歩く。
あの後、私たちがヒーローである以上、彼を見逃すわけにはいかず、警察署へと連れていった。事情と状況を説明し、彼もひどく反省していることと、一応は被害者である私の懇願もあって、なんとか厳重注意という形でおさめることができた。そして、その間ずっと、爆豪を付き合わせてしまった。
「面倒なことに巻き込んで、ごめん」
初夏の生ぬるい風に掻き消されてしまいそうな力ない声。それに爆豪は歩みを止めて振り返った。
「自分のやったこと、分かってんのか」
震えてしまいそうなほど研ぎ澄まされた声と、瞳の奥の怒り。それを見ていられなくて、唇を噛み締めて俯く。情けなさに押し潰されそうだった。
「こんなこと知れたら、てめェを信頼してきたやつらが、どう思うかくらい分かんだろ」
ヒーローが恋人と喧嘩。そして、それが原因で恋人の起こす傷害事件。世に知れ渡れば、さぞかしマスコミのネタになることだろう。
そうなれば、事務所にだって今回の爆豪との熱愛報道で笑ってくれた程度の迷惑では済まない。街を歩いていると声をかけてくれる、私を応援してくれる人たちにも失望されてしまうだろう。
だけど、一番はそれじゃない。
「そんで、あのクソ男を犯罪者にしかけたんだ。てめェが舐めた付き合いしてるせいでな」
あのとき、爆豪が来てくれなかったら、間違いなく私は彼から危害を受けていただろう。そうなってしまえば、注意で済むはずがなく彼は処罰を受けることを避けられなかった。彼を犯罪者にするところだった。その言葉が重くのしかかる。
自分の頑張りに折り合いをつけるために彼と付き合っている。それを悪いことなのかと考えてしまったことがあった。その結果が今の現状だ。
都合のいいことを並べながら、要するに私は、彼を浅はかだと馬鹿にするために付き合っていたのだ。そんなこと、していいわけがなかった。
俯いたまま何も言えない私をしばらく睨んでいた爆豪が、それ以上何も言わず立ち去っていく。後を追うこともできず、静かな道の真ん中で私だけが取り残された。
△ ▼ △ ▼
警察のお世話になった以上、事の次第を事務所に報告しないわけにもいかず、所長室で深く頭を下げながら所長からの厳しい言葉を受けた。事件となっていない以上、処分等をする気はないけど、ヒーローとしてあるまじき行動だったことを自覚すること。そして、ケジメとしての一週間の自宅謹慎が命じられた。
謹慎中、彼からは別れようとのメッセージだけが届き、分かったと送った返信に既読がつくことはなかった。
毎日を重苦しい気持ちで過ごし、気を抜くと頭を過ぎる、あの日の彼の姿にうなだれた。謹慎が明けるまであと数日。ケジメと言いつつ、これが私が気持ちの整理をするための時間であることも分かっていた。どうしたって考えずにはいられない、ヒーローを辞めるという選択肢。ひとりの人間の人生を破滅させかけたという事実を背負って、数日後からまたヒーローを名乗れる自信はとてもじゃないけどなかった。
その時、テーブルに置きっぱなしにしていたスマホが突然鳴り出して肩が跳ね上がる。慌てて画面を見ると、そこに表示されていた名前は爆豪だった。今、一番話したくない相手でもあるその名前に気が重くなりながら、無視をするわけにもいかず、スマホを耳にあてる。
「もしもし?」
「外」
「え、外って何、急に……」
唐突な意味のわからない内容に戸惑いながら、外という単語に反応して思わず窓の外を見下ろす。そして、言葉を失った。
アパートの前に止められた黒の乗用車。それに寄り掛かりながら、私の部屋を睨みつけるように見上げる爆豪の姿。
「ちょっと、何してんの? てか、なんでうちの住所……」
「うるせぇな、さっさと下りてこいや」
「いや、流石にまずいって……私、謹慎中だし、記事だって出たばっかだし……」
このままじゃ部屋まで乗り込んでこんばかりの形相に慌てて、わたわたと部屋の中を歩き回ってしまう。謹慎中に外出、それも相手が爆豪だなんて事務所にバレたらクビにされてもおかしくない。
さっきまでヒーローを続けられないかもしれないなんて思っていたくせに、いざクビをいう可能性が目の前に迫ると怖じけづく。
そんな私の考えお見通しだとでも言うように、爆豪が面倒臭そうなため息を吐いた。
「てめェんとこの事務所からは許可貰っとるわ、アホ」
「許可って……あと車、なんで?」
「さっさと乗れ。海行くぞ」
それだけ言うと爆豪は通話を切ってしまい、そのまま車に乗り込んでいった。アパートの前にあまり長く路上駐車なんてしていたら、大家さんからクレームは避けられない。電話をかけ直したところで爆豪が出てくれないのは目に見えていて、仕方なく覚悟を決めて部屋を出る準備をする。
外に出て助手席側の窓から中を覗き込むと、目だけでさっさの乗れと指図をされた。ここまで来てしまえば他に選択肢もなく、黙って隣に乗り込む。走り出した車は幹線道路へと出て、そのまま高速道路へと向かっていった。
車内で、所長がなんで許可を出したのか、どうして海なのかと色々尋ねたけど、そのどれもに爆豪からまともな返答は貰えなかった。
そうして車は本当に海へと辿り着いてしまう。
「うわ、海だ」
砂浜に下りると、靴底がわずかに砂に埋まる。目の前では大きな弧を描くように水平線が広がり、切れ切れに白い雲が漂う空を海鳥の鳴き声が響き渡る。なんで海に、なんて思ってはいたけど、どうしたってこの光景を目にすると多少は興奮せずにはいられなかった。
「でも、誰もいないね」
「まだ泳ぐには早ぇし、ここ釣りも出来ねぇらしい」
へえ、と返事をしながら私たちしかいない砂浜を見つめる。少し遠くの岩場まで続く砂地。吹き付ける潮風は生暖かいけれど、水温となると確かにまだ冷たいことだろう。広大な海の広さに思わず跳ね上がった興奮が、波が引いていくように冷めていく。
太陽の光を浴びて輝く水面が眩しすぎて見ていられなかった。あんな光り輝く場所に憧れていたはずだった。それなのに結局、狡くて臆病な私は他人を利用することでしか光を装えず、分厚いガラス越しにしか美しい世界に触れられなかった。
「おまえ、今スマホとか財布持ってか」
「え、そりゃ持ってきてるけど……」
「ちょっと渡せ」
カツアゲかよと思いつつも、有無を言わさぬ爆豪の表情におずおずと素直に従う。そうして私のスマホも財布も手に持った爆豪は、それを自分のポケットへとしまった。
もしかして一文無しで、誰とも連絡も取れないまま置き去りにしていくつもりだろうか。不安になって、それは流石にと口を開こうとしたとき、爆豪が私の背中を掴んだ。
驚いて爆豪の顔を見つめると、ヒーローやってるとは到底思えない不敵な笑み。
「しっかり落ちろよ。顔面からいくと痛ェぞ」
「嘘でしょ? ちょっと待って、爆豪?」
爆豪が何をやろうとしているのかなんて嫌でも分かってしまって、身体をよじって抵抗する。だけど、雄英の頃から分かりきっていた実力の差は埋めがたく、気がついたときには空にいた。
視界いっぱいの青空に圧倒される。そして浮遊感と共に世界は反転し、迫り来る海面。
なんとか体勢を直して足から着水しはしたものの、勢いのまま深い海中へと沈み込む。無数の水泡が視界を遮り、太陽の方向も分からない。落下の衝撃で開いてしまった口からは酸素が漏れだし、代わりに海水が流れ込んできたせいで苦しいし、しょっぱい。
それでもなんとか日頃の訓練の成果か、パニックに陥ることなく力を抜いて身体を浮き上がらせる。しだいに近づいて来る海面。水中から見上げる揺れる太陽。
「……っはぁ!」
顔を出すなり、思いっきり酸素を吸い込むために喘ぐ。涙の滲む目で岸を見ると、随分と沖まで投げ飛ばされたようだった。あの動作だけで人間ひとりをここまで飛ばせることには、悔しいことに流石と思ってしまう。
だけど、だからと言って、急に海へと投げられたことを許す理由にはならないから、浜辺へ辿りつくなり爆豪を睨みつける。
「いきなり何すんの? 信じらんない!」
「思ってたより戻ってくんの早かったな」
「これでもヒーローですから!」
立ち上がる気力もなく、這いつくばるように爆豪の隣へ転がる。仰向けに空を仰げば、濃い青の空を背に立ったまま私を見下ろす爆豪がよく見える。
服や髪から滴る水滴が、乾いた浜辺の砂を湿らせていく。もう何を言われようとこのままの格好で爆豪の車に乗ってやる。
「あー、もうびしょびしょだし、寒いし、最悪」
「それが現実だろ」
からっとしていて、だけど透き通った風が吹き抜けた。その風に乗るようにして降ってきた爆豪の言葉に眉をひそめる。
「え?」
「こんなとこで暮らせっかよ。情緒も夢もいらねェ、現実見ろや」
息を吸ったまま、吐き出すことを忘れそうになる。
海の中で暮らしたい。爆豪は情緒も夢もない。そんなこと何気なく口にした。
そして、ついさっきまで私がいた海の中。水族館で憧れた水槽の中の世界とはまるで違う。色も光もなく、塩辛くて呼吸ができない、それが現実。情緒や夢などと自分で作り上げたものに逃げこんで、目の前の現実からずっと逃げてきた。だって、まっすぐに見つめたら、目が眩んでしまうから。
爆豪が私の隣にしゃがみこむ。その動作がやけにゆっくりと見えた。
「目ェ逸らすな。余所見しねぇで前だけ見ときゃ、ただの道だろ。どこまでだって歩けるわ」
ああ、と口から漏れ出す嘆息。腕を顔の上へ乗せると強い潮の香りがした。
波の音があの日の雨音と混ざる。傘を打つ雨粒。まるで二人きりのように感じた雨に煙る狭い世界。真っ直ぐすぎる道に目が眩みそうになると語った私の声。
腕を退けると突き抜けるほどの青色が目に刺さった。ああ、なんて広く美しい世界なんだろう。
彼に対して私がしてきたことを許されるとは思わない。だけど、もう目の前の現実から逃げたりなどせず、不安も恐怖も自分で背負うと誓うから、私はヒーローで在り続けてもいいだろうか。爆豪が見せてくれた、つれてきてくれた、この美しいものを守っていきたいから。
「爆豪」
「ん」
「私、これからたぶん、爆豪のこと好きになる。生まれてはじめての純粋で、本気の恋として」
一瞬、虚を突かれたように目を丸くした爆豪が、口の端を吊り上げ、瞳を細めて笑った。
「奇遇だな、俺もだわ」
遠くから海鳥の鳴き声がする。潮騒のざわめき。もうすぐ燃えるように暑い季節が始まろうとしている。
藍色探し
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