ヴァージンロードは花嫁の人生を表すのだという。
そう教えてくれたのは、最近結婚した中学時代の同級生だった。
チャペルの扉を開けた瞬間から、眩い光の溢れるこの世界へと舞い降り、一歩ずつ、確かに歩んできた道を辿っていく。そして、その先に待っているのが、そんな人生をすべて捧げて共に生きていく人なのだ。

駅前に新しく出来たカフェで、ミントの浮いたジンジャエールを掻き混ぜながら、うっとりと幸せを噛み締めるように語る彼女。店内を流れるジャズがゆったりと鼓膜を揺らす。彼女へ祝福の言葉を送りつつ、心の奥底がひどくざわついていた。

長く付き合っている恋人がいると言うと、早く結婚しなよと勧められることが増えてきた。結婚、とその先のことを考えようとすると思考が止まる。
ここまで生きてくれば、どこかしらで耳にしたことのある結婚の誓い。──病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も、死がふたりを分かつまで。
それはなんて重い言葉だろうと、そう思ってしまう。関係を深めれば深めるほど、約束を交わせば交わすほど、いつかくる別れが悲しいものになるのに、どうしてそれを幸せと呼べるのだろう。



△ ▼ △ ▼






「……ごめん」

焦凍と向かい合って座るリビングに、重苦しい私の声がぼとりと落ちた。
焦凍の独立を機に始めた同棲。そこでの暮らしも長くなってきたし、互いの収入も安定してきたということで、思い切って間取りも前より広く、駅にも近いこの部屋に引っ越してきて二年。最初はよそよそしかった部屋が、自然と私たちに馴染むようになってきた。
その部屋の中で今、明らかに異質な光を放つ、目の前のリングケース。焦凍の指がわずかに震える。

「それは、俺とは結婚したくねぇってことか」
「したくない、は……なんか違うけど、できないと思う」

左右で色の違う瞳が大きく見開かれていて、今にも転がり落ちてしまいそう。だけど、そんな表情にもなって当たり前かもしれない。焦凍は今、プロポーズを断られたのだ。他でもない、私によって。

帰ってきたときから、やけにそわそわとしていて、何か言いたいことがあるんだろうなとは思っていた。そして、夕食の洗い物も終わりソファに座ると、洗濯物を畳んでくれていた焦凍が隣へとやってきた。
──俺と結婚してくれ。
焦凍らしいストレートな愛の言葉。心臓が一回一回貼りつくように鼓動した。焦凍の取り出したリングケースの蓋が開いて、銀の指輪が現れる。
真っ直ぐなリングの中心に、花開くように凛と佇む宝石。緊張はしているけど、断られるとは思っていないのだろう焦凍の瞳に幸せの色を見たとき、どうしようもなく込み上げたのは拒絶だった。

「できない? じゃあ、いつかはできんのかよ」
「……分かんない。だけど、これから変わっていくようなものでもないと思う」

急に空気が質量を変えてしまったのではないか、と疑うくらいに部屋中が重くなった。これを吸ったら肺から潰れて立ち上がれなくなってしまう気がして、呼吸を躊躇い、息が浅くなる。
このまま一生終わらないかのようにも思えた沈黙を、先に断ち切ったのは焦凍だった。

「それは、俺たちがヒーローだからか」

唇を開いて、だけど何も出てこない言葉の代わりに、一度だけ頷く。それを見た焦凍は瞳を伏せて、手に持っていたリングケースをテーブルへと置いた。
同棲を始めるときに二人で選んだオーク材のテーブルは、あの頃より少し色が褪せてきている。

「ヒーローでも、結婚してる人たちはいくらでもいんだろ」
「うん……分かってるけど、私はできない」

できない。そこにだけ、やけに力がこもって、はっきりとした声になってしまった。焦凍の唇が震えている。
卒業直前、当たって砕けろとでもいう意気込みで好きだと伝えた。照れたようにはにかみながら、俺もだと答えてくれたあの日を忘れたわけでも、気持ちが変わったわけでもない。
幸せで楽しいことばかりではなかった。悲しかったことも、怒ったこともたくさんあった。そうやって築き上げてきた今。

視線を部屋へと巡らす。焦凍が畳みかけの洗濯物の山。ふたりで出かけた観光地で買った変な人形。さっき私が洗い終えたばかりの食器が水切りカゴから雫を滴らせている。

「今のままじゃ、ダメなのかな」
「俺は……!」

焦凍の言葉がそれ以上声になることはなかった。悔しそうに何かを噛み殺す焦凍の口元。胸が刺されたように痛むのに、冗談だと言って頷いてあげることはできない。

「一度、お互いちゃんと考えよう」

なんて都合のいい言葉だろう。考えたところで何が変わるでもないと分かっているくせに、この場の居心地の悪さから逃げるためだけに口にした。
焦凍もそんな私の考えが伝わったのだろう、傷ついたように顔を歪めて、何も言わずに立ち上がる。もう何年も見つめてきたはずの後ろ姿が、どうしようもなく遠かった。

それから、お互い特に口を開くこともなく、それでも同じベッドで眠った。背中に感じる焦凍の気配。特に身じろぎをする様子はないけど、きっと眠れてはいないだろう。だって、私も眠れそうにはないのだから。

瞼を閉じると、あのダイヤの輝きが染み付いてしまったみたいに眩しくていられない。あれがおもちゃの指輪だったら良かったのにと、ふと考えてしまう。チープなプラスチックで出来た指輪でするプロポーズごっこ。それなら私は喜んで手を差し出し、だけど私たちの愛は本物だと信じて泣くことができた。

どうして焦凍は、急にプロポーズなんてしようと思ったのだろう。私たちの間に結婚の話題が出たことは今までなかった。外で誰にそろそろ結婚したらと余計なことを言われようと、それを決して焦凍の前には持ち出さない。そうしていれば、ずっとこの夢に浸っていられるような気がしていた。
焦凍だって別に、誰かの言葉によって私と結婚しようと思ったわけではないことも分かっている。きっと、相当思い悩んで、その上で私と結婚したいと思ってくれた。

だけど別に、結婚という形でなくても、これからもずっと共に過ごすことは出来たのではないだろうか。それだけなら私だって同じくらいに望んでいるのに。
一緒にいたいと、そうお互いに思えるのなら、それでいいじゃないか。結婚をすれば私たちは夫婦になって、そこに求められる責任も多くなるだろう。
一人と一人としての私たちが、明確な二人として定義される。それは確かに喜ばしいことだけど、その分いつかくる別れを重くつらくさせるものだ。

「命ある限り」や「死がふたりを分かつまで」なんて大仰に誓ってしまえば、その先でどちらかは二人で背負ってきたものを一人で請け負わなくてはいけなくなってしまう。
そしてきっと、先にいなくなるのは私の方なのだ。

カーテンを透かして部屋に差し込む月明かりに向けて腕を伸ばす。その腕に刻まれた、痛々しい傷の痕。ヒーローになってすぐ、街で遭遇したヴィランから子どもを庇って受けた傷だった。無事にヴィランを倒すことはできたものの、一生消えることはないだろうと言われた。
そうした傷が大なり小なり、この身体には無数にある。

今まで幾度となく経験した死地。比喩ではなく本気で「死ぬかと思った」と感じた回数は、もう数えようとも思わない。
いつか、こういうことの積み重なりで、あっさり死ぬんだろうな、と時々思う。悲しみも恐怖もなく、私がこの世界からいなくなる想像を、あまりにも容易くできてしまう。

だけど、焦凍がいない世界を思い描くことはできない。あの燃え立つ炎も凍てつく氷も、永遠に消えることはないんじゃないかって本気で思ってしまう。だから、私の思い描く未来では、いつだって私が最初にいなくなる。

焦凍に話せば、怒って否定されるだろうし、現実は何が起こるか分からないことは理解している。それでも、空想の中でさえ幸せな結末を辿れない。そんな私が、幸せにしてくれなんて願うのは、あまりにおこがましいじゃないか。







浅い眠りと覚醒を繰り返しながら時間が過ぎ、明け方になってようやく少しだけまともに眠ることができた。アラームの音で目を覚ますと、隣にはもう焦凍の姿はなかった。
重い身体を引きずるようにして寝室を出ると、キッチンには既に着替えも済ました焦凍の姿がある。窓から射し込む朝日の眩しさに、瞳を眇めながら口を開いた。

「おはよう」
「ああ、おはよう。コーヒー飲むか?」
「うん、ありがとう」

頷けば、焦凍がカウンターに置いてあるコーヒーメーカーの電源を押す。自分ではたいして飲みもしないくせに、私が好きだからという理由だけで、職場で薦められたものを仕事帰りに買ってきてくれた。豆だけは私の気に入っているものを自分で買ってくるようにしているけど、それを使った回数は私よりも焦凍の方がずっと多いのは間違いない。

こういうもので良かったのに、と思ってしまう。あんな身につけるだけの立派な指輪じゃなくて、日常をひとつひとつ組み立てていくような些細なもの。それだけで私はこんなに幸せだった。

「今日は麗日たちと会ってくるんだろ」
「うん、新しくできたイタリアン食べてくるね。焦凍は出勤でしょ? 気をつけてね」

私の前にコーヒーのマグカップを置きながら、自分の分の湯のみを持ってテーブルの向かいに焦凍が座る。いつもの朝と変わりないやりとり。だけど、気まずさを拭おうと平常を装うことで、また新たな居心地の悪さが生まれている。そうと知ってて、平気なふりを止めるわけにはいかなかった。

昨夜、プロポーズを断った。焦凍の覚悟を踏みにじった。そして、その気持ちが変わることはないと断言してしまった。
私たちの望むものは今、どうしようもなく相容れないまま、すれ違っている。このまま進んだ行く先がどこに辿りつくのかなんて、あまりにも分かりきってしまっていた。
それでも、そんな結末を見たくないから、私も焦凍も必死で目を逸らしているんだ。




△ ▼ △ ▼






お茶子が見つけたというオープンしたてのカフェは、もともとはただの蔵だった建物を改装して出来たという和風モダンな店だった。
天井の梁はそのままに、壁は白い漆喰で塗り直され、光取りの小窓からはあたたかな日差しが射し込んでくる。インテリアは、海外から取り寄せたアンティークらしく、案内された猫脚のテーブルをはじめ、シックなデザインの物が多かった。
異なる文化のほどよく入り混じる空間で、運ばれてきたばかりのラザニアを冷ますために軽く混ぜながら、今日集まることのできた三人の視線を受け止める。

「え! 轟くんのプロポーズ断ったん?」

ヒーローとしてのキャリアが増すに連れて、かつてのように女子全員で集まるということも気軽には難しくなってきた。それでも、とりあえず集まれる人と召集がかけられたりする。今日のメンバーはお茶子、透、響香、そして私の四人だ。
席についてメニューを決めるやいなや焦凍との近況を尋ねられ、三人の表情の奥に潜んだ好奇心の気配に、何かしらを知っているのだと察した。だから素直に、昨日プロポーズをされて断ったと話せば、一瞬の間の後、三人の「えっ」と漏れ出した驚きの声が重なった。

「……やっぱ、なんか知ってた?」

三人が気まずげに顔を見合わせて、ごめんと前置きしてから口を開いたのは響香だった。

「ウチらは直接は聞いてないけど、男子たちには色々相談してたみたいだよ」
「えー、なんで断っちゃったの? 二人付き合って長いよね」

私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる透のまっすぐな言葉に、たじろぐように目を逸らしてしまう。カウンターに飾られた色染めされた鮮やかなカスミソウのドライフラワーをしばらく見つめる。

「……今のまま、長くいれてるなら、それでいいって思ってたの」

思っていたというよりは、無理矢理に言い聞かせていたという方が正しいかもしれない。このままではいられないと思ったとき、前か後ろにしか道がなくて、前に進むのを怖じけづくなら、後ろに下がるしかなくなってしまうから。
そうやって目の前の分かれ道を恐れて立ち止まっていたのを、先に踏み出す勇気があったのが焦凍だった。そして、一緒に行こうと差し出された手を取ることが出来なかった。

「今だって好きで幸せで、これからだって変わらないと思えるのに、敢えて関係の名前を変えたり、約束を増やす必要なんてあるのかな。こんな生活してるとさ、どうしたってある日突然死ぬかも、って思うことってあるじゃん? そのとき、そういうものを重荷にさせてしまう気がするし、たぶん、そんなこと考えてしまうなら結婚なんて相応しくない」

視線を戻すと響香と目が合う。困った顔をさせてしまった。楽しい女子会で、なんて辛気臭い話をしてしまったのだろうと慌てて謝ろうとしたとき、タンとグラスを机に置く軽快な音が耳に届く。

「それってさ、重荷じゃないよ!」
「え?」
「そりゃさ、今のヤバかったなーってときもあるけどさ、そんなの誰にだって何が起きるかなんてわかんないじゃん。みんな、ちゃんと怖いんだよ。そのうえで、好きな人との揺るぎない繋がりが欲しいんだよ」

揺るぎない繋がり。その言葉を心の中でだけ呟いてみる。カランとグラスの中の氷が少し溶けた音が、テーブルの上から届いたのか、それともどこか別の場所から響いたのか判断がつかなかった。

「どんだけ長く付き合ってても、恋人って結局さ、世の中のルール的な扱いは他人じゃん。轟も、そういうところ確かにしたかったんじゃない?」
「それに、いつかそういう日が来ても、夫婦として認められてきたことって重荷じゃなくて、一緒にいた証明みたいなものだと思うよ」

響香とお茶子の柔らかな微笑み。昨夜、あんなにも焦凍を拒絶し傷つけたのに、簡単に揺らいでしまいそうになる自分の心を必死で引き止める。
違う、そうじゃない、と心の中の私が首を振る。
だって、私の世界の私は、焦凍よりも必ず先に死んでしまう。焦凍を悲しませてしまう。それはどんなに二人の関係を強固に結び付けたところで、幸せにしてやれなかったと責任を負わせてしまう。

「別にさ、幸せになるためだけに結婚すんじゃないんじゃないかな」

口に出してはいないはずなのに、見透かしたみたいなタイミングのいい言葉に驚いて顔を上げる。三人の表情は、重苦しい私の胸の内と反対に明るかった。

「わかるー! 必ず幸せにする、ってよく言うけど、そこまで求めてないけどーって思うよね」
「幸せになりたいから結婚するんじゃなくて、一緒にいたら幸せになれると思ったから結婚するのにね」
「わっ、めっちゃ名言」

目の前の眩しいくらいに明るい光景を見つめながら、あと少しで何か心の奥底の感情が答えを見つけ出せる予感がした。ずっと立ちすくんで前に進めずにいたもの。そこに、わずかなヒビがはいったような感触を確かに掴んだ。








結局、今日の女子会はあのまま人生観話に花が咲き、なんかめちゃくちゃ深い話になったねと、爆笑しながら解散となった。
焦凍に見送られて部屋を出たとき、あの気まずさから逃げるつもりで足を急いだ。だけど、今は焦凍と向き合うための必要な時間だったようにも思えている。

帰ったらもう一度、焦凍と話し合おう。
昨日は一方的に私が話を終わらせてしまって、焦凍がどんな思いでいたのかなんて話を聞くこともできなかった。そして私も、勝手に怯えて、怖がっている胸のうちを話そうとも思えなかった。だけど、本当はちゃんと全部聞いてもらわなくてはいけないけなかったはずだった。

ふと、石畳の上で足が止まる。目の前にそびえる赤い大鳥居とその先へ長く続く階段。鬱蒼とした鎮守の森が、森閑と厳かな静謐さをまとって佇んでいる。


──昔、この神社の境内で結婚式の前撮り写真の撮影風景を見たことがあった。緑陰が濃くなる、今のような初夏の季節だった。

真っ白なドレスに身を包み、華やかなその裾をふわりと風に揺れらす花嫁と、グレーのタキシード姿で幸せそうに彼女を見つめる花婿。
カメラマンの指示に従って、手を繋いだり、互いを見つめあったりと、少し気恥ずかしそうな表情を浮かべながら、カメラのシャッターが切られるのを待つ二人。

「綺麗だね」
「そうだな」

目の前の光景の眩しさに思わず零れてしまった声に、焦凍が相槌を打つ。ふと、その顔を見上げたら、焦凍も自然と私の方を見た。葉の隙間から射し込む木漏れ日が、柔らかく焦凍を照らし出す。

「なまえも、似合うだろうな」

柔らかく幸せを湛えた瞳。なんの衒いもない無防備な微笑み。だけどそれは、毎朝、私のためにコーヒーを淹れてくれるときと同じ、特別に珍しいものでもなかった。


ああ、と声にならない吐息が唇の隙間から漏れ出す。
すっかり忘れていたやりとり。勝手に仰々しく捉えて、身構えてしまっていたけど、焦凍にとって、私と結婚し祝福を受けることだって日常のひとつだったのかもしれない。
私のために買ったコーヒーメーカーで、毎朝コーヒーを淹れてくれるのと同じ、日常を組み立てる些細なもの。
そして、それを変わらずに守っていくという覚悟が、あの指輪だったのだと、最初から決まりきっていた当然の事実のように胸の奥に落ちていった。

早く焦凍に会いたい。
そう思ったら、何かが心の奥底で弾けた気がした。凝り固まった不安や後ろめたさが瓦解する。
二人が別々の命である以上、いつか必ずやってくる悲しい別れ。そのとき胸に去来するのは、決して幸せな感情ではないだろう。だけど、それなら不幸だったのかと問われたら、そこまで築き上げた軌跡が絶対に、それを認めさせたりなどしないのだ。

そのとき、背後から大きな爆発音と悲鳴が響いた。
ヒーローとしての鍛え上げてきた身体が、その音に咄嗟に動く。爆ぜるように駆け出す足。ビル群に挟まれた大通り。煙立つ砂埃の向こう側で、大鎌を振り回すヴィランがいた。
その切っ先が、まだ幼い女の子に目掛けて振り下ろされる。泣き叫ぶ母親の悲鳴。間に合う、そう思ったときにはもう、子どもを庇うように飛び出していた。

「……ヘェ、せっかく向こうで騒ぎを起こしたのに、こんなにも早くヒーローが駆けつけるなんてなァ」

鎌の切っ先が肩を掠める。そして、血の吹き出した傷口から思いっきり地面に打ち付ける形で受身を取ったせいで、身体に走った痛み。呻き声を押し殺して、胸に抱えた子どもを母親の元へと走らせる。傷口がじわじわと熱い。一度だけ気取られないように深く息を吐き出して、ねっとりとこちらを睨みつけているヴィランと対峙する。

「そうだよ。ツイてないから、さっさと諦めた方がいいんじゃない?」

焦りを悟られないように、平然を装って悠々と笑ってみせる。
ヴィランのセリフと、野次馬の中から聞こえた「ここでもかよ!」という叫びに、この近くのどこかで別の事件が起きていることは察した。つまり、ここの管轄のヒーローはそっちに手間を取られていて、応援が来るには時間がかかる。

視線をそっと相手の持つ大鎌へと向ける。間合いのでかい近接武器。そして、今日はオフだった私は当然ヒーローコスチュームを身につけてはおらず、普段は腰に携えているはずの武器はない。
武器を使うことありきでの私の戦闘方法。サポート会社に作ってもらった私専用の携帯武器は、オフの日だって必ず鞄に入れておくようにしている。
だけど、その鞄も子どもを助けたときに肩紐を切られて、ヴィランを挟んだ向こう側へと吹き飛ばされてしまっている。

完全に私の形勢不利。本来であれば、撤退して立て直すか応援を待つ。だけど、ここにいるのは私ひとりで、市民の避難誘導をしてくれるヒーローもいない。背後に立った人だかりのまなざしが、私に逃げることを許してはくれない。

そっと唇を噛むと血の味がした。口の端もわずかに切っていたらしい。
絶体絶命の万事休すってやつじゃん。
焦りと緊張を押し隠しながら、わざと軽口を叩くように心の中で呟いてみる。

──いつか、こういうことの積み重なりで、あっさり死ぬんだろうなと時々思う。

焦凍からプロポーズを受けた夜、何気なく頭をよぎった言葉。それが狙い澄ましたように呼び起こされて、慌てて打ち消した。

それからは、とにかく応戦するのが精一杯だった。振り回される切っ先を避けながら、こちらを見守る群衆へとヴィランの目が向かないように動く。
右肩だけではなく身体のあちこちに切り傷が出来て、血が滲み出していた。心配そうな誰かの「ヤバそうじゃない?」「他のヒーローはまだかよ」というざわめきが耳に届く。

そう思うなら、さっさと避難して、他の誰かを呼んできて欲しい。だけど、そんなことを指示できる余裕など与えて貰えず、何度も隙を見て取りに向かおうとする鞄の中の武器にも辿り着けていない。思っていたよりずっと、手練た相手だった。
体力もそろそろ限界で、肩で息をすることを隠しきれなくなっている。それを見透かしたようにヴィランが口元を歪める。

「どうした? 随分としんどそうだな」

言い返そうと口を開きはしたものの、唇の隙間から漏れ出すのは、荒い呼吸と喘ぐような呻き声だけで言葉にならない。
自分で思っていたよりも、ずっと追い詰められている。酸欠と貧血で、少しずつ視界も狭まってきている。諦めるわけじゃない。ヒーローを目指す学び舎で、そんなこと教わってこなかった。
だけど、諦めようがなかろうが、死ぬときは死ぬのだということは、ここまでヒーローやってきて、実地で学んでしまった。

後悔と謝罪の念が頭の片隅に湧き上がってくる。今ここで私が死ねば、残された焦凍はさぞかし悲しむことだろう。そこに恋人や夫婦という関係の名前の有無なんて関係なかった。私たちはもう、それだけのものを積み重ねてきてしまっていた。

焦凍がいない世界を上手く思い描けないのは、その強さゆえじゃなくて、失うことの恐れからだった。だから、焦凍の中でだってきっと、私のいない世界を想像なんて出来ないのだろう。お互いに、絶対に失いたくないと思うくらいに、お互いが好きで必要不可欠だった。

そそり立つ道の高さに怯えるのなら、後ろであれば下がることも出来るのだと思っていた。だけど現実は、後ろはもう悲しみの崖だった。後戻り出来ないのなら、あとはもう前に進むしかない。どんなに険しくても、とにかく上を目指せば、最後には見晴らしのいい景色を見ることが出来るかもしれないのだから。
そんな簡単なことに、こんなに追い詰められるまで気づけなかった。

「生きて帰れたら、まずは謝らないとだなぁ」

ぼそりと呟いて、自分を鼓舞するため、無理やりに口の端を吊り上げて笑顔を作る。そうして、もう一度、目の前の敵を睨みつけるつもりだった。

「なまえ!」

鮮やかな炎の渦のような苛烈な声が耳に届いた。真っ赤な紅の色。だけど、目の前に現れたのは凍てつく氷の柱だった。透き通る純潔の白。

「……焦凍」

掠れる声で名前を呼ぶ。そんな私を見つめる瞳は、焦りと驚きで揺れている。自分では見ることは出来ないけれど、今の私はさぞかし痛々しい姿だろう。
焦凍の視線が、瓦礫の傍に落ちたままの私の鞄へと移る。休みの日はそこに武器をしまっていることを知っている焦凍は、それだけでこの状況を理解したらしい。何か言いたげに口元を歪めて、それからすぐに敵へと向き直った。

「ちょっと待ってろ、すぐ終わらせる。そしたら手当してやるから」

無理やりに立ち続けていた足の力が抜ける。へたり込むようにその場にしゃがみこむけれど、もう不安はなかった。気を張ることで鈍くなっていた痛みが一気に押し寄せて、つい顔をしかめる。だけど、私の前に立つ焦凍の背中からは目を逸らさない。

そして、私があんなに手こずったことが嘘のような呆気なさで決着はついた。私だって、ちゃんと準備をして武器も持っていれば、もう少し……と言い訳めいた言葉が喉元まで出てきそうになる。
そうやって拗ねてみせる余裕ができたのも、来てくれたのが焦凍だったおかげだ。たまたま騒ぎを聞きつけて応援に来たのか、あるいは何かしらで私が応戦していることを知って駆けつけたのか。
どちらかは知らないけど、随分と心配させてしまったことだろう。ヴィランを拘束して駆け寄ってくる焦凍の表情は、まだ強ばったままだ。

「大丈夫か?」
「うん、なんとか。色々と痛いけど」
「携帯用の武器、ホルダーも作ってもらった方がいいんじゃねえか?」
「それは、本当に痛感した。検討する」

あるいは、騒ぎを聞いた時点で鞄から取り出しておくべきだった。だけどそうなると、最初に子どもを助けたときの動作に遅れが出ていたかもしれない。
武器を媒介する必要がある以上、こうしたケースも色々と考え直す必要があるな、と口元に手を当てて、あれこれと浮かび上がる反省点を反芻する。

「なあ」

そんな思考を遮るような焦凍の声に顔を上げる。座り込んだ私に向けて差し伸べられる手。そのまなざしは真剣だった。

「やっぱ、俺はなまえと結婚したい。夫婦なんだって胸張って、二人で生きていきてェ」

時間が止まったかと思った。
私たちの行く末を見守り、焦凍の活躍に歓声をあげていたギャラリーまでもが静まり返り、そして、ドッと沸き立った。
そんなこと気にとめる様子もない焦凍の顔を呆然と見つめていると、少しだけ不安そうに瞳が伏せられる。

「幸せにしてやれるか、わかんねェけど」

そういうことじゃない、と言いたくなる。
私はこんなボロボロの姿だし、砂埃の舞い上がる事件現場だし、人目はあるし、どう見てもプロポーズなんてしている場合じゃない。
だけど、よく考えたら昨日だって、お互いただの部屋着だったし、焦凍は洗濯物を畳んでる途中だった。別に高級なレストランで夜景を見ながらとかを望んでるわけじゃないけど、それにしても引き締まらない状況だった。男子たちに色々と相談していたと聞いたけど、何をアドバイスされたんだと思ったら、堪らず笑いが込み上げてしまった。
力の抜けた笑みを浮かべて、焦凍が差し出してくれた手を取る。

「いいよ、絶対に不幸にはならないから」

こんな群衆の目の前だったのだから、当たり前と言えば当たり前だけど、後日、私たちの結婚報道は各メディアを通じて世間を大いに騒がせることになった。
傷だらけの私が、差し伸べられた焦凍の手に自分の手を重ねる写真。それがあちらこちらへと出回っていた。テレビの番組でまで大きく映し出された写真に、あまりの恥ずかしさで顔を覆う。そんな私の隣で、焦凍は随分と満足げな顔をしていた。




願わくば最後まで、君の幸福たることを


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