夢を見た。
そこには正義も悪意もなく、ただ世界があった。
個性など必要なく、おそらくは存在すらしない。不変を約束された永遠の日常の連続。背負うべきものなど何もない自由さで隣を見上げれば、当たり前みたいに彼が立っている。
ここでなら、私たちはずっと一緒にいられるだろうか。



瞼を開くとまず視界に入ったのは見慣れたモスグリーンのカーテンだった。失望を振り払うように寝返りを打って天井を見上げていたら、ここが夢ではなく現実なんだという実感がじわじわと染み込んでくる。
身体の奥底、芯のあたりにまだわずかにたゆたう夢の残滓。それを手繰り寄せるように抱きしめて、肺の酸素すべて吐き出すくらいに深く息をついた。

「……身体、痛い」

昨夜の出動から数時間しか眠れていない身体は節々がバキバキと悲鳴をあげている。ここ数日、何かと事件に駆り出されることが多くて、積もり積もった疲労感がどうにも抜けきらない。つらい、と口に出してしまいそうになって慌てて口を噤んだ。こんなことを思ってはいけない。

気持ちをリセットするためにベッドから起き上がりベランダへと出る。眼前に広がる朝の陽光に照らされた町。笑いあって登校する小学生の集団、その横を通り抜ける自転車や駅へと急ぐ人たち。家々の庭に咲く小さな花や公園の木々。
手すりに寄りかかりながらそんな景色を眺めていたら、掃除のために庭先に出てきた大家さんと目があった。

「あら、おはよう。昨日も大変だったみたいねぇ」
「おはようございます。夜中にバタバタ帰ってきちゃってすみません」
「いいのいいの。私たちのために頑張ってくれてるんだから。そうそう、煮物作ってあるから後で取りにおいで」
「やったー! ありがとうございます」

両手をあげて喜べば、大家さんも優しく微笑んでくれる。このいつもと変わらぬ平穏は、間違いなく私が守り抜いたものだ。そして、これからも守っていきたいと心から思える。だから、大丈夫。そう思える私はまだヒーローでいられている。





△ ▼ △ ▼






土埃が舞い上がり、空全体が紗をかけたように薄ぼんやりとしている。太陽のまわりには暈が出ていて、思わず手のひらをかざしてしまう。透け出す血潮。自然とあの有名な童謡のことを思い出した。

「みんなみんな生きているんだ……ってね」

少し前までヴィランと相対していたせいか、その生きているということがじわりと身に染みていく。
ここしばらく、このあたり一帯で個性を使っての暴走事件を起こしていたヴィランとの戦闘。街中を逃げ回る敵を挟み撃ちにすることに成功しはしたものの、周辺の建物にまで被害が及んでしまったせいで今はその撤去作業中だ。

ヒーローになりたいと初めて思った日がいつだったかは覚えていない。小さいときから抱いた憧れ。その延長線上の今日。
それでも時々、自分がここにいることもヒーローをやっていることも、不思議でしょうがないと思ってしまうときがある。学生時代から何度も思い知った自分の未熟さ。正直に言うなら今もまだ自分の足でここに立っているという自覚を持ち切れないでいる。

「オイ! こんなとこで何サボってんだ」
「ばっ……あ、いや、ダイナマイト」

背後から響いた怒声に慌てて振り返る。声で分かりはしたけど、瓦礫の山の上から私を見下ろしていたのは今回の事件で協力を要請することになった爆豪くんだ。呼び慣れない彼のヒーロー名にどぎまぎしていたら、瓦礫を踏み鳴らして爆豪くんが近づいてくる。

「それよりさっきのなんだ。反応がおせェ!」
「あ、あれはなるべく引きつけようと思って……」
「それで攻撃くらってたら意味ねェだろ」
「ちょっと掠っただけじゃん」

爆豪くんが睨みつけるように視線を向けた私の手の甲には、今もまだうっすらと血が滲んでいる。これくらいヒーローやっていたら日常茶飯事だと思うのだけど、爆豪くんであったならこの程度の事件では当然こんな怪我すらしないんだろう。そう思うと言い返すこともできない。
別の場所で作業をしている所長や先輩たちのかけ声がやけに遠くに感じる。口を噤んだ私に対して爆豪くんもそれ以上何も言ったりはせず、それなのにここから離れようともしない。
いつの間にか俯いてしまっていた視線をそっと爆豪くんへと向けたら、思いがけず目が合ってしまって息を飲む。

「あっ、えっと……久しぶり、だね」
「……おう」

今さらこんな挨拶をしているなんて少し滑稽だと思いつつ、咄嗟に出てしまったのだから仕方ない。
実際、爆豪くんとこうして顔を合わせるのは卒業してから初めてだ。元クラスメイトで、元恋人の爆豪くん。当然、気まずいに決まってる。

高校時代の私たちが一時期でも付き合ったことがあることを知っているのは、かつてのクラスメイトの中でもほんの一部で、当然お互いの事務所が知っているはずもない。まあ、知られていたところでそんな私情が考慮されるわけはないのだけど、それでも今回のことが決まったときは少なからず人選を恨んだ。

別にひどく揉めたような別れ方ではなかった。あれ以上どうすることも出来ず、お互いに納得した結果だと思っている。
だけど結局、元通りの関係に戻ることも出来ず、別れてからの学生生活で二人だけで会話をした記憶はほとんどない。
市街地から離れた今の事務所に就職したのは、決して爆豪くんとあまり関わらないことを狙ったわけじゃないけど、結果的に顔を合わせる心配がほとんどなくなったことには安心していた。

今思えば、あの頃私たちが付き合っていたということ自体が夢みたいだ。
入学するなり学年の中でも特に話題の人物だった爆豪くん。そんな彼を意識するようになったのはなかば必然で、恋であることを自覚したのは二年生の後半だった。そして、水を飲みに降りていった深夜の共同スペースにたまたま爆豪くんがいて、ぽろっと零してしまった好意を彼に拾い上げられる奇跡が起きたのが三年生の春。

「ダイナマイトは相変わらずすごいね。ニュースで毎日のように見てる気がする」
「ハッ、あたりめーだろ」

謙遜なんてすることもなく横柄に笑う爆豪くん。
ずっと彼のこういうところに恋をしていた。私には持てない自信も覚悟も平然と背負って、それでいてさらに強さを求める後ろ姿が格好よかった。だから、付き合うことができたときは、そんな彼に認められたような気がしてひどく浮かれた。

だけど、彼の隣で感じるのは幸福よりも重圧だった。ちょうど最終学年にもなって、ヒーローとしての今後の身の振り方を真剣に考えないといけない時期だったというのも今思えばよくなかったのかもしれない。
ヒーローとして最前線に立っていくことが決まっているかのような人を誰よりも近くで見てしまって、憧れは劣等感に変わり、覚悟は恐怖に塗りつぶされた。
あの頃の私には、理想のヒーローを目指すことと幸せな恋を築くことを両立する余裕なんてなかった。

「てめェは痩せたな」
「えっ! ほんと?」
「喜んでんじゃねェぞ、やつれたっつってんだ! メシちゃんと食ってんのか!」
「食べてる食べてる! 昨日は煮物食べたよ」

昨日の朝、部屋に戻って顔を洗ってから大家さんの部屋を訪ねて分けてもらった煮物。筑前煮だった。タッパーいっぱいに詰めてくれたそれを昼と夜に分けて食べきった。美味しかった。

「他は?」
「えっ……?」

ここ数日の忙しさで冷蔵庫の中は空っぽで、インスタントの味噌汁すら在庫がなかった。お米くらい炊こうかと思ったけど、そんなわずかな労力すら厭わしくて、レンジで温め直すこともせず筑前煮だけを食べた。そもそも最後にちゃんとしたご飯を食べたのはいつだっけ。
もちろん、そんなことを馬鹿正直に話そうと思ったわけではない。ただ、つい最近の食生活を思い返してしまって、それがよくなかった。

爆豪くんは苛立たしげに舌打ちをして、私に向けてビシッと人差し指を突き出した。

「今夜、メシ行くぞ」

それだけ言って、来たとき同様に足を踏み鳴らして去っていく背中を呆然と見送る。まるで死刑宣告でもされるヴィランの気分だった。






瓦礫の処理を済ませると、事務所に戻って報告書などの書類関係の作業を終わらせることになる。ここ数日で溜まった書類は相当の量なのに夕刻には帰宅を許されたのはひとえに先輩たちの優しさ、もとい愛ある意地悪だ。
現場で解散となった爆豪くんは帰り際に私に向けて、予約したのだという店の名前と時間を言い捨てて行った。釘を刺された「遅れんじゃねェぞ」とドスの効いた声に返事もできないまま取り残された私に、まわりにいた先輩たちも唖然としていたもののスグにニヤリと笑みを浮かべ始めた。

事務所に戻って作業をしながらも爆豪くんと食事に行くことをからかわれ、うんざりしていたら所長に怒られていたのでわりと胸がすいた。しかしそんな所長すら夕方、爆豪くんに一方的な約束を取り付けられた時間の一時間前になった途端に私にだけ帰っていいと言うのだから内心では面白がっていたに決まっている。
アットホームを売りにするウチの事務所ではあるけれど、後輩のプライベートにまで干渉するのは如何なものかと口にできない憤懣を抱えて歩いていたら、爆豪くんに指定された店までついてしまう。
緊張しながら初めて入る店の敷居をまたげば、爆豪くんはもう来ていると奥の部屋に案内された。

「……お、お疲れさま」

おずおずと本日二度目の挨拶を口にしながら個室の襖を閉める。爆豪くんは特に何を言うでもなく、視線だけで向かいの席に座るように促した。

「何食う?」
「あー……うん、なんでも食べれるから任せてもいい?」

開いたまま向けられたメニューを一通り眺めてから返せば、特に文句もなく「ん」と短く頷いた爆豪くんが店員さんを呼んだ。
地産の食品をメインに扱う小料理店。気構えるほど堅苦しくもなく、だけど醸し出される品の良さ。私が誰かを食事に誘うときは駅前に乱立するチェーン店の居酒屋で済ませてしまうので、よくこんな店知ってるなと感心してしまう。
それにたぶん、食事の質とか栄養面も気にしてこの店を選んでくれたんだと思う。あれから何度か鏡を確認してみたりもしたけど、やつれたと言われても自分ではいまいち分からなかった。

「ここ、来たことあんの?」
「何度か。最初は瀬呂が選んだ」

瀬呂くんか、と納得して頷きながら、久しぶに聞いた名前に懐かしさを覚える。女子たちの集まりにはちょくちょく参加しているけれど、クラス全体となるとまったく顔を出していないので、一度だけ現場が一緒になったことのある飯田くんや上鳴くん以外の男の子とは卒業以来会っていない。

「最近、てめェんとこの事務所忙しいんだろ」
「あー、うん。市街地離れてるからまわりにあまりヒーロー事務所がないぶん、全部うちの案件だからね。時々、こういう時期があるらしいよ」

何件かの出動要請が相次いで、それに伴う事務処理業務の多さにもうんざりしていたとき、近くを通った先輩が訳知り顔で「春はヴィランがよくでるからさ」と笑ったのが、たいして日も経っていないはずなのに今や遠い日のことに感じる。

「手が回らなくなったら他のヒーローにも遠慮なく頼るとは聞いてたけど、まさかあのダイナマイトが来てくれることになるとは思わなかった」

卒業以来、同業であっても爆豪くんと顔を合わすことがなかったのは単純に管轄が違うということに加えて、私たちの能力がかけ離れているからというのが大きいことはわかっていた。根本的に扱っている事件が違う。だから、このままもう会うこともないのかもな、なんて楽観的に考えてさえいたのに。

そこでちょうど店員さんがドリンクも料理を運んできたことで一度会話が途切れる。机の上にいくつかの料理が並んだところで、互いの手元のグラスを何を言うでもなく軽く合わせる。コン、と澄んだ音がして、揺れる琥珀色の液体を胃へと流し込む。

「あー、仕事後の一杯は生き返るねぇ」
「飲みすぎんじゃねぇぞ。メインはメシだからな」
「分かってるよ。食べる食べる」

小洒落たお皿に盛り付けられた唐揚げをひとつ取って口に入れると、サクッと衣が崩れて肉汁が溢れる。美味しいな、と思いながらメニューを見ると「店主こだわりの捌き方!」なんて文字が目に入った。

毎日きちんと餌を与えられて世話をされたヒヨコはきっと、成長した自分の首を締められる運命が待っているなんて考えたこともないだろう。私たちもかつては卵やヒヨっ子と呼ばれていた。そうだとすると、今は自由に大空を飛びまわる成鳥になれたということになるんだろうか。
もしかしたら今もまだ、ただの過程なのかもしれない。私の首に手をかけようとする見えない手を想像しそうになって、慌てて首を振る。

「何やってんだよ」
「あー、ごめん。気にしないで」

怪訝そうな爆豪くんにへらりと笑い返して、誤魔化すように今度は牛すじ煮込みへと箸を伸ばす。

「これ美味しいね。好きだけど、こういうとこ来ないと食べられないもんなぁ」
「煮込むだけなんだから、ンな難しくねぇよ」
「そりゃ爆豪くんが作ったら、さぞ美味しく作れるだろうけどさ」
「じゃあ、今度食いに来るか」

何てことないように言われたセリフに、思わずぽかんと間抜けな顔で見返す。普通に考えたらこの場限りの冗談だと思えるのだけど、あの爆豪くんがそんなことを言うようには思えないし、からかう様子もない表情を見ていると、どうしたって真に受けてしまう。

「いやいや、それは流石におかしいでしょ。いくらクラスメイトだったからって、そこまで図々しく頼めないよ」
「……ただのクラスメイトじゃねぇだろ」

また心臓が大きく脈を打つ。昔の私たちのことに触れるのはタブーだってお互いに暗黙の了解がなされていると思っていたのに、こんなにいとも容易く突っ込んでこられるとは予想外だった。だけど、それはつまり、私たちが付き合ってたことなんて爆豪くんにとっては何ともない思い出話として語れるくらいの出来事だってことだ。そう思うと無性に虚しくなってしまう。

「それなら、なおさらじゃない?」

やっぱり無理にでも事務所にしがみついて、爆豪くんには今日は行けないと連絡をいれるべきだった。促されるままに仕事も放り出してここに来てしまったのは、心のどこかで今もまだ爆豪くんに気にかけて貰えたことに浮かれていたからに他ならない。
夢にまで見てしまうような彼との遠い過去を、一瞬でも取り戻せるような気がしてしまった自分が恥ずかしくて、その浅はかさに腹が立つ。

爆豪くんの顔を見ていられなくて、俯いて唇を噛み締めていたら不意に名前を呼ばれた。久しぶりに耳にした彼の真剣な声音に導かれるように顔を上げる。

「おまえ、俺と別れて後悔したことあんのかよ」

テーブルの上のグラスが照明を反射して輝く。目の前の爆豪くんは私のよく知る勝気で自信に満ちた表情ではなくて、初めて目にするどことない揺らぎがあった。どうしてそんなことを訊いてくるのかも、爆豪くんの表情の理由も分からなくて視線が定まらない。
漆喰の壁、黒檀の柱、板張りの天井。本当にここは現実なんだろうか。もしかしたら私はまだ、昨日の夢の続きを見ているのかもしれない。

──爆豪くんと私の終わりの日。
あれは確か例年よりも遅い初雪が観測された次の日で、うっすらと積もる雪と急激な寒さにみんなが忙しくなく寮へと帰って行った後だった。
ふたりきりで話したいと爆豪くんを引き留めた静かな教室で別れて欲しいと口にしたとき、彼がどんな顔をしていたかは思い出せない。ただ、校舎の外でやけにはしゃいだ生徒の声だけがいやに耳に残っていた。

そうして私たちの関係は元恋人となり、お互いを腫れ物のように扱いながら高校生活を卒業した。だからそう、後悔なんて。
後悔というのは掴み損ねた何かを惜しむことだ。爆豪くんと共に恋人としてもヒーローとしても幸せになっていく未来。あのとき私が失ったのは、そんな手の届くはずもない夢だった。だから、後悔にすらなることができなかった。

「……後悔なんてしたことないよ。爆豪くんだってないでしょ?」
「は? あるわ。死ぬほどしたに決まってんだろ、舐めんな」

食い気味に被せられた声にも、その内容にも驚いて言葉が出ない。
だってあの日、別れたいと言った私に爆豪くんはふたつ返事で頷いたはずだ。付き合ってみたはいいものの、私たちが恋人らしいことをしたことなんて数えられるほどしかなくて、私が彼と一緒にはいられないと思ったのとはまた別の理由で爆豪くんもまた私と別れたかったんだろうなって思っていた。それなのに、爆豪くんは一体何を言っているの。

「好きなやつに、あんな絶望しきったような顔で、俺といたらヒーローでいられなくなるなんて言われて、食い下がれるわけねぇんだよ」

そう吐き捨てるなり、苛立たしげに歪んだ爆豪くんの顔。
ああ、そうだ。あの日の私は確かに、爆豪くんといたら立ち止まってしまうと思っていた。眩しい光には必ず暗い影が伴う。私はその薄闇の中で、自分の矮小さばかりを思い知らされることが苦しかった。いっそ立ち止まってしまおうと何度も思った。
だけど、ここで足を止めたらもう二度と立ち上がれなくなることが怖くて藻掻き続けた。そして、最後には限界を悟って逃げ出すことを決めた。

「今はちゃんと、ヒーローやれてんだろ」
「……うん、なんとかやれてると思う。たまに自信なくしたりもするけど」

とてもじゃないけどまだまだ一人前には程遠くて、キツイことが重なると心が折れそうになることがないとはいえない。それでも、確かに私は今日までヒーローとして歩き続けてきた。

「その割には楽しそうにやってんだろ」
「え?」
「事務所のやつら、信頼してんだろ。それにおまえもちゃんと認められてるみてぇだし」

爆豪くんがもうすっかり泡の減ったビールを傾ける。それから切りつけるみたいに私の方に視線を向けてきて、思わずピンと背筋を伸ばす。

「そのアパートの大家から煮物だのなんだの世話焼かれてんのだって、おまえだからだろ。いくらヒーローでも、誰にもかんでもわざわざ作んねェよ、めんどくせぇ」

きょとん、と効果音でも立てられそうなくらい爆豪くんを見て目を丸くしたら、ふいと顔を逸らされてしまう。まるで照れ隠しみたいに。
ああ、と心の中で呟く。私は今励まされているんだ。あるいは、褒められた。そうだった。爆豪くんはこうやって、怒ったような声でひどく優しいことを言う人だった。
今思えば学生時代から爆豪くんはこんなふうに私に言葉をかけてくれていた。それなのに自分のことで精一杯で、彼に対するコンプレックスで押しつぶされそうだった私はそのすべてを取りこぼしてきてしまっていた。

「だからまあ、今日は正直安心した」
「安心?」
「別れたっつーのに、卒業まで無理したみてぇにしか笑わねぇし、俺がおまえのこと駄目にしたんじゃねェかって」
「……爆豪くん」

窓から射し込む月明かりで青く白んだ共同スペース。蛇口からポタリと雫が落ちてシンクに跳ねるのがやけにゆっくりと見えた。私に気づいた爆豪くんが振り返って、その深紅の瞳を見つめたとき、気がついたら好きだと口にしていた。
あのときの私は、爆豪くんになりたかった。この人みたいなヒーローにならないと私の価値なんてないんだって、本気で思っていた。だから彼を好きになることで、憧れを取り込もうとした。
爆豪くんと別れてからもそんな憧れに追いすがろうとする私は簡単には消えてくれなくて、ふとした拍子に顔を出しては、テレビの向こうの彼と自分を比較して卑下にしてきた。

私は私でしかなくて、爆豪くんになるなんて出来るはずない。彼の隣で同じ速度で呼吸をしなくたって、私のペースで息継ぎをすることだって出来たのに、息を切らせた酸欠状態みたいに周りの見えなくなっていた私はそんな簡単なことにも気づけなかった。

それに、爆豪くんがそんなことを考えていたこともまったく知らなかった。身勝手に好きだと想いを告げて、自分で自分を追い込んで、また一方的に別れを切り出して、そのせいで少なからず爆豪くんを傷つけていることさえ思い至ることも出来なかった。

ごめんね、って伝えようとして口を開きかけたとき、それよりも早く爆豪くんがキッと私を睨みつける。

「だからって、飯もロクに食わねぇでやつれた顔してんのがいいとは言ってんじゃねぇからな! 自分の体調管理くらい万全にしやがれ!」
「あっ、はい!以後気をつけます!」

反射的に背筋を伸ばして頷けば、爆豪くんは満足気にふんと鼻を鳴らした。なんとなくしんみりとしたいいムードだったのに一瞬で爆破された感じだ。
だけど、それも面白くなってきて肩を揺らして笑ってしまう。爆豪くんの前でこんなふうに笑える日が来るなんて思わなかった。これかもずっと爆豪くんの面影への劣等感を抱いて生きていくんだなんて覚悟していたのに、すっかり気が楽になってしまった。

「こういう距離なら爆豪くんともこんなに上手く話せるのにね。あの頃は近づきすぎちゃった」

根本から間違えてしまっていた。そのせいで随分と迷惑をかけてしまったけど、今日こうやって誘ってもらえて本当に良かった。都合がいいことはわかってるけど、今からならやり直していけるような気がしている。次のクラスの集まりにも、きっと参加出来る。

「今日は本当にありがとう。まあ、今さらですが、改めてこれからは友だちとしてよろしく」
「は? 嫌に決まってんだろ、ふざけんな」

予想外の拒絶。言葉を失って呆然としている私のことなんてお構いなしに、爆豪くんは苛立たしげに舌打ちをした。

「おまえと別れて死ぬほど後悔したっつったの忘れたんか。未練もなきゃンなもんしねぇし、わざわざ今日も誘ったりしねーんだよ! だいたい、あのころはてめぇが恋だの憧れだの混同してるからあんなことになってんだろ!」

怒涛に浴びせられる情報を処理しきれず、声を出すことも出来ないまま眉間に皺を寄せて私を怒鳴り続ける爆豪くんを見つめる。
それに今確かに恋だの憧れだのと言った。今日やっと私が気づけたことに、爆豪くんはもっと早くから分かっていたんだ。私たちがどうして上手くいかなかったのか。別れを告げたあの日のことを、ひとりで反芻して過ごしたことがあるんだろうか。
そう思ったら場違いに胸の奥が甘く疼いてしまう。

「いいか、こっからじっくり、今度こそ俺から離れようなんて思わねぇくらい完膚なきまでに惚れさせたるから覚悟しとけ」

それだけ言い切ると爆豪くんはグラスに残っていたビールを飲みきってダンっと机に置く。そして、店員さんを呼んで追加の注文を始めてしまった。私は相変わらず何も言えないまま置いてきぼりだ。だけど、心のどこかで始まりの予感を感じている。
やり直していくのだと思った。間違っていた恋をなかったことにして、あるべき級友としての関係で。

だけど、もしかしたら、まったく別の道を歩くことができるんだろうか。ここから始まる新しい恋として。
そこでなら、こんな正義も悪意も溢れた現実でだって、あんな夢を見なくたって、私たちはずっと一緒にいられるんだろうか。



言って聞かせて分かり合うまで


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