あれから三ヶ月が経ち脚の傷はもうすっかり塞がり、今はまだ薄く残る痕もしだいに消えると言われていた。けれど爆豪くんと再会したという事実までが消えてなくなるわけもなく、宣言通りにご飯の呼び出しを受けることがもう何度かあった。
とはいえ、爆豪くんは大活躍中のヒーローなわけで、そうそう頻繁に私みたいな一般人と出かけるわけにも行かない。その代わりというのか、思ってた以上にマメに連絡が送られてきていた。
そして困ったことに、私もそれをすでに慣れてきたどころか少し楽しみにすらなってきてしまっている。だって、あの爆豪くんが私に送るために昼食の写真撮ったりしてるんだって思うと普通におもしろい。
「あれ……? もしかして、みょうじさん?」
仕事中に送られてきていた美味しかったらしい麻婆豆腐の写真を見てクスッと笑うと、突然名前を呼ばれた。慌てて顔を上げると、見慣れたというか一方的によく知る顔が私を見つめている。うちの中学出身のもう一人の有名人。
「み、緑谷くん」
「やっぱり! この間の事件は大変だったね。ほら、銀行の」
「あっ、うん。やっぱりアレ、私って分かるよね……」
事件の後、ニュース見たよ、と色々な人から連絡が来た。たいして仲良くもなかったはずの同級生までわざわざ連絡してきたのは、私の身を案じてというよりも助けてくれたヒーローが爆豪くんだったからというのが見え透いていて、うんざりしながら当たり障りのない返信をする羽目になった。
そんな想いが多少顔に出てしまった私を察してか、緑谷くんは困ったように一緒に苦笑してくれる。
「まあ、けっこう大きく取り上げられてたしね。それに僕はかっちゃんからもみょうじさんに会ったって聞いたから」
「えっ、爆豪くん、そんなことまで話すの?」
中学時代のことを思い返すと、緑谷くんと爆豪くんは決して友好的な関係とは言いがたかった。それでも二人とも同じ高校に進み、たまにメディアで一緒にいるところを見かける感じ、昔ほど険悪でもないんだろうなとは、ぼんやりと思っていた。だけど、まさか私の話までするような仲だとは思いもしなかった。
だって、記憶の中の二人の間に漂う空気はそう簡単に払拭できるものじゃない。それは恐らくかつての同級生たちも同じで、あのトークグループでは爆豪くんの名前はよく話題に上がるものの緑谷くんは滅多に出ない。それでも緑谷くんは爆豪くんと違って律儀にきちんと欠席の連絡を毎回していた。
食い気味に爆豪くんの名前に反応してしまった私に、緑谷くんは少しだけ何か言いにくそうな表情をしていて、それからゆっくりと私を見つめ直した。
「みょうじさんってこの後、時間あったりする? 仕事があった帰りなんだけど、あまりこの辺って来ないしせっかくなら何処かで夕ご飯でも食べてこうと思ってたんだ。もしよかったら、一緒にどうかな?」
「え、うん。私も仕事終わりだからいいけど……逆に私が一緒で大丈夫?」
「もちろんだよ! でもお店とかは分からないから……」
「あっ、それは私が知ってるとこでよかったらそこに行こうよ」
思いがけない緑谷くんからの提案に戸惑いながら、断る理由もなく頷きながら緑谷くんと一緒に行っても大丈夫そうなお店を探す。まさかこんな短期間で、同級生とはいえ人気ヒーロー二人と関わることになるとは人生何があるか分からない。
何度か職場の付き合いできたことのあるレストランは、今日が週の半ばということもあってすんなりと入ることが出来た。案内された個室に入ったところで緑谷くんはマスクと帽子を外す。
「大変だよね、人気ヒーロー。街歩くのも気を使うでしょ」
「うーん、でも応援してもらえるのも、声をかけてもらえるのも嬉しいよ」
照れたように笑う緑谷くん。爆豪くんはよくモブがうるさかっただの、モブのせいで来るのが遅れただのよく怒っているので、まるで雲泥の差だ。
そんな私の視線を察してか、開いていたメニューから顔を上げた緑谷くんと目が合う。
「かっちゃんとも時々こうやってご飯食べに行ったりするんだよね?」
「……ほとんど強制的な呼び出しだけどね。でも、そんなことまで話してるなんて、なんか恥ずかしい」
「話してくれたっていうか、この間たまたま現場が一緒になったときにかっちゃんが猫の写真撮ってるのに驚いてさ。猫好きだったのって訊いたらみょうじさんに送るためだわって怒鳴られた」
そういえばド派手な戦闘の後にも関わらず呑気に昼寝をしていたという猫の写真が送られてきたことがあった。あの時か、と思い出したのが表情に出てしまったせいか緑谷くんはわずかに微笑んで、それから少しだけ真面目な顔をした。
「みょうじさん、昔かっちゃんのこと好きだったでしょ?」
「え、なんで」
「いつも見てたから」
その言葉に一度だけ心臓が大きく脈を打つ。
爆豪くんを見ていた。見たいと意識するのではなく、呼吸をするような自然さで勝気に笑う彼の横顔を追っていた。それでいて、生まれてからずっと夜に潜むことを知っていた生き物みたいに人の目を盗むことも得意だった。騒がしい教室の中のあの一瞬だけは、世界で私だけが爆豪くんを見つめていた。そうだと思っていたのに。
「……緑谷くん、こわ」
「え! ご、ごめん、そうだよね。こんなこと言われるの気持ち悪いよね!」
「いや、絶対に誰にも気づかれてないと思ってたからびっくりしちゃって」
つい口から漏れてしまった本音に、緑谷くんが思っていた以上に反応するものだから私の方が申し訳ない気持ちになってしまう。
「……みょうじさん、うちの中学から誰も進学しなかった高校に行ったでしょ?」
「あ、うん。県内ではあるけどね。ちょうど引越しの話が出てたから、そこから近いとこがいいなって思って」
「それで、そのことを誰にも教えなかった」
「あー……そう言われると、話したことなかったかも。特に聞かれなかったし」
だんだんと鮮明になっていく朧気だった中学時代のやりとり。あの頃、恋愛話は徹底的に聞き役にまわるように振舞った結果、それ以外の場面でも何かと話を聞かされるということが多かった気がする。人の話を聞くばかりで自分の話を求められることはなく、同級生たちと少しだけ距離を感じていた。とはいえ、進学する高校すら誰にも尋ねられないとは、なかなかに可哀想だったなと今さらながらに少し傷つく。
そんな私のひそかな傷心など知らない緑谷くんは、わずかにためらうように視線をさ迷わせた。
「雄英入ってしばらくしてから、かっちゃん、僕にまで君の高校知らないか聞いてきたんだよ」
なんでそんなことを、と思うと同時に理解もしてしまう。今日、偶然とはいえ出会ったことをきっかけに緑谷くんが私を食事に誘った理由。伝えたかったのはたぶん、こういうことだったんだろう。
私が中学時代に爆豪くんのことを好きだったこと、そして雄英に入ってから爆豪くんが私に対して何かしらの特別な感情を抱いていることを知っていた緑谷くん。そして、今回の事件での再会の後、私たちが関係を拗らせていることを察して、さらにその原因が爆豪くんの素直じゃないところのせいだって考えたんだろう。だから、余計なお世話をやきたくなってしまった。
だけど、違うんだよ。この関係をややこしくしているのは、たぶん私の方。
「私、中学のとき最初は緑谷くんみたいな人を好きになるんだろうなって思ってたの」
「え!」
「あ、ごめん。実際にはならなかったんだけど……」
「う、うん。そうだよね、分かってるんだけど、そんなこと言われるとなんかドキドキしちゃって……」
たどたどしく挙動不審な緑谷くんを見ていると、自然と表情が柔らかくなってしまう。ほとんど会話をしたことがなかった爆豪くんと違って、緑谷くんとはそれなりに話をしたことがあった。その時もこんなふうに彼を見ているとあたたかな気持ちになっていた。それでも、恋にはなってくれなかった。
「目立たないけど優しくて、何かにひたむきで、それから……絶対にヒーローにはならなさそうな男の子を好きになりたかったの」
少しだけ間を持たせてしまった私の言葉に、緑谷くんが複雑そうに眉を下げた。どんなに周りに馬鹿にされても彼がヒーローに憧れ続けていたことは知っている。だから、こんなことを言うのは申し訳ないとは思うけど昔の話だと思って許して欲しい。それに緑谷くんはそんな私の予想に反して、今や立派すぎるヒーローになっているわけだし。
「爆豪くんは態度こそあれだったけど、彼がヒーローになるだろうなって、あの頃からみんな思ってたでしょ。だから、好きになってしまったことが信じられなかった」
「ヒーローが嫌いなの?」
「ううん、嫌いじゃないよ。普通にすごいなって思うし、頑張って欲しいなって応援もする」
ただ、そばにいて欲しくない。そのことがどうやったら伝わるのか言葉を選びながら、緑谷くんの手に視線を落とした。
昔とは違う傷だらけの手。体つきだって、ただの成長とだけでは片付けられないほどに逞しくなっている。誰かを守るために傷つくことを厭わない人。顔を上げて、そんな彼の双眸を見つめ直す。
「ヒーローやってたらやっぱり人が死ぬところって見たことあるんでしょ?」
優しさが滲み出すような緑谷くんの表情がわずかに悲しみに翳る。きっと掴み損ねた人たちのことを思い出させてしまったんだろう。少し意地悪な言い方だったな、と思いながらも、先に私の内側に入り込もうとしてきたのは緑谷くんなのだからと反省はしない。
「私は人が死ぬ瞬間が怖い」
一字一句、心の中の言葉をなぞるように声に出す。
死を恐れない人の方が少ないのは分かっているけど、たぶん、それよりずっと根強く私の中に残る恐怖。心に秘めたまま、忘れたくても忘れられない記憶の話──
まだ個性が発現したばかりの幼い頃、初めて人が死ぬ瞬間を見た。
母と買い物に出かけた帰り道、赤信号を無視して猛スピードで突っ込んできた車が横断歩道を渡っていた人を撥ねた。何かのひしゃげる音、周囲の人の悲鳴、高く宙に舞った人影が地面に落ちて動かなくなった。母はすぐに私を隠すようにして抱き抱えてくれたけど、まだ個性を上手くコントールできていない私ははっきりと見てしまった。
「さっきまで規則的に動いていたはずの線がまっすぐな直線になるの。もう絶対に動くことのない、ゼロの直線。傷だらけの身体とか、流れ出す真っ赤な血とかより、私にとってはあの線が何よりもの死ぬってことだった」
休み時間のたびに前日のニュースで報じられていたヒーローのこととか、クラスメイトの個性のこととかをノートに書き記していたのを知っているから、緑谷くんが私の個性のことを覚えていると疑っていない。
心臓の脈拍。人が生きているという証拠。病院などの生死と向き合うような特殊な場所ではなく、誰かと笑いあったり愛し合ったりするような日常の中であの線を意識したことのある人はそう多くはないだろう。だからこの恐怖は私にしか分かりえないもので、見てしまった以上もう逃げることの出来ないもの。
「もしも好きな人のあんな瞬間を見ちゃったら、私、本当に生きていけなくなると思う」
緑谷くんの何を言うべきか困っていることがありありと伝わる様子を見て薄く微笑む。こんな話を聞かせる必要なんてなかったのかもしれない。テキトーにやりすごすことだって出来たのは分かってる。ただ、話してしまいたくなった。
この数ヶ月間で爆豪くんと顔を合わせたり、言葉を交わしたりする中で、捨て置いてきたはずの感情が再び芽吹いていくのを感じていた。爆豪くんから届く些細な日常の繋がり。思い違いではないと断言された特別な感情。それらに揺らいでしまいそうになるたびに、胸をよぎる不安。
だから、もう一度こうやって言葉にすることで覚悟をし直そうと思ってしまった。
「ヒーローじゃなければ安心できるってわけじゃないのはわかってる。だけどさ、自分からそういう危険の中に飛び込んでいったりはしないでしょ? だから、私はヒーローとは……爆豪くんとは、付き合わない」
カラン、とお冷のグラスの中の氷が溶けて崩れる。緑谷くんとの間に落ちた気まずい沈黙。どちらから次に口を開くべきか窺いあっているうちに、なかなか注文をしない私たちの様子を見に来た店員さんの登場でこの話はうやむやに溶けて消えていった。
△ ▼ △ ▼
緑谷くんと食事に行った数日後、仕事を終えて駅へ向かう道を歩き出したところでやけに視線を感じた。不思議に思って辺りを見回すと、壁にもたれるように立つ見慣れた姿を見つけて盛大に肩が跳ね上がる。
「えっ、なんで? あっ、私もしかして連絡返し忘れてた……? いや、違うの、今日ちょっと忙しくて」
何も言わないまま私を睨みつけるように見ているのは爆豪くんだ。一応目立たないように目深く帽子をかぶってるけど、そうだと分かって見ればもう爆豪くんでしかない。
頭をよぎるのは当然、連絡を無視したら職場に乗り込むというあの脅しだ。予定外のトラブルが午前中に相次いだせいで昼休みの時間が短くなり、慌てて昼食だけをとったせいでスマホの確認をしていなかった。当然、そのあとは勤務中だし、さっきも更衣室にいたのが苦手な先輩だったから急いで出てきてしまった。
つまり、今日は半日近くスマホに触れておらず、おそらくその間に爆豪くんからの連絡が来ていたのだろう。こんなとこで待ち伏せされているのもかなり心臓に悪いけれど、乗り込まれる前でよかったと慌ててスマホを確認する。だけど、来ていたのは溜まり続ける一方の公式アカウントからのお知らせだけで、爆豪くんからのメッセージはない。思わず首を傾げると、爆豪くんは苛立たしげに舌打ちを零した。
「ちゃんとバレねぇようにして来てやったろ。おまえのその挙動不審のせいで騒ぎになっても俺のせいじゃねぇからな」
人通りの多い往来を意識してか、いつもよりひそめられた声。道の端とはいえ、そう言われると人目を集めているような気がして慌てて姿勢を正す。そんな私を置いて、爆豪くんは背中を向けて歩き出してしまった。
向かう方向は駅とは逆で、ここに現れた目的も聞いていないのに追いかけるのも気が引けて立ち止まったままでいると、首だけをこちらに向けた爆豪くんは深くため息を吐く。
「おい、行くぞ」
「ちょっと、行くってどこに……」
「ウチ」
「なんで?」
思わず大きくなった声に返答はなく、再び歩き出してしまった爆豪くんの背中。それを呆然と見つめていたものの、結局は黙って後を追ってしまう。こんな私の都合も考えない横暴なんて無視してしまえばいいって分かっていても、彼を見てしまえば身体が勝手に動いてしまう。それが余計に虚しかった。
爆豪くんの後を少し距離をあけてついていくと、辿り着いたのは近くのパーキングだった。そこに停めてあった車の助手席に促されるままに乗り込まされ、気がつけば本当に爆豪くんの住むマンションの部屋までやって来てしまった。
途中で冷静になって流石にマズいと思ったものの、走り続ける車の中ではどうすることも出来ず、マンションの駐車場で車を降りたところで丁寧に今回の申し出を辞する旨を述べれば「は?」というドスの効いた声で一蹴された。
「おまえでも着れそうな俺の服貸したるから、その堅苦しい格好着替えてこい」
「いや、すぐに帰るから……」
「あ? 今から飯作ってやるから食ってけや」
着替えを無理やり持たされ洗面所に押し込まれてしまえば選択肢は他になく、おずおずと通勤用のジャケットに手をかける。まさか爆豪くんの部屋に来ることになり、やましいことはないとはいえ服まで着替える日が来るとは思いもしなかった。
爆豪くんが用意してくれたのはTシャツと紐でサイズの調整が可能なスウェットで、嗅ぎなれない柔軟剤の香りにどぎまぎしながら袖を通した。
そうしてすっかりラフな格好となって想像以上に広くて綺麗なリビングへと戻ってくると、爆豪くんは本当にキッチンに立って料理をしているようだった。そっと手元を覗き込むと、私がやるよりもずっと手際よく野菜がカットされていて衝撃を受ける。
「あの……手伝う?」
「いいから座っとけ。ただし、テレビは付けんな、携帯も触んな」
「だから何で? 本当にただ座らせとくだけなら何か手伝わせてよ」
私の反応が満足するものだったのか、爆豪くんは軽く鼻で笑ってから食器棚からお皿を出せと指示を出した。棚を開けて言われた通りのお皿を探しながら、背後の爆豪くんの様子を窺う。
どうして今日はこうして家まで連れてこられて手料理を振る舞われているのか。その理由とまでは言わないけれど、きっかけにはなんとなく心当たりはあった。
緑谷くんと会ってからの数日間、なんだかんだ毎日のように来ていた爆豪くんからの連絡が来ていない。
爆豪くんが作ってくれた夕食は文句の付けようもないくらいに美味しくて、逆にこの完璧さに文句を言ってもいいのではないかなんてことを考えながらぺろりと平らげた。それから洗い物や片付けを手伝って、今はリビングで向かい合うように座っている。
目の前に置いてある爆豪くんの淹れてくれたコーヒーの湯気がゆらゆら揺れるのを眺めながら、ゆっくりと口を開く。
「緑谷くんから、なんか聞いた?」
「……アイツが俺に隠し事なんて出来ると思うなよ」
隠す気もなく不機嫌さを滲ませた声で爆豪くんが呟く。思わず緑谷くんを不憫に思ってしまうけど、たぶん無理やり聞き出したというわけではないはずだ。
あの日、爆豪くんに秘密にしてくれとは言わなかった。それはつまり、話してもいいと言ったつもりで、緑谷くんならそんな私の意思を察してくれていたと思う。
爆豪くんとは付き合う気がないこと。本人に面と向かって宣言したはずなのに突き返されてしまったあの日のセリフを、緑谷くんを通してもう一度、爆豪くんに突きつけたつもりだった。
そして、ここ数日の連絡がなかったことで彼もまたそれを理解してくれたのだと思っていたのに。
「個性使って俺のこと見てみろ」
「え?」
「さっさとしろや」
どうして急にそんなことを命じられたのか分からず、それでも戸惑いながら言われた通りに爆豪くんに向けて意識を集中する。誰かに対して個性を使うなんて、一体いつ以来だろう。爆豪くんの心臓のあるあたりに浮かび上がる一定の脈拍を打ち続ける波形。
「生きてんだろ」
「そりゃ……生きてるよ」
これで心臓動いてなかったらホラーすぎるよって冗談めかして言ってしまいたいのに、身体に絡みつく空気が重すぎてそんな軽口すら口にすることができない。
「俺はそう簡単にゃ死なねェよ」
それは死ねないっていう宣言のようにも聞こえた。爆豪くんの緋色の双眸が見つめているのは間違いなく私だ。それなのに、その声は私のさらに向こう、ずっと遠いところへと発されたあまりに強い意志に感じてしまう。
爆豪くんはヒーローだ。再会してからずっと、そのことを忘れたことはない。だけど、一緒にご飯を食べて何気ない会話で笑いあっているとき、爆豪くんを爆豪くんとしてしか見れていなかった。だからまた、彼を好きになってしまった。
「なんで、私なの?」
「は?」
「爆豪くんならもっと色んな人と付き合えるじゃん」
震えそうになる手を無理やりに膝の上で握りしめる。
爆豪くんが中学時代からずっと私のことだけが好きだったとまでは思い上がっていない。高校時代や大人になってから、彼をヒーローとしても愛してくれる人がいたはずだ。
私だって何人か付き合ってきた人がいる。ヒーローについて、小さい頃は夢見たこともあるけど実際になろうとは思わなかったよって笑ってくれる人たち。
お互いにそういう人と付き合っているべきなのに、どうして初恋のまま終われたものを無理やりに引きずり出してくるんだろう。ぐちゃぐちゃの感情で胸の中がひしめき合って呼吸が苦しい。
「ヒーローとは絶対付き合いたくないって言って平穏を求めて生きる女よりさ、爆豪くんのことを、ダイナマイトのことを、応援して支えくれる素敵な人」
「おまえがいいんだろ」
即座に返された迷いのない言葉に心臓が潰れそうになる。そんなことを言われて嬉しくないはずがない。だって、私はもう爆豪くんが好きだ。だけど、彼はどこまでもヒーローで、私のためだけには生きてくれない。
あの頃の爆豪くんはまだ強さの証明みたいにヒーローを目指していたのに、こうして再会した彼は本当に誰かを守るためのヒーローになってしまっていた。昨日も今日も誰かのために力を使って、明日も明後日も、未来までずっと、爆豪くんはヒーローで在り続けてしまう。
「じゃあさ、私がヒーロー辞めたら付き合うって言ったら辞めてくれるの?」
「……辞めねぇ」
分かりきっていた答えに思わず浮かべた笑みはひどく卑屈なものだっただろう。頷いて欲しかったなんて思っているわけじゃない。ただ、思い知りたかった。私たちがどこまでも分かり合えないっていう事実を。
「それなら、私たちに可能性はないよ。私もヒーローとは付き合わないって意志は曲げない」
「おまえが嫌なのはヒーローじゃなくて、簡単に自分の前からいなくなるかもしれねェ男だろ。俺は違う。だから、おまえを好きなのもやめねぇよ」
平行線の感情のぶつけ合い。テーブルの上に置かれたまま一度も口をつけていないコーヒーはすっかりと冷めきってしまい、黒々とした液体には情けない私の顔が反射して映っている。
爆豪くんからはっきりと好きと言葉にされたのは初めてで、こんな状況にも関わらず反応してしまうことが悔しい。
分かっている。私の方は突き放していると言いながら、爆豪くんと過ごせる時間をどこか期待してしまっている自分もいたことを。
今日だってこんなふうに家までついてきて、手料理まで振る舞われたことに少し浮かれて、こんな中途半端な関係を作り上げている。付き合う気はないと言いながら、嫌いとまで言ってしまう勇気も覚悟もない。
口を噤んだまま俯いた私を横目に、爆豪くんはポケットに入れていたスマホを確認した。それから一度大きく息を吐き出して立ち上がる。
「帰るぞ、送る」
そう言われれば追いすがる理由もなく、再び洗面所を借りて自分の服に着替えている間、爆豪くんは飲まれることのなかった二人分のマグカップを洗い、来たとき同様に彼の車で家まで送ってくれた。
結局、どうして爆豪くんがわざわざ私を職場まで迎えに来たのか。それはどうやら、私の住んでいる地域で事件があって、犯人のヴィランが逃走中だったかららしい。オフだった爆豪くんがそれを知って私を迎えに来たこと、送ると言った爆豪くんが直前に確認したのは犯人を捕まえたことを知らせる緑谷くんからの連絡だったことは後日、その緑谷くんから聞いた。
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